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今週の「思いつくまま・・」2018年9月17日(月) |
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ニューヨークに赴任するときに言われたことが、アメリカ人とは、政治と宗教の話をするなということでした。そこまで、深く付き合うこともありませんでしたが、考え方が対立する、大統領選だったり、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の話など、感覚的にもやばいなとは思いました。 日本でも、同じことだと思います。いろいろな宗旨の葬儀に出席しましたが、神仏はもちろん、仏教の中でも、歴史的なこともあり、流儀が違って、戸惑ったことが何度もあります。なぜ、そうなったのかとは聞くわけにもいきませんし、地域での風習の違いもあり、簡単ではありません。 選挙も、東京23区にいると、遠い世界のこと、テレビや新聞で触れたり、せいぜいが、街頭演説で手を振っている候補者を見ることですが、地方勤務の時には、もっと身近なことだということに気づきました。ひょっとすると、誰が誰に入れたかもわかりそうな感じがしました。 それでも、小選挙区になる前は、同じ党が複数の候補者を立てることもあり、政党間だけでなく、政党内でも主義主張に相違があったものです。その上、地域の慣習だとか、それまでのしがらみとかもあり、政策論争だけで決まるということでもなく、予想もつかない結果になったこともあったようです。 小選挙区になってからは、政党内で候補者が一本化することになり、政党内では、普通は政策も一本化されることになります。党内で、反論されること、同じ組織内に異分子がいること、好ましくない報道など、言語道断という本音が出てきてしまう危険がありそうです。 最初のころは、昔を引きづっていますので、政策にもバラエティがありますが、アメリカ以上に同調圧力が強い日本のこと、知らず知らずのうちに、主義主張が一本化され、少数意見が許されないということになります。ということで、日本でも、政治の話は避けた方が良さそうですが。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年9月10日(月) |
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今年の夏は、酷暑と台風が交互に来て、9月4日(火)には、関西圏を中心に台風の影響が直撃し、広範囲に停電をしたと思ったら、今度は、北海道で大地震。こちらも、大規模な停電となり、関西同様、多くの地域で3日以上も、電気なしの生活を強いられることになりました。 20年前からブログを書き続けていますが、ニューヨークでの9.11から始まり、10年後の2011年には東日本大震災、2017年の熊本・大分大地震、今回の北海道を始めとする日本列島大地震が起こったほか、各地で、豪雨や台風による大規模な水害が起こりました。 海外でも、いろいろなところでいろいろなことが起こっています。火山の噴火や、戦争や動乱、テロなどが加わります。過度に神経質になって、どこにも行かないとか、何もしなくても、地震は待ってくれません。いつ何時、何かが起こると思っていた方が良さそうです。 備えあれば、憂いなしと言いますが、たぶん、備えがあっても、憂いは消えてくれません。備えなければ憂いばかりということだけが、真実だと思っています。自分のことを考えても、準備が十分かと言われると、自信はありません。心配すれば、キリがありません。 自分の健康や年齢を考えると、ますます、不安がつのってしまいます。完璧に心配せず、楽観的になるのも難しそうですが、心配し過ぎないようにしたいと思うようにしました。フェイスブックに、停電の街の空の星のきれいさを投稿してくれた知人がいます。 予定していた、来週の北海道も、差し支えがあるかどうかを考えながら、可能な限り、予定通りに行こうかと思っています。迷惑になるのであれば当然やめるようにしますが、大地震に負けていない顔に会いたいと思います。せめて、気持ちだけは災害に負けないようにしたいと思います。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年9月3日(月) |
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台風と酷暑が交互に来たような8月が終わりましたが、9月になっても、同じような感じです。1日の防災の日が終わると、来週には、17年目の9月11日がやってき
ます。阪神大震災の朝5時46分、東日本大震災の14時46分、9.11はニューヨーク時間で、8時46分(日本時間で21時46分)。 一年ごとに、記憶は薄れていきますが、忘れません。ニューヨークでの大事件は、オフィスの窓から、ほぼライブ状態でした。飛行機がビルに突っ込んだ瞬間は、2回と も、気づきませんでした。おそらく、窓の外を見ていなかった時だったと思います。 第2次世界大戦が終わって7年後に生まれ、ものごころついた頃から、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、クルマが、家の中に登場していきました。高度成長時代、54年前の東 京オリンピック、48年前の大阪万博、右肩上がりで、数年前にみた、アメリカのホームドラマの生活が現実になりました。 初めて意識した自然災害は、伊勢湾台風でした。あのころは、東京でも、ゼロメートル地帯と言われた地域では、しょっちゅう水害に襲われていましたが、伊勢湾台風の ニュースはショックでした。関東大震災は、戦争同様、すでに歴史上の事実でしたが、伊勢湾台風は衝撃的でした。 団塊の世代の少しあとでしたが、自分の成長と右肩上がりはほぼ同時進行でした。大学を卒業するころ、石油ショックで、狂乱物価やトイレットペーパーなど物資の買い 占めなどが起こり、経済成長が永遠に続くわけではないということを実感しました。 酷暑の夏でも、朝晩には少しばかり秋の気配を感じます。長くなったとはいえ、夏が永遠に続くわけではありません。9月に入って、こんなことを思いました。昔、言わ れたことがあります。警察の標語の「注意一秒、ケガ一生」ではなく、「注意一生、ケガ一秒(一秒気を抜くとケガする)」ということです。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年8月27日(月) |
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勤め人を卒業して2か月、卒業前にできなかったあいさつ行脚や、卒業後にやってみたい、迷子になったプロジェクトの救済や、そうならないような楽しい職場作りへのお手伝いへの準備行動などで、毎日、出かけています。猛暑の中、歩数を伸ばし、日焼けしました。 何をしたいのと問われて言っていた、部屋の掃除をして、ルンバを買うという話は何も進んでいません。多少、シュレッダーをしたり、片付けたりはしていますが、終日アパートにいるということもほとんどないので、一回、整理をした机の上は再度、物置になっています。 やったことは、ダウンサイジングやライトサイジングをめざし、携帯電話や光回線の契約を整理したり、たくさんあった古い携帯電話やスマホを、ドコモショップに持って行ったこと。都市鉱山を発掘し、オリンピック・パラリンピックに役立ててもらうようにしました。 今までだったら、アポイントの合間は、オフィスに戻りましたが、今はその代わり、図書館、カフェを使わせてもらっています。カフェで作業したりするときは、感謝の気持ちを込めて、飲み物だけではなく、おやつを食べるようにしています。ドトールのバーククーヘンが一番のお好みです。 ということで、用事付き散歩が主役という毎日を過ごしています。社長日記を書かなくなったので、多少寂しいと思っていましたが、仕事のPRにも使えるように、note(www.note.mu) というサイトでの毎日発信を始めました。岡田昭彦で検索してください。いいね大歓迎です。 代謝が良くなったのか、食べ過ぎかなと思っても、さほど体重が増えず、何より、よく眠れます。あせらず、急がず、やっていこうと思っていますが、自分に出来る範囲で、お役にたてることに関わりたいと思っています。まずは、満足できる2か月、感謝しています。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年8月20日(月) |
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前回、関わりたくない人のことを書きました。不機嫌な表情だったり、妙な視線を感じたり、電車のドア付近で仁王立ちになったりなど、いろいろな人がいます。年齢、性別には、あまり関係ありません。普通は、嫌だなと思って、避けるだけということになります。 スマホに熱中して、通り道を塞いでいる時や割り込まれた時など、一言注意をしなければとは思いますが、お返しを浴びたこともあり、避けて通るだけになることが多いですが、最近は、良いものを見たと思うようになりました。人間観察の良い機会だと思うと腹が立ちません。 こういう気持ちになると、まずは、自分が不機嫌になりにくくなります。なりそうだなと思えることが観察できる機会ということになります。聖人君子ではありませんので、時には、切れても良いなと思ってしまいますが、我慢ではなく、チャンスだと思えば、気はラクです。 団塊の世代に続いて、私も、間もなく66才。前期高齢者の仲間入りをしています。6月に、43年3か月続けた、勤め人生活を終えて、フリータイム制に移行しました。今のところは、積み残しの会合や、会食、それと、これからのことの取材や勉強などもあり、毎日出歩いています。 これから、年齢を加えることで、出歩く機会が確実に減ると思います。老後生活の教科書のように、趣味を持っりして、友人とのふれあいを続け、地域に根付けるとは思えません。そんな時に、老人は不機嫌の見本にならないよう、今のうちから、慣れておきたいと思っています。 楽しくなければ仕事じゃない、迷子になりそうな仕事を救済するという目的からスタートし、可能な限り、発信できるようなことを続け、少しでも、お役に立てるようにしたいと思っています。動けば、つながりが増えるということを今のところ、実感しました。ありがたいことです。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年8月13日(月) |
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暑い日が続きます。勤め人生活を終えた翌日からも、夜の食事会があったり、現職時代に会えなかった人と面会したりと、ほぼ毎日出かけています。土日しか都合がつかない人もいるので、今のところは、完全休みの日は増えていません。それでも、ストレスフリーになっています。 根城であるオフィスがないので、予定と予定の間は、図書館やコーヒー店で過ごしたり、移動のために街を歩きます。スマホに夢中で、ぶつかりそうな人がいたり、数人で歩道に広がってダラダラと話ながら歩いていたり、電車の入り口で仁王立ちになったりといろいろな場面に遭遇します。 切れても仕方ないなと思うことも多いのですが、人間観察だと思うようにします。困った人と見るのではなく、どんな人がこんなことをするのかと観察します。気がつくのは、中国人はマナーが悪いとか、若い人は礼儀を知らないとか、などの固定観念とは違うということでした。 アメリカ人は、日本人と違って勤勉ではないと、ニューヨーク赴任前に、複数の海外勤務経験者から言われましたが、実際には、アメリカ人の中にも、日本人の中にも、勤勉な人や、そうではない人がいました。固定観念で見てしまうと、大きな誤解になってしまいます。 そんな気持ちで、街を歩いた方がラクだとも言えます。切れても仕方ないと思うようなことを目の当たりにできるのも良い経験です。老人とか、若い人とか、関係ありません。共通しているのは、表情が不機嫌で、知り合いとか、関わり合いになりたくない人だということです。 勤め人だった時も、移動していましたが、移動時間にゆとりはなかったように思います。自分の前を塞ぐ人がいれば、不機嫌にもなりました。勤め人を辞めることで、当事者から部外者になりました。人も自然も、面白いことがたくさんあります。だから、街歩きは楽しいのだと思います。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年8月6日(月) |
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さて、続編として、8月から、ある会社のICTアドバイザーとして、NTTグループとのブリッジの役割を期待されています。月2回ですから、どこまでできるかわかりませんが、その他にもICTと保険を組み合わせたビジネスへのアドバイスをすることになりそうです。 43年3か月の間、部外への出向もありましたが、土台は変わりませんでした。今回は、前職退任後1か月余の無職期間を経ての初出勤です。営業活動などで、訪問したことは何回もあったのですが、気分は新入社員。いつになく、緊張しました。ラッシュの電車も久しぶりです。 前職の時は、混んだ電車に乗るのが嫌で、6時台に自宅を出ました。それでも、朝活の人などで、最寄りの代々木駅からの大江戸線は座れません。今度も、少し早めに出て、最寄りのひとつ手前、千代田線二重橋前駅についたのは、1時間ほど前でした。 コーヒーでも飲んで時間をつぶそうかと思ったのですが、有楽町から続く、丸の内仲通りの歩道にあるベンチが空いていたので、そこに座りました。酷暑の朝でしたが、日陰で風通しが良いので、汗もひき、快適でした。朝9時前なら、都心のオアシスのような雰囲気でした。 次回は8月下旬になります。秋の雰囲気になっているとは思いませんが、せっかくの機会なので、季節の変化を感じられればと思っています。月2回ですから、その他の日には、別の場所で、別の東京を感じることができます。せっかくの機会ですから、最上の日々を過ごしたいと思います。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年7月30日(月) |
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電話文化で考えれば、電話帳は必要だということになるのですが、インターネットの普及、番号を覚える機能を使いやすい携帯電話やスマホの普及、LINEを始めとする、これまでと異なる仕組みの電話など、固定電話が通信手段の主役という時代が過ぎ去ったと思います。 そんな中、固定電話を持っている住宅や事業所だけに配り、固定電話を持っていないか、応答が困難か応答しない、公共施設や商業施設が掲載されていない電話帳(紙、インターネット)の役割は終わったと思います。でも、紙だから、ダメということではありません。 固定電話にかかわらず、すべての住宅や事業所に配り、生活支援メディア(地域とくらしの安心メディア)色を強めるために、防災タウンページを付録にすることと、固定電話を持っていない公共施設や商業施設のデータベースを積極的に収集することで、今までと違ったメディアをめざしました。 地元色を強めた表紙によるイメージチェンジ、クーポンや子育て支援冊子のように、見たくなるコンテンツをビニール袋の外側から見えるようにすることで、配達と同時に捨てられることや、次の配達時までビニール袋が開封されないタウンページが、確実に減少しています。 思いがけない評価をもらったりするケースも徐々に増えてきました。減収ストップは実現できませんでしたが、ひょっとすると、減収ストップとなって、紙、ネット、地図、データベースの組み合わせメディアとしての可能性のあるタウンページにはすることができました。 43年3か月間の、NTTグループでの仕事、途中に2年半の通産省出向(通商政策局中東室)、7年のNTTアメリカ勤務など、典型的ではない経験もし、最後の11年3社の社長として、いろいろとチャレンジしました。ほぼ満点だったと思います。みなさんのおかげです。ありがとうございました。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年7月23日(月) |
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NTTラーニングシステムズ社長は2年で交代となりました。課題が見え始めたかなというところで、次の職場に異動しました。後任が来るので、気の毒だという2チャンネル投稿があり、こちらもびっくりしました。グループ会社社長は、NTTグループ人事、異動は仕方ありません。 今年6月に、65才でNTTタウンページ社長を退任するまで、最初のNTTコミュニケーションズが従業員としての退職。続いて、NTT東日本取締役神奈川支店長のあと、NTTラーニングシステムズ、NTTクオリス、NTTタウンページと社長をつとめ、都合5回退職したことになりました。 NTTラーニングシステムズはNTT持株会社の子会社でした。NTTクオリスは、電話帳印刷で歴史のある関連会社でしたが、資本関係では、NTT東日本の子会社の、NTT番号情報(現在はNTTタウンページ)の子会社となり、持株会社のひ孫会社ということになります。 人生すごろくだと、NTT東日本取締役が私にとっての上がりということになり、NTTクオリス社長はだいぶ、格下ということになりますが、NTTタウンページ社長も通算しての9年、固定電話同様に斜陽状態が続く、電話帳の復活可能性に賭けることになりました。 そのままの形では、固定電話制度終焉とともに、消え去る運命だったと思います。IT社会の中で、紙の電話帳の生きる道などないというのが、常識でした。最後のNTTタウンページ社長時代、ビジネスモデルを変えることが可能かどうかにチャレンジすることになりました。 紙の電話帳というモデルではなく、電話帳時代から蓄積し、更新し続けるタウンページコンテンツとデータベースを活用し、利用者、掲載者、広告出向者を対象にしたビジネスへと転換することが可能かどうか。NTT固定電話以外のデータベース収集、全戸への配達がカギだと思いました。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年7月16日(月) |
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電電公社に入社して32年3か月経った、2007(平成19)年6月、NTT東日本取締役神奈川支店長で、すごろくはおしまい。そのあとは、NTTラーニングシステムズ2年、NTTクオリス(現NTT印刷)4年、NTTタウンページ5年と、グループ会社で社長を勤めました。 NTTラーニングシステムズの2年は短かったですが、グループ会社のあり方という点では考えさせられることが多かったと思っています。分社した母体は、NTTの研修部門の発注機能です。ということは、この会社に研修ノウハウがあったわけではありません。 東京都調布市にあった中央研修センターや、大阪や名古屋など、旧支社所在地にあった地域の研修センターごと、現場を一緒に切り出したのではありませんでした。その結果、NTTデータやNTTドコモなど、分社した会社に研修ノウハウが蓄積されることになりました。 一緒に就任した常務と、NTTラーニングシステムらしい強味を持つとか、NTTグループ外への販路拡大など、いろいろと画策し、広尾にあったNTTコミュニケーションズ研修施設閉鎖にともない、新橋に独自の研修機能を作り、独自講座やIT機能充実などを行うことになりました。 NTTグループが持っていた機能を一部分担し、主として発注機能を担う会社は、NTTラーニングシステムズだけではありませんでしたが、そこに付加価値をつけることが容易ではなく、プロセスやコスト構造が多重化したことが、部外に向けての価値にはなりませんでした。 研修以外に、ITサービス、映像制作サービスなど、独自事業へと転換を図りましたが、順調には行きませんでした。グループ会社の限界を感じた2年間。これはという業績を残すことができなかったのは残念でしたが、グループ会社の抱える課題を痛感することは出来ました。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年7月9日(月) |
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前回までで、入社29年3か月。NTT東日本で取締役にしてもらったので、NTTコミュニケーションズで、NTTグループ社員としては退職ということになり、退職金をもらいました。神奈川支店長として、四国勤務以来、14年ぶりの地域勤務になりました。本当にびっくりしました。 神奈川支店は、規模が大きく、エリアも広いので、東京、千葉と並び、取締役ポストになっています。もっとも、相模原市とその周辺は、昔からの経緯があるようで、神奈川支店エリアではなく、多摩地区ということで、東京支店のエリアになっていました。今でもそうです。 このころ、電話サービス・インターネット(当時はADSL)市場の競争が激しくなり、新宿や渋谷など、ターミナル駅で、ヤフーがADSLルーターを無料配布する販促活動を積極的に開始していました。無料ルーターを使い始める人は、神奈川県が一番多かったということです。 続いて、ドライカッパと言われた、一般の電話を同じ番号のまま、他社へと乗り換えることが可能になり、ここでも神奈川が一番他社に移行したということです。事務処理に時間をかけずに行うように努力したことが裏目に出てしまいましたが、故意にゆっくりとした処理はしたくありませんでした。 そのほか、従業員の高齢化などによる作業事故など、いろいろな事故が多かったり、急激に光ファイバーサービス(Bフレッツ)が増えたことでの工事積滞など、市場が大きく、活性化したことによる課題が山積していました。業績もパッとしないままの3年、申し訳なかったと思っています。 それでも、全国に先駆けて、すべてのエリアで光ファイバーサービス提供可能にしたり、中堅中小企業向け営業や、ソリューション営業で、独自の業績を上げるなど、やる気のあるみなさんと一緒に、ベストを尽くしました。 地元のみなさんは今でもお付き合いがあるなど、楽しい3年間でした。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年7月2日(月) |
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最初は3年間の駐在員生活体験の予定だったのが、結果的には7年ニューヨーク暮らしをしました。英語が堪能とはとても言えませんが、ごまかし方もふくめて、慣れたことは事実です。いつまで経っても、英語で話をしなければと思うと、おなかが痛くなりそうですが、それでも7年間、ほぼ無事故で過ごすことができました。 そのあとは、NTTコミュニケーションズに戻って、ネットワークサービスの法人営業部長。システムとかデータセンターを売りたいというソリューション志向ではありましたが、当時、売り上げのほとんどは、回線サービスや、電話サービス関係でした。ちょうど、IP電話への切り替え時期にあたる、転換期ではありました。 残念ながら、売り物のIP電話が草創期だったことから、安定しているとは言えず、大手ビールメーカーから受注はしたものの、安定して普通につながるようになるまでには半年くらいかかり、恥ずかしながら、お客様満足度は史上最低でした。その会社のCIOから、普通につながるようになったと電話をもらった時のうれしさは格別でした。 そのあと、ビールはその会社以外の銘柄を選ばないようにしています。何もしないで、在来型の電話を使っていただくのが無難でしたが、IP電話や、データセンター、通信部門のアウトソーシング受けなど、アメリカでのチャレンジ以上にいろいろな提案を繰り返した記憶があります。いくつかは使っていただいています。 さらに、今で言えば、自動車にWi-Fiで情報を送るとか、自動運転につながるような提案を行ったりもしました。成就したのはほんの一部で、今はやりのITSの主役にはとてもなれませんでしたが、時代を先取りした提案だけは出来たとは思います。アメリカの時と同様、チャレンジをしたという感じはありました。 さて、2年目は何をしようかと考えたいたところ、NTT東日本神奈川支店長に転出。1999(平成9)年の分割以降、NTTコミュニケーションズとNTT東西会社の人事交流はほとんどなかったので、おどろきでした。CATV会社にIP電話を売って、NTT東日本に対抗しようという提案をした日の内示。1年で地域会社勤務になりました。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年6月25日(月) |
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総務部のあとは、アメリカに行きました。まさかの海外勤務です。英語が堪能というわけではなく、海外旅行などでしゃべったこともあるという程度でしたので、人事部もまさかと思ったらしく、希望調書に海外勤務希望と書いていたのを本当かと確認してきました。国際派になりたいと意気込みましたが、自信はゼロでした。 ニューヨークの事務所は、パークアベニューの41丁目。ミッドタウンと言われている、マンハッタン中心部では南の端、グランドセントラルステーションのそばでした。住まいは、47丁目のセカンドアベニュー、国連本部のそばのアパートでした。海外居住初心者が、突然、ニューヨーカーのど真ん中に住むことになりました。 それまで住んでいた横浜保土ヶ谷の55平米のアパートと、市場価格はほとんど同じでしたが、家賃は日本相場の3倍くらい、30階の100平米でした。場所とか考えると、日本が割高に感じられましたが、帰国することになる7年後には、バブルのおかげで、ニューヨークのアパート相場が、購入、賃貸とも高騰することになります。 仕事のことは、米国の通信だったり、ニューヨーク便りに書きましたが、突然、NTTの国際ビジネス進出ということになり、それまでに細々とスタートしていた、在米日系企業向け法人営業に加え、通信事業者としての日米回線販売など、単身、アメリカ企業に訪問して、英語で営業するというとんでもないことになりました。 2001年9月11日の大事件のころには、アメリカでの事業も少しづつ軌道に乗るようにはなっていましたが、米国大企業の回線受注や、日系企業のデータセンターやアウトソーシング受注など、本格的な仕事に関われるようになったのは、9.11が契機。一人前とはとても言えませんが、少しだけ存在感が増えたと実感できました。 新進のインターネット関連会社Verioの買収にあたっては、いろいろな騒動があり、買収後も、シェアードホスティングという、中堅中小向けサービスに強いVerioの大企業向けサービスを提供しろという無理難題もあり、10年以上悩みの種になりましたが、私は3年ほどあとに、NTT東日本に移籍し、国際ビジネスから離れました。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年6月18日(月) |
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四国・松山の生活は2年2か月で終わりました。その後に行った、ニューヨークと並んで、第2のふるさとそのものです。公私ともに、いろいろなことを学びました。国会議員や地元経営者など、その後に影響を及ぼすことになる交友も出来ました。良いこと、そうではないこと、それぞれに、経験させてもらいました。ありがとう、松山です。 戻ったのは、本社総務部。四国支社営業部長から、総務部担当課長への異動です。普通、支社とは言え、営業部門が花形ですが、元役所のNTTでは、総務部門の地位が高く、間違いなく栄転ですが、地元からは、何か悪いことをしたのがばれて左遷かと言われました。地元紙に載ったので、みなさんが知っていました。 通常、NTTの人事異動は、民営化前は2年、民営化後でも3年が普通でした。総務部へもそのつもりで転入しましたが、6年間在職することになりました。途中で担当課長から、担当部長に呼び名は変わりましたが、仕事は同じ、6月の株主総会運営と、あとは総務部らしい、いろいろな仕事です。 政財界を震えさせた、リクルート事件後に総務部に転入しました。その後に、リクルート事件の影響があったような事件が発生し、本社部長ほかが逮捕されるということになり、警視庁捜査4課の担当が会社に常駐して取り調べをすることになりました。尊敬していた先輩の逮捕という結果を悔やみましたが、それで幕引きでした。 最後の1年余りは、30年以上本社だった日比谷から、初台への移転と、当時言われていたOA化などを担当しました。日比谷からの引っ越しはほぼ全幹部難色を示しましたが、当時の社長と幹部一人だけが賛成でした。リクルート事件も終わって、気分一新が理由でした。社長を3つ10年以上つとめた今は同感できます。 仕えた総務部長は3人。2年毎でした。途中4年ほど経ったころ、異動という話がありましたが、引継ぎを始めてから中止になりました。一旦、やらなくてすむかなと思った株主総会、残留が決まったあと、テンションを戻すのに時間がかかりましたが、結局そのあと、2回担当し、合計6回やって、次の職場へ異動しました。 |
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今週の「思いつくまま・・」2018年6月11日(月) |
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リクルート事件の前触れみたいな事件や、大韓航空機爆破事件の犯人とされた金賢姫にNTT社員が関わっていたのではという事件など、広報部時代には、新聞・テレビが興味を持つ社会部ネタがありました。それでも、社長が逮捕された、リクルート事件に比べれば、規模は小さく、記者会見もわれわれレベルでどうにかなりました。 台風のようなリクルート事件が起こりかけ、川崎市の助役がリクルートから未公開株を受け取ったなどの報道があったころ、四国、愛媛県松山市に転勤しました。その時、もらったのが、夏目漱石の「坊ちゃん」の文庫本。明治時代のようなのどかな生活をして来いということでしたが、正直、行きたくはありませんでした。 飛行機で1時間半程度ですし、全日空独占のところに、JALも参入し、便数も増えていますが、飛行機代は今ほど安くないし、インターネットも普及する以前の1988(昭和63)年ですから、雑誌の販売日も東京より遅く、悪い言葉で言えば、島流しの気分でした。それが2年半で第2のふるさとのようになります。 四国4県でのNTTの売り上げは、全体の3%と小さな存在でした。それでも、営業部長ですから、仕事の範囲は広く、部外の方との接触や、会合などもあって、30代中盤でしたが、大人として扱ってもらったことで、仕事、宴会など、後年役に立つマナーを楽しみながら、覚えることができました。 風光明媚で、食事もおいしい四国でしたが、唯一残念だったのは、ラーメン。豚骨味に水あめを入れた甘いスープで、麦麹の味噌汁や、香川県の餡入り餅の雑煮などと同じようなテイストには、慣れませんでした。数少ない高知の屋台の甘くないラーメンを食べに、週末峠越えのドライブをしたことがあります。 経営者ではありませんでしたが、担当者や中間管理職としての視野ではなく、マネジメントとしての視野を少しだけ、身につけ、さらに、バブル崩壊前の、にぎやかなアフター5の雰囲気、地元トップと触れ合うなど、東京ではとても無理な経験をすることができました。帰るときには、最初と大違いになりました。良い体験だったと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2018年6月4日(月) |
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1985(昭和60)年4月、電電公社と専売公社が民営化され、NTT、JTと呼ばれるようになりました。国鉄は2年後の1987(昭和62)年4月に分割民営化され、JRグループになりました。NTTになった日は、名古屋でした。電気通信局というエリア管理機関の営業窓口担当の課長だったので、約款の窓口への整備など、事前準備に忙殺されました。 電気通信局も総支社と名前を変えました。昨日と同じ仕事でしたが、気分を変えなくてはという気持ちは結構強かったと思います。民営化前、全員でお客様訪問をしようという話になり、寒い日曜日の午後、愛知県の住宅地を回りました。家の中でテレビの音や、歓談している声が聞こえているのに居留守。マッチ売りの少女の気分でした。 電電公社民営化の説明ですとか、電話はそのまま使えますなどという説明でしたが、初めての試み、怪しまれても仕方ありません。1ミリもドアは開きませんでした。同じ思いは、アメリカでの通信サービススタート時、NTTは誰でも知っているという思い込みが間違っていることと先駆者KDDの歴史を感じました。ともに、良い経験だったと、今は思っています。 そのころ、カードで保存していた、お客様(当時は加入者と呼んでいた固定電話のお客様です。)情報をコンピューター化するというプロジェクトが進んでいました。顧客サービスシステムと名付け、それまでは料金計算だけが電算化されていたのが、窓口業務に端末機を導入するというものです。これが大変でした。 紙のカードは戦前というか、明治時代の達筆な文字など、古文書もあり、解読が困難を極め、ワープロ普及時復活する難しい漢字が判読できず、簡単な漢字にしてしまったり、入力ミスなど、大変でした。その後のペーパーレスでの受付などでも、支障になってしまった時、四国で営業担当部長でした。因果はめぐります。 1986(昭和61)年2月、2年4か月あまりの名古屋生活を切り上げ、本社広報部報道担当課長になりました。新聞記者対応の責任者でしたが、お酒に弱い、麻雀はやらない、ゴルフもしないということで、不安いっぱいでした。お酒をあまり飲まない宴会は頻繁に行いましたが、あとはパスのまま、仕事はしたと思いますが、いろいろなことのあった2年半でした。 |
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今日も思いつくまま・・2018年5月28日(月) |
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1982(昭和57)年2月、電電公社に戻りました。ポストは経営計画作り、特に収支見通しを担当する、計画局総括課収支調査係長でした。通産省では課長補佐の仕事をしていましたが、今度は係長、部下は4名、着任した時には疲労困憊、年始明けからほとんど休んでいなかったということです。この3年後、電電公社は民営化することになります。 今でも、変わっていない、貿易不均衡が原因の日米政府調達交渉の渦中に、政府機関の電電公社が巻き込まれ、今まで仕様書でがっちりと守られていた、電電ファミリーと言われていた日本企業の牙城にアメリカ企業を入れろという要求でした。そんな中、当時の総裁が、アメリカ製品は品質に問題があり、買えるのは雑巾バケツだけと言ったことで大問題になりました。 即座に更迭されたあとの総裁は、民間企業社長経験者、生ぬるい半官半民の組織はひとたまりもなく、大きな流れの中へ放り込まれ、まさかと思った民営化に向けての検討が始まりました。そんな中、計画局総括課長という人は、アメリカの規制緩和や、英国BTの民営化などに関心も高く、民営化を進めという立場でしたが、最初は少数派でした。 そのための資料作りは、組織のミッションだったので、いろいろなシュミレーションや試算を繰り返し、目的にあったストーリーを作り続けました。まだ、パソコン普及前のこの時代、計算尺を自動化したような電動計算機や関数電卓を駆使し、富士通やNECのパソコンが登場して、演算が劇的に早くなるまで、エンドレスのような作業でした。 パソコンを導入して、一昼夜かかった演算が15分くらいでできるようになった当初、上司には、そんなに早くなったという報告をせず、とにかく、待たずに帰ってもらい、飲みに行った記憶があります。もっとも、途中で雨が降ったとかで、傘を取りに戻った上司と、飲みに行くわれわれが鉢合わせをしたこともありました。笑えない喜劇です。 当時のパソコンは、市販ソフトがあるわけではないので、自分たちでプログラムを作りました。今思えば、そんなに難しいプログラムではありませんでしたが、フローチャートをにらめっこして、無駄なプロセスを省き、民営化すべきという数値が出た時のうれしさは格別でした。そんな、タメにする計算もありましたが、民営化の効果は想像以上でした。 |
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今日も思いつくまま・・2018年5月21日(月) |
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前回の続きの通産省。最初にあったのが、イランのアメリカ大使館員人質事件。結構長く続きました。その前に、親米派のパーレビ国王が追放され、イスラム原理主義者と言われた、ホメイニ師が実権を握ることになりました。第2次石油ショックの始まりです。そんな中、起こったこの事件、日本も経済制裁に巻き込まれ、右往左往することになりました。 電電公社からの出向ですから、中東のこと、石油のこと、そもそも通産省のことも何も知らずに、騒ぎに巻き込まれました。3年先輩が、一時病休ということになり、実質上、課長クラスの中東室長と二人で切り回すことになり、おかげ様で、いろいろなことを学ぶことができました。生き抜く知恵って、出てくるものだと自分ながら、感心しました。 中東のキーワードは、石油の安定供給、中東和平、日本のプレゼンスなど、今と全く同じことです。石油の需給如何で、強弱があり、足りない時は、土下座的な政策、余ってくると、忘れられることになります。継続的に貢献している専門家がいなければ、信用されません。そんな中、一番厳しい時期に直面することになりました。 イランでもうひとつの大きな問題は、通産省が音頭を取って始めた石油化学プロジェクト、IJPCです。三井物産が主体で進めたものですが、革命、政変、戦争に巻き込まれることになりました。イラン・イラク戦争勃発時、日本人をイランから、どうやって帰国させるか、三井物産から、通産省にルートを決めるように求められたことがあります。 正直困りましたが、外務省の実務スタッフが匿名を条件にルートを教えてくれました。JAFでコピーしたイラン周辺の道路地図上に、教えてもらったルートをたどり、隣国のトルコに無事入国できたという知らせを受けた時には、涙が出ました。もっとも、三井物産側の記録にはないことですが、綱渡りのような仕事が出来たという記憶がありました。 そんなこんなの2年半ですが、石油需給が緩むと、仕事も少なくなり、ヨーロッパとの経済関係に関するシンポジウムにかかわり、政治家のスピーチ原稿を作ったり、在日EC委員会と打ち合わせをしたりといった仕事をしました。これはこれで、大変面白く、ためになる仕事でした。2年半、エキサイティングな経験をして、1982(昭和57)年2月、電電公社に戻ります。 |
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今日も思いつくまま・・2018年5月14日(月) |
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少し、時間を戻します。1979(昭和54)年9月から、1982(昭和57)年2月までの2年5か月、通産省(現在の経済産業省)に出向しました。電電公社の社員のままでの出向で転籍ではありませんでしたが、当時の通商政策局西欧アフリカ中東課中東室というところで、係長と課長補佐の仕事をさせてもらいました。その間、歴史に残る事件がいくつか発生しました。 通産大臣は、最初が江崎真澄、続いて、田中六助、佐々木義武と続き、最後が安倍晋太郎でした。外交は外務省の仕事ですが、日本の産業基盤を揺るがす石油危機などから、通産省でも中東専門担当を作ったということで、電電公社とは何の関係もありません。二元外交と非難され、外務省ともめるのは日常茶飯事でした。 行った年の暮れに発生した、在テヘランアメリカ大使館人質事件と、その後に続き、長期間のイラン経済制裁、解決したかたと思った後の大事件が、イラン・イラク戦争が起こりました。その間も、アフガン戦争が始まったり、石油パイプラインが爆破されたり、三井物産が政府プロジェクトとしてイランで作った石油化学プラント、IJPCの問題など、いろいろありました。 当時の中央官庁は、実質的な始業時間が遅く、全員がそろうのは10時過ぎでした。それまで、朝早起きして、文京区から久喜に通っていたのが、9時過ぎに出勤ということになりました。社宅では、交代制の職場に転勤したと思われていたようです。帰りはほぼ午前様、定期を買っても使えない状態が続きました。 事件が発生し、忙しくなると、朝7時に出勤したり、中東の週末が木金だったこともあり、土日も出勤が日常になりました。24時間7日勤務に近い、滅私奉公、ブラックそのものでした。続けられたのは、若かったことと、国を守るという気概があったからだと思っています。埼玉県久喜の電話交換手担当係長から、世界の動きの中に放り出されたみたいでした。 直接、ニューヨークタイムズや、ワシントンポストから電話がかかり、取材を受けたこともあります。そこで覚えた言葉が、ゆっくり話して(Please speak slowly) と、ちょっと待って(Wait a moment)というフレーズでした。荒波の中、誰の助けもなく、対応した経験や、省内での仕事の回し方など覚えることで勉強にはなりました。 |
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今日も思いつくまま・・2018年5月7日(月) |
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そんな中、売り出されたのがNTT株。抽選方式だったことや、バブルの最盛期だったこともあり、フィーバーと言われるほどで、その後に政党幹部になった経済評論家が、売り出し価格が5万円の額面が119万7千円になったことを評し、500万円にもなるので、買わないという選択はないと煽ったのも、当たり前という感じでした。 当時、広報部で報道担当でしたので、民営化で突然注目されたNTTをめぐって、いろいろな記事や報道がありました。株価も売り出し直後、一気に300万円を超え、500万も夢ではないなと思いましたが、終値315万円がピークで、その後は下がるばかり、資産株と言われながら、売り出し後のブームで買い、損をした人も多く、バブルはそんなに長く続きませんでした。 抽選には当たらなかったのですが、持株会に入り、積み立て方式で少しづつ買いましたが、10年以上あと、取締役になって、株価低迷の時に、増額するまでは、購入価格が時価に追い付かず、損をしたままでした。政党幹部になった経済評論家は、株価は上下するのが当たり前、損をしても仕方ないと発言。信じられませんでした。 NTTをめぐっても、いろいろなことがありました。幹部社員の女性問題と、その女性の関連会社への発注の際には、広報部で担当し、今ではとても無理でしょうが、課長補佐である私と、幹部社員の下の広報担当部長で、記者会見を行い、テレビカメラは勘弁してもらいました。今なら、もっと上位職幹部が頭頂部を見せるのが鉄則になっています。 リクルート事件の際には、松山勤務。役目がら、前職の広報部にも関連する話があり、やきもきしましたが、外野のままでいられました。戻って、総務部勤務になって5年目。食堂の食器汚職が発生し、その時は担当部長でした。いまだにわからない話もありますが、NTT株から話が続いていたようです。NTTフィーバーが生んだひずみだったのだと思います。 広報部で2年半、四国の営業部長で約2年、総務部で6年過ごしました。電電公社時代から、2年か3年で異動というのが普通だったので、総務部での6年は異例の長さでした。年齢も40才を越えました。途中、後厄の年に、十二指腸潰瘍で2週間入院しました。ストレスプラスアルファが原因、人生の転機にはなったと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2018年4月30日(月) |
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広報部の担当課長のころは、お酒を飲まない私でも、ほぼ毎日宴会でした。電電公社時代の広報担当は、電波行政を担当する郵政省(今は総務省)にいる、波取りと言われるテレビ利権担当の政治部記者や、社会部記者が中心だったのが、1985(昭和60)年の民営化以降、通信ビジネスに対する興味が増し、郵政省ではなく、NTTに常駐する経済部の記者が増えました。 昔の記者は、郵政省や会社からの接待を受けるのが当たり前だったようですが、経済部のみなさんは、それほどではなく、割り勘で行こうと気楽に誘ってくれました。それはそれでありがたいのですが、当時は二次会、三次会もあり、すべて割り勘で払うのは大変でした。相手はその日だけかも知れませんが、こちらはそうはいきません。 その間に、接待も入りました。ゴルフはやらないと言っていたので、週末の宴会はなかったので幸いでしたが、やれば、週7日宴会になったと思います。広報部の前後も、接待を受けることは少なかったので、上座に座るのは今でも、落ち着きません。上座ばかりの毎日になると、どうしてもその気になります。本当に良かったと思います。 このころは、最初の結婚と、次の結婚の間だったので、余計に回数が増えたのかもしれませんが、ニューヨークに赴任して、日本風宴会の減る1996年までの約10年、ウィークデーはほぼ毎日、週5回、月20回、年240回、一次会をしていました。その結果、宴会の作法や人との付き合い方を覚え、数人の知己ができたのは良かったと思います。 電電公社時代後半の、不正経理問題から、生え抜き総裁のあとに、IHI出身の総裁が来たことと、民営化、そして、世界中で広がる通信事業の大変革の中で、マスコミ担当をさせてもらったのは、良い経験でした。2年半勤務のあと、転出してすぐに起こったリクルート事件前夜、電電公社からNTTへの変化には、すごいものでした。 東京駅からタクシーに乗って、電電公社の本社と言っても、通じませんでした。帝国ホテルの隣の隣と説明して初めて、なるほどということになりましたが、民営化後、NTT本社と言ったら、通じました。地味な公共企業体から、時代の先端を行くNTT,コマーシャルも突然派手になり、イメージチェンジは大成功だったのでしょう。 |
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今日も思いつくまま・・2018年4月23日(月) |
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少し急ぎます。電電公社の始業は8時半でした。会社の始業は普通9時だと思っていたので、大ショック。入社1年4か月後の本社研修の際は、お茶くみ、机の掃除もあって、8時前後に出勤。いくらでも寝坊できた当時、つらかった記憶があります。学生時代は、面倒なら、行かないという選択可能な日が多かったので、余計です。 本社研修の時、係長や課長補佐は、8時半より遅く、ゆったりとした出勤でしたが、自分が通産省出向から戻り、本社係長になったときには、総裁が民間企業から来たこともあり、上司が8時前に出勤していたので、さらに早くなりました。そのころの通産省の実質始業時間が遅く、9時半から10時だったこともあり、慣れるまで、つらい日々でした。 通産省の時は、朝遅いかわりに夜も遅く、ほぼ午前様で仕事がありました。国会待機でのバカ待ちの時もありましたが、実働14時間以上、昼ごはんを食堂に食べに行かれれば、幸せな時もありました。電電公社本社係長の時は、朝も早いし、夜も遅い、実働16時間くらいでした。帰りの定期代は不要なほどだったくらいです。 本社係長時代は、電電公社民営化の準備、次の東海電気通信局課長時代は、民営化前後の現場作業管理が多く、ここでも、午前様のことが多く、深夜帰りが常態でした。お客様に出すDMの内容に不備があって、中身の入れ替え作業を人海戦術でやったり、小雪の降る日曜日にお客様訪問をして、明るい家から返答もない、マッチ売りの少女を体験したりしました。 それでも、地元の大手銀行のクレジット会社の上級会員向けに、出たばかりのテレホンカードを使ってもらうことになり、電電公社では珍しかった、相対取引や、納期の短縮などの条件で販売をしました。管理部門でしたが、大口の取引なので、直に行いました。先方の担当部長とは、今でも付き合っています。営業の先生でした。 民営化後1年で、本社広報部の報道担当課長(課長補佐)になりました。お酒ものまない、ゴルフもやらない、麻雀もしない、報道担当は珍しいと言われましたが、そこそこには付き合い、それなりに成果を上げることができました。後年、リクルート事件につながるような事件も起こりましたが、民営化直後、突然華やかになったNTT。軋みもあったということだと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2018年4月16日(月) |
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1976(昭和51)年8月下旬から、1978(昭和53)年2月いっぱいだった本社研修は、電電公社本社、千代田区内幸町1−1−6、今のNTTコミュニケーションズ本社で行われました。そろそろ、建て替えということで、NTTコミュニケーションズも、近々大手町に建設中のビルに移転するということです。当時は築15年くらいだったと思います。 本社研修が終わって、1年半ほどあと、埼玉県久喜での、交換台(電電公社では電話運用課と言っていました)の係長を終えたあと、通商産業省(今の経済産業省)に出向し、全く、畑違いの、中東担当になりました。ここでの経験で、いろいろなことを見聞きし、当時は役所との距離の方が圧倒的に近かった、電電公社とも比較をすることができました。 純粋な役所である、通産省の方が、何でもやってみようという気質が強く、その結果、外交担当の外務省などとは、しょっちゅう揉めていましたが、当時、第2次石油ショックが起こったり、格好よく言えば、国を守るという気概で、いろいろなところに口を出したり、手を出したりしていました。外様の出向者でも、何も変わりません。楽しい時期でした。 そのあと、電電公社に戻り、事業計画を作成する担当の係長になり、やっと、一人前のポストに就きました。入社して7年、そろそろ、30才になるころです。出向していた通産省も、元は一緒だった郵政省、三公社の仲間、国鉄でも、一人前ポストまでの時間は短く、電電公社が一番長かったようです。やっと、研修が終わりです。 最初ひと月の学園訓練(調布市入間町にある研修施設を中央電気通信学園と呼んでいました。)から、1年3か月の現場実習(これが三重県津です。)3か月の後期学園訓練、1年半の本社研修(総裁室文書課というところでやりました。)、2年間の現場係長(途中で出向したので、1年半弱でした。)ということになります。 このあとの2年、電気通信局という地方ブロック機関での係長(あるいは、海外の大学への留学や学園の教官)で大体一人前に扱われ、任される仕事も増え、超(長)残業をしたりすることになりますが、入社して7年経過したあとの、本社係長が一人前のポストだったのでしょう。今思えば、ずいぶんとのんびりしていました。 |
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今日も思いつくまま・・2018年4月16日(月) |
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1976(昭和51)年8月下旬から、1978(昭和53)年2月いっぱいだった本社研修は、電電公社本社、千代田区内幸町1−1−6、今のNTTコミュニケーションズ本社で行われました。そろそろ、建て替えということで、NTTコミュニケーションズも、近々大手町に建設中のビルに移転するということです。当時は築15年くらいだったと思います。 本社研修が終わって、1年半ほどあと、埼玉県久喜での、交換台(電電公社では電話運用課と言っていました)の係長を終えたあと、通商産業省(今の経済産業省)に出向し、全く、畑違いの、中東担当になりました。ここでの経験で、いろいろなことを見聞きし、当時は役所との距離の方が圧倒的に近かった、電電公社とも比較をすることができました。 純粋な役所である、通産省の方が、何でもやってみようという気質が強く、その結果、外交担当の外務省などとは、しょっちゅう揉めていましたが、当時、第2次石油ショックが起こったり、格好よく言えば、国を守るという気概で、いろいろなところに口を出したり、手を出したりしていました。外様の出向者でも、何も変わりません。楽しい時期でした。 そのあと、電電公社に戻り、事業計画を作成する担当の係長になり、やっと、一人前のポストに就きました。入社して7年、そろそろ、30才になるころです。出向していた通産省も、元は一緒だった郵政省、三公社の仲間、国鉄でも、一人前ポストまでの時間は短く、電電公社が一番長かったようです。やっと、研修が終わりです。 最初ひと月の学園訓練(調布市入間町にある研修施設を中央電気通信学園と呼んでいました。)から、1年3か月の現場実習(これが三重県津です。)3か月の後期学園訓練、1年半の本社研修(総裁室文書課というところでやりました。)、2年間の現場係長(途中で出向したので、1年半弱でした。)ということになります。 このあとの2年、電気通信局という地方ブロック機関での係長(あるいは、海外の大学への留学や学園の教官)で大体一人前に扱われ、任される仕事も増え、超(長)残業をしたりすることになりますが、入社して7年経過したあとの、本社係長が一人前のポストだったのでしょう。今思えば、ずいぶんとのんびりしていました。 |
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今日も思いつくまま・・2018年4月9日(月) |
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1年半の現場研修と、後期の集合研修3か月が終わったあとは、本社での研修。30万人以上の従業員がいる、当時の電電公社の中で、事務系本社採用は40人。入社した1975(昭和50)年は、第一次石油ショックのあと、売り手市場だった大卒採用が、石油ショックによる不況のため、内定取り消しになるなど、やや暗雲が出て来た時期でした。 本社での研修は1年3か月。そこでも、見習いとか、養生とか言われ、半人前の扱いでしたが、仕事は本社係員。やっと、社会人になれたという実感がありました。見習いとしての大事なミッションが、朝始業前の、机ふきと、朝と午後のお茶くみでした。おかげ様で、同じ濃さでお茶を淹れるやり方は体得しました。今でも役に立っています。 当時、商社では、新入社員でも、アシスタントの女性が二人つき、そのどちらかの人と結婚するというケースがあったという話を聞きましたが、電電公社では、局長など、幹部の秘書と、庶務の係員のほか、ほぼ男性でした。見習いが配属される係ではないと、末席の係員の仕事になります。個人茶碗の判別や、好みの把握も必要なスキルでした。 今だと、始業前の机ふき、お茶くみの準備は、不払い残業になってしまいますが、そのころは、始業前の準備仕事は当たり前と思われていました。始業時間以降は、普通の仕事水準を求められ、最初は戸惑ったものの、慣れるにつけ、今思えば、一人前に近づきつつあると思われたのでしょう。何度も繰り返した、失敗も勉強になっていたと思います。 現場では、交通ストの際、定期券のルートが止まっていれば、来なくても良いという暗黙の慣行があり、見習いでもそれに従いましたが、本社では、都心にあるということもあり、当然、なんとかして通勤しなければいけません。などと思わずに、ストが解除になり、動き出してから、出勤して、恥ずかしい思いをした記憶があります。行くのが当たり前ですよね。 1年3か月の、本社研修で、学生らしさと、現場で見聞き、体験したことの中に、普通ではなかったことや、社会では通用しないということがたくさんあるということを、身に染みて感じさせられたということだと思います。もっとも、そのあとは、電話局で係長を2年。初めて、部下を持つことになります。まだまだ。研修は続きました。 |
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今日も思いつくまま・・2018年4月2日(月) |
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今年の東京は、桜の開花が早かったので、すでにお花見も終盤。そろそろ、名残りの桜になっています。早いもので、今週からは4月、新入社員、新入学のみなさんが、街のあちこちで見られるようになります。小学校の新入学から61年、入社式からは43年になります。10年ひと昔と言いますが、10年が何度もめぐってしまいました。 10年前に何をしていたかというと、すでにNTT東日本神奈川支店長を終え、NTTラーニングシステム(NTTLS)社長になっていました。2年間でしたが、今年話題になった、カーリングの本橋選手を会社として、応援していました。と言っても、日本電産のような多額の援助ではなく、東京での大学生活の一部をサポートしただけではありますが。 NTTLSは、教育、インターネット、映像の3分野で事業を行っていましたが、映像制作の関係で、当時、本橋選手が所属していたチーム青森との関連が出来たのが、きっかけと聞いています。着任した時には、そう決まっていて、NOとは言えませんでしたが、今年の活躍を見ると、本橋選手は控えのリザーブでしたが、サポートしていた甲斐があったと思いました。 2010(平成22)年のバンクーバーオリンピックにサポート会社社長として、行けるかなと思いましたが、2009(平成21)年夏に異動してしまったので、行けませんでした。それでも、アジアの大会を北京で開催した時に、観戦をしました。カーリングって、テレビでないと全体像がわからず、つまらないかなと思いましたが、近くで感じるスポーツの熱気、行って良かったと思いました。 ウインタースポーツ観戦が初めてでしたが、寒かった記憶が強いです。見てれば、面白いのですが、足元からしんしんと北京の冷たさを感じました。考えてみれば、観客に快適な暖房をすると、氷が融けてしまうのですが。今回のオリンピックでも感じましたが、選手は半そでで大丈夫なほどの熱のこもったカーリング、熱心な観戦が寒さを忘れさせてくれました。 10年前は、スマホが普及し始めているころで、ガラケーが主役でした。10年前は、夜遅くまでの宴会が続いてもなんとかなったと思います。今は、はっきり言って、体力が続かず、最初から無理だと決めつけ、同級生の宴会など、17時半にスタートし、20時には散会となり、しかも、もっと早くても大丈夫という声が強くなりました。10年ひと昔です。 |
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今日も思いつくまま・・2018年3月26日(月) |
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あと数日で4月、2018(平成30)年度になります。社会人として、電電公社に入社してから43年、世田谷の自宅から、内幸町にあった本社へ集合。確か、三軒茶屋から、当時運行されていた、渋谷から霞が関まで首都高経由の東京駅行のバスで行きました。講堂での式典を終え、団体で調布市入間町にある、中央電気通信学園(今は、中央研修センター)に移動しました。 そこで一か月の研修のあとに、全国に配置されての現場実習。三重県の津電報電話局、住まいは隣の久居市にあった独身寮でした。中央電気通信学園時代は、高校まで通った小田急線の成城学園前までバスを使って、本社などへ移動しました。社会人姿で後輩に会うのは、照れくさいものでした。あっという間に、昔話になってしまった出来事です。 1年3か月ほどの現場研修を終えると、もう一度、中央電気通信学園に戻り、3か月間の後期研修。前期の1か月は、事務系で入ったわれわれ40人のほか、技術系の学部採用(学士採用と言われていました)、大学院の修士修了者、博士修了者採用と一緒で、合計300人以上だったのですが、今回は、現場研修後の事務系だけの研修で雰囲気も違ったものでした。 社会人としての基礎教育が中心だった前期とくらべ、後期は、事業内容や、経営課題など、実務に近い話や今風に言えば、ワークショップなどが中心で、内幸町の本社での講義などもあって、自由度も増えたので、少し大人になったような感じはしました。研修も後半になると、関心は、11月下旬からの本社実習で、どこに配属されるかです。 約30年後、神奈川支店長だったころ、新入社員に昇進に役立つキーパーソンをどうやって見つけるかという質問をされたとき、えッと思いましたが、考えてみれば、自分の当時も、華やかな部署はどこか、要職についている幹部はどういうプロモーションだったのかなどという話が話題になった記憶もありますから、いつの世も同じだったのでしょう。 公共企業体電電公社の研修は、3年間。そのあとの現場電話局係長もふくめると、5年間が研修期間になっていました。そろそろ、30才に近くなって、やっと一人前という、のんびりしたスケジュールでした。民間企業に入った友達が、一人前の社会人になっていくのを横目に見て、半人前を続けました。右肩上がりが当たり前の、社会的に余裕のあった時代でした。 |
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今日も思いつくまま・・2018年3月19日(月) |
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6月中旬の株主総会で退任になると、43年と少し続いた、同じ健保組合に加入して過ごした、会社生活がおしまいになります。43年前、入社してからのこと、1975(昭和50)年、三重県津電報電話局での研修で、ひと月の営業窓口での実習と、8月末までの3か月、線路と呼んでいる、設備部門の研修が終わりました。線路では、電柱に上ったり、故障修理なども経験しました。 マンホールの中にも入らせてもらいました。ほとんどが実習のためですが、たまには、実際の作業をやり、一人で故障修理に行って、試行錯誤ながら、修理が無事終わった時、さすがにプロですねと言われて、赤面したこともありましたが、スレート屋根をぶち抜き、あわや大事故という失敗もしました。幸い、途中でひっかかって九死に一生でしたが、修理と謝罪は会社持ちでした。 当時、国鉄は、列車の運転や、車掌業務を実習メニューに入れていたということです。一年目の夏以降は、営業部門に戻り、灰皿のある窓口で再び、来客と一緒にタバコを吸いながら、応対したり、まだ、完全にコンピューター化されていない料金計算や、滞納しているお客様への督促などのほか、電話帳掲載事務など、バックヤードを経験しました。 続いて、料金計算のため、交換機に付いている度数計(メーター)数値撮影や、前月と比較しての計算や、交換機が正常に動作しているかのチェックなどの、自動運用と言われている仕事、番号案内(104)や手動接続通話(100)などの電話交換の仕事を経験し、24時間サービスの電話交換部門では、泊まり勤務も経験しました。女性中心の職場、男性の宿直室は狭い部屋でした。 このころは、三公社五現業と言われた、半官半民の企業体にスト権を与えるかが大きな問題になっていたころ、一年目の暮れに、1週間以上におよぶスト権ストが行われ、国鉄が全部止まることになりました。電電公社の場合、交換機が主役ですから、電話はつながりましたが、手動交換や電報、故障修理などに影響が出ることになりました。 大混乱になる予定が、思ったほどではなく、スト権ストを契機に、戦後強力だった組合運動が、次第に終息へ向かい始めたような気がします。それまでは、本社研修での指導で組合未加入でした、スト権ストの際には、扱いに困ったと思いますが、そのあと、組合に加入しました。、すぐに組合に回収されましたが、数枚、スト参加の処分書をもらいました。そんな時代でした。 |
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今日も思いつくまま・・2018年3月12日(月) |
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あれから7年、阪神淡路大震災の朝5時46分、ニューヨーク9月11日の朝8時46分に続く、14時46分。20世紀終わりから21世紀初めに起こった大事件なので、不思議な気がしたものです。ニューヨークは人災、大地震は自然災害ですが、大惨事という点では同じです。時間の経過とともに、歴史となり、ライブから、記憶へと風化しますが、事実は事実です。 縁があって、青森県六ケ所村にある、原子力燃料処理施設を見学したことがあります。八戸からスピード違反しそうになる快適な道路をレンタカーで自制して走り、施設周辺にある、ログハウス風の家や、温泉施設、ゴルフ場などを見ながら、見学をしました。本来は、ここから、フランスに送り、再利用できるようにする予定だったということでした。 施設から、専用道路で船積みする港湾施設と直結しています。何も通らない、道路だけが残り、燃料は地中に作られた施設で保管されていました。見学したころが、震災直後の節電とか、計画停電とかも少し落ち着いたころでした。保管場所がいっぱいになったら、どうするのかという質問の答えは、さらに保管施設を拡張するということでした。 大昔と言っても、40年くらい前、通産省に出向し、中東を担当していた石油危機のころは、21世紀初頭に石油が枯渇するということで、原発事故直後同様、代替エネルギーや省エネが叫ばれました。そんなこともあって、クルマの省エネやハイブリッド化が進み、ガソリンスタンド倒産があちこちで発生しています。ガソリン価格もとんでもない水準にはなっていません。 10年前のエアコンを取り換え、特段、省エネ機種にしなくても、半分くらいしか電力を使わなくて済むという話です。確かに、数年前、2倍の容量の冷蔵庫にした際、電気代が減りました。とめどなく、省エネ、節電ができるわけではありませんが、原子力発電所を作ってしまったから稼働するとか、作り続けなくても良いのではと思っています。 ダムや高速道路の技術者がいる限り、作り続けなければならないという話を聞いたことがあります。和服を着なくなって、呉服屋や洗い張りという職業が減ったり、経師屋(きょうじや)、羅宇屋(らおや)などのように、何をする仕事か、知っている人もほとんどいな職業もあります。原子力発電技術者がいるので、という本末転倒にせず、需給を算数で計算したいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2018年3月6日(月) |
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小田急線の千歳船橋と祖師ヶ谷大蔵の間が高架になり、環状八号線をオーバークロスするようになったのは、確か高校生のころ、50年近く前のことです。高架は複線でしたが、用地は複々線分になっていました。そのころから、混雑をし、朝ラッシュ時間帯には、のろのろ運転だった小田急線もいよいよ高架複々線になるのかと思ったものでした。 実際に計画はあったのですが、そのあと、しばらくは何も進まず、沿線住民からの訴訟で、高架線ではなく、地下での複々線にしてほしいという話があり、決着がつかないまま、時間だけが過ぎていきました。そのころ、地下を走るロマンスカーなど、誰も乗りたくないのではという話もありました。東京メトロ千代田線からの直通特急を大々的にPRしている今とは大きな違いでした。 それでも、徐々に話がついたようで、和泉多摩川喜多見間から高架複々線が完成し、計画が進み始めました。ほとんどの区間は、高架複々線でした。地下での複々線になったのは、地形的に高架線を作りにくかったと思われる、成城学園前駅周辺と、下北沢の手前、世田谷代田東北沢間でした。京王井の頭線との乗換駅、下北沢駅も地下二層になりました。 高校時代の通学ルートは、自宅から豪徳寺駅まで、東急世田谷線に乗り、豪徳寺駅からは小田急でした。もっと以前には、成城学園前駅も、経堂駅も、急行停車駅ではありませんでした。成城学園前駅は、朝の上りだけ、通勤急行が停車していましたが、急行がすべて止まるようになったのは、ずいぶんあとのことでした。 60年近く前の小田急線は、今のような10両編成の電車が中心に走るのとは違って、昼間の時間には、片側2ドアの小型電車が2両や3両で走っていても十分な程度の乗客数でした。昔の写真を見ると、信じられません。経堂駅には駅構内に踏み切りがあり、成城学園前駅の駅舎も木造でした。「三丁目の夕日」の世界そのものでした。 大幅な増発となる、ダイヤ改正は3月17日土曜日からですが、3月3日土曜日から複々線を使い始めたので乗ってきました。大学を卒業したあと、しばらくは小田急線を通学や通勤に使っていませんでした。沿線に住んでいる今も、たまに乗るだけですが、ふるさとという気分ではあります。ということで、開通日に乗れたのは幸いでした。 |
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今日も思いつくまま・・2018年2月26日(月) |
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日本列島全体が、冷凍庫や冷蔵庫の中にあるような日々が続いています。梅が咲き始めたり、桜のつぼみもふくらみはじめ、春が近いことを気づくことも増えてきましたが、冬が終わりません。先週行った福岡空港も、先々週の松山空港も、飛行機からゲートに出た途端、寒さを感じました。暖冬や、温暖化はどこに行ったのかなと思ってしまうくらいの今年の冬です。 今年は、韓国の平昌で、冬季オリンピック。時差のない国での開催ですが、噂のような、アメリカのテレビ放映権の都合かどうかわかりませんが、深夜まで終わらない競技も多く、帰る観客は大変だなと思います。開催前には、本当に開催できるのかなどと言われていましたが、始まってみれば、毎日のように、面白く見てしまいました。 ニューヨークに住んでいる時のオリンピックの放映はアメリカ人選手中心で、日系テレビ局では、放映権を持っていないので、映像なしでしたので、日本人選手を見ることができませんでした。海外に出てみると、里ごころのスイッチが入り、日本のニュースが気になってしまうので余計に見たくなった記憶があります。国別対抗試合だから、当たり前だと思います。 それにしても、日本人選手の活躍が、日本が素晴らしいと強調されるとあれっという気がします。報道でも、お金が足りなくて、大変だったマイナー競技の話などが出されていますが、個人の業績を全体にして、報道することへの違和感なのかもしれません。何はともあれ、24日土曜日の女子スケートマススタート金メダル、女子カーリング銅メダルは興奮しました。 女子カーリングのLS北見、今はリザーブとしてゲームには出ない本橋麻里選手が、チーム青森時代、NTTラーニングシステムズで支援していました。そのころのチーム青森のユニホームにNTTLSというロゴを入れたこともあります。そのころは、支援企業も少なく、カーリング自体もここまでメジャーではありませんでした。 本橋選手が今のLS北見を作ってからも、支援が続いているようです。LSは常呂町のロコとイタリア語で太陽のソラーレだとそうですが、ラーニングシステムズのLSだとばかり思っていました。100%間違ってはいないと今でも思っていますが。チーム青森当時の本橋選手へのNTTLSのサポート、大した額ではありませんでしたが、大きな花になって、良かったです。 |
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今日も思いつくまま・・2018年2月19日(月) |
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入社してからの半生記の続きです。三重県津での研修は、1年3か月間、1975(昭和50)年5月上旬から、1976(昭和51)年8月下旬まででした。その間、1年目の12月には、スト権ストが行われました。三公社五現業と言われた、国鉄、電電、郵政など、生活関連の政府企業が、禁止されているスト権回復をめざしてのストでした。 その後に、組合に入りますが、そのころは、研修生ということで、組合未加入でした。ストの間は名古屋で研修という名目で、何もしなかったように記憶しています。電電公社はすでに自動交換が中心でしたから、電報配達など一部を除き、そんなに影響はありませんでしたが、国鉄はほとんどストップし、大変な影響が予想され、スト権回復の圧力になると考えられました。 ところが、実際には、同じ労働者である、会社員や公務員も、自衛し、別ルートで通勤したりと、混乱はあったものの、大変なことにはなりませんでした。三公社五現業の組合がそろって決起したスト権ストは、そんなことで終わりました。戦後、強力な存在だった、労働組合の団体、昔、陸軍、今、総評と言われた組織が、徐々に存在感をなくした契機だったのではと思います。 田中元首相の逮捕も、このころだったと記憶しています。今、思えば、ロッキード事件そのものが、どうしてあのような展開になったのかという謎が言われていますが、日中国交回復を始め、日本列島改造論など、足跡が大きすぎたのかもしれません。スト権スト、田中元首相の逮捕など、ドル変動相場制や、石油ショックに続き、戦後が変わった時代だったのかもしれません。 スト権ストのあとも、電電公社の中は変わりませんでした。研修の後半は、交換機の保守とか、電力設備の保守、番号案内などの電話交換の仕事をしました。国鉄では運転や車掌などの業務を経験するようですが、このような本社採用の現場研修、お客様として、見学だけにならず、失敗をふくめ、いろんなことをさせてもらったのは良い経験でした。 三重県の津も、研修で初めて行った土地でした。東京まで、近鉄と新幹線で3時間半ですから、遠くはありませんでしたが、初めての一人暮らし。津駅で見た、東京行き寝台特急紀伊の表示には、里心が刺激されました。それでも、奈良県や伊勢志摩など、今まで行ったことのない土地に足を踏み入れ、いろいろな人と巡り合うなど、悪くない社会人スタートでした。感謝しています。 |
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今日も思いつくまま・・2018年2月13日(月) |
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退勤時に渋谷や、品川が大変だった、1月22日月曜日の大雪の時には、風邪を引いていたので助かりました。夕方、名古屋で宴会の予定で、風邪のため、なんとか直出をして出席しようと思っていたところ、先方から雪の予報なのでやめましょうというお申し出がありました。お言葉に甘えて、しんしんと雪の降る中、リモートアクセスで仕事をしながら、臥せることができました。 4年前の雪の時は、確か、日曜日だったので、長靴を履いて、雪散歩。ニューヨークでの大雪の時も、郊外の一戸建てに住んでいる人は、翌朝の雪かきで悩んでいる中、犬と同じように、セントラルパークで雪景色を楽しみました。無責任のようですが、都会の雪、いつもの喧騒がなくなり、音が吸い込まれるような静寂さは、雪の日のぜいたく。どうしても、楽しんでしまいます。 20年近く前、ニューヨークに勤務していてころ、20世紀最後のころ、成人の日の大雪に東京で遭遇しました。最初は大したことないかなと思っていたところ、郊外から電車が止まり始め、出られないということで約束はキャンセル。世田谷の実家から、横浜のアパートへ戻ることにしましたが、途中で、横浜への電車がストップ。幸い、時間はかかりましたが、無事到着、休日で幸いでした。 翌日には、宴会。22時までには帰るようにしている今と違って、終電車に乗れずにタクシーに乗ろうとしたら、前日の大雪の余波もあり、つかまりません。そのころ、普及し始めた携帯電話で無線を呼んでも、固定電話のあるお店からかけてくださいという回答。結局、帝国ホテルの長蛇の列に並んでタクシーに乗ることができました。危機管理失格でした。 成人の日をはさんだ飛び石連休だったのかもしれませんが、通勤時間の混乱は記憶ありません。そのせいか、夜の人出が少なく、雪の残っている街を敬遠して、個人タクシーを中心に、タクシーそのものが少なかったのが、タクシーがつかまらなかった原因だったと思います。もっとも、日比谷から、横浜までタクシー代は1万円以上、終電車まで帰っていたらと反省しました。 その時から、2,3年後、21世紀になったら、お店の予約や、タクシー予約で聞かれる電話番号が、固定電話ではなく、携帯電話になりました。20年近く経った今、徐々に増えているのが、電話での予約ではなく、スマホアプリでの予約。20年くらいのスパンで、大きな変化があるようです。そんなことを考えた、今年の大雪でした。おかげ様で風邪は治りました。 |
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今日も思いつくまま・・2018年2月5日(月) |
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先週は木曜日から沖縄、那覇に行ってきました。長かった風邪からやっと復活し、極寒の東京を避け、20度近くある気温に、ゆったりと過ごしました。去年は何回も仕事で沖縄に行きましたが、初めて行ったのは数年前、長時間宴会が無理そうだと思っての日帰りは厳しかったようで、具合が悪くなり、戻った翌日から2週間入院しました。一病息災の始まりになりました。 自治体や企業回りが仕事なので、沖縄の文化に触れる機会がそんなに多いわけではありませんが、全くわからない琉球語や、建物のデザインや色合い、立派だと言われる沖縄のお墓など、異国情緒を味わいました。那覇空港も、他の日本の空港ではなく、アメリカ占領時代に設計されたのかなと思うような、ゲートの配置だなと、これは最初から思いました。 これは、長崎県対馬市に行った時にも感じたことです。対馬市は長崎県ですが、飛行機のメインルートは福岡空港からです。福岡の財界の人から、対馬の韓国化が進んでいるので、福岡県から観光客を送り込まなければという話を聞きました。確かに、空港から中心部への道沿いには、ハングルの看板や、免税店があり、韓国に近いことを感じました。 ところが、対馬市や、対馬で食事をした店の人からは、韓国から人が来てくれているのでありがたい。私に対しても、次の機会には、パスポートを持ってきて、帰りは船で1時間の釜山経由で帰ったら良いと進めてくれました。朝鮮通信使をめぐる歴史でも、日本より、韓国との交易や、文化、政治上のつながりがあったという感じでした。 だからと言って、韓国領になりたいという話ではありません。対馬は対馬です。沖縄も、東京への距離より、台北への距離の方がはるかに近く、LCCのバーゲン値段では片道1900円くらいで、週末に行ってくるというのは普通のことだと聞きました。遠くの親戚より、近くの他人とはよく言ったものです。街の雰囲気からも、アジアへの近さを感じます。 街の空気をたっぷりと吸ったあと、那覇市の隣、宜野湾市市役所に隣接している普天間飛行場を体感し、あちこちにある、東京都福生のような基地と隣り合わせの景色の中をクルマで走っていると、対馬ともども、国境の地だということを痛感します。というか、昔からの国境という概念ではない、地政学があるのではという気がしました。今度は、プライベートで行ってみたいです。 |
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今日も思いつくまま・・2018年1月29日(月) |
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1971(昭和46)年に大学に入学をしてから、1ドル360円固定レートが変動になり、中東紛争をきっかけに石油ショックが起こり、その関連での物不足、買い占め、卒業寸前で内定取り消しなど、右肩上がりが曲がり角になるようなことが起こりました。それでも、入社したあとは、右肩上がりに復帰し、ベースアップも続き、成長が続きました。 入社した1975(昭和50)年、ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕され、時代が変わったということを実感しましたが、仕事はまだまだ、三重県津での研修が続いていました。外での作業が多かった線路部門の研修での日焼けも、内勤中心の営業部門で、元に戻り、窓口でタバコを吸いながらのお客様応対が続いていました。 当時、電話を引くためには、申し込んでしばらく待つ必要がありました。しかも東京など都市部では債券15万円と、設備設置負担金ということで5万円が必要でした。その後、国鉄もふくめ、大幅に値上げをした際には8万円になりました。債券は多少手数料を払えば、証券会社で売れましたが、電話を引くのは、初任給7万円のころでは、贅沢なことでした。 それだけ、払うから、引いてほしいと申込書を書いても、1978(昭和53)年までは、設置されるまでに時間がかかり、順番を早めるために、賄賂を払うという汚職さえありました。日本電信電話公社は、政府の関連機関でしたから、立派な犯罪でした。そんなころの営業は上から目線、お客様ではなく、客という呼び方、銀行やデパートとは大違いでした。 このほか、電話局の仕事では、この客(加入者と呼びました)に、どの設備を使ってもらうか、電話局から、設置する場所の近くの電柱までの設備を割り当てる仕事や、交換機につながるような設備の指定などの仕事、電力設備の保守、番号案内などの電話交換業務があり、これらの部門を数か月単位で移動し、お客様扱いで1年半を過ごすことになりました。 当時、本社採用という、幹部候補生養成コースで採用されていました。国鉄なども同じような仕組みでした。ということで、大学卒業後も、1年以上続けた研修生。就職ではなく、就社という時代の余裕だったのではないかと思います。43年前に入社した同期、積極的に外へ飛び出したのは、1割以下、転職が多くなった今では考えられないことかも知れません。 |
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今日も思いつくまま・・2018年1月22日(月) |
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これから始まる、平昌オリンピック、パラリンピックが終わると、トランプ大統領が北朝鮮のミサイル基地を爆撃するのではというニュースがあります。去年の秋ころからは今か今かと言われていますから、今回もそうなるかもしれませんが、このままの状態が永遠に続くとも思えないので、予想通り、何かが始まってしまうかも知れません。そんなことにならないでほしいですが。 朝鮮半島が戦場になった際、韓国にいる日本人をどうやって救出するかという話題もあります。韓国政府は、自衛隊の飛行機や船が韓国に来ることは容認できないということなので、どうしようかということです。在韓の日本人は5万人程度だそうです。何かが起こると、忘れていたことが蘇るようです。朝鮮戦争から65年、太平洋戦争から72年になります。 生まれたころと生まれる前の話ですが、今回、北朝鮮攻撃を積極的に進めよう、そのための、法制を整備し、攻撃用戦力を拡充しようと熱心な日本を見て、急速に昔を思い出している人が出てくるようにも思えます。気持ちを入れ替えていじめをしないと誓って、何日か実行しても、どこかで、そうではなかったと思われたら、その間の努力はノーカウントかそれ以下になってしまいます。 北朝鮮から、遠く離れたアメリカは本土やハワイ、グアムなどに届くミサイルの脅威はあっても、所詮は地球の裏側みたいなものですが、地球儀を見ると、韓国、北朝鮮と日本、中国は同じように見えてしまいます。9月11日の際にも、北朝鮮の関与という噂があるという、今でいえば、フェイクニュースがありましたが、同じアジアの逆相乗効果を感じました。 ここまで来ると何かが起こるかもしれません。その時に、一番熱心だったのは、極東の島国だったと、トランプ大統領が評価をしてくれないことを祈るばかりです。1941年ころの日本と同じだよねと思われるリスクも多々あるように思いますがどうでしょうか。心理戦を耐え抜くのは決して、容易ではないと思います。簡単なことが引き金になってしまうリスクがあります。 仕事でアメリカに行ってから、22年、ロックフェラーセンターや映画会社を日系企業が買収したりと、まだまだ、日本はライジングサンだと思っていました。今でもおもてなしの国だったり、世界で尊敬される日本と言われたい気持ちがたっぷりの状況が続いていますが、もっと地味でいいので、争いを避けたい存在になればと思っています。何も起こらないことを祈っています。 |
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今日も思いつくまま・・2018年1月15日(月) |
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早いもので、2018(平成30)年1月も、中旬ということになりました。もういくつ寝るとお正月は望むべくもありませんが、それにしても、時間の経過が早いですね。先週のように、月曜日が成人の日で4日しかないところ、虎ノ門オフィスへの出勤は木曜日だけということになると、本当にあっという間です。1月も後半、春はもうすぐそこに来ているようです。 以前、書いた入社1年目。5月から翌年8月まで、三重県津電報電話局で研修をしました。最初のひと月が営業窓口、確か、そのあと3か月が線路と呼ばれる、電柱に上ったり、お客様のところで故障修理や、電話機設置をする部門。柱上作業は難しいので、体験学習だけでしたが、スコップで穴を掘ったり、電柱設置の手伝いをしたりと、いろいろな経験をさせてもらいました。 そのあとは、営業部門に戻り、受付や料金回収・苦情処理などを確か4か月。夏が屋外作業中心の線路部門だったので、営業部門に戻った時には、日にやけて、少しばかりひ弱さがなくなったようでした。当時の窓口は、たばこを吸いながら、お客様との応対をするなど、今では信じられないことが行われていました。お客様も男性が多く、たばこが普通だったのだと思います。 線路部門の時も、朝職場を出ると、打ち合わせを称して、喫茶店でお茶を飲みました。生垣があり、外から見えにくい店を選んでいたので、確信犯ですよね。もっとも、他の会社でも、似たようなことはあるらしく、コーヒーを頼むとおつまみのピーナッツが出たりと、のどかな感じでした。当社でも、どこの会社でも、今では信じられない、コンプライアンス違反ですよね。 夏の線路部門は、終業後、みんなで海岸にある、ホルモン焼の店に行くことが多く、終わったころは、一番飲んでいない人が、運転して帰るということをしていました。喫茶店や、酒気帯び運転、研修生は毅然として、やってはいけないと諭さないといけないと言われていましたが、現実は現実、職場に溶け込むことを最優先しなければということだったと思います。 われわれ、研修生は本社採用。現場のみなさんは地方採用という形で仕事をしています。現場に流されてはいけないとは思いながらも、現場のみなさんが、何を考え、行動しているかを学習するのも、研修の目的と称し、みなさんに交じるように、心がけました。大学までの生活と180度違った、体験や経験、2度目の営業部門で、研修期間はちょうど、折り返し点です。 |
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今日も思いつくまま・・2018年1月8日(月) |
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65才の新年。1975(昭和50)年4月から、43年間サラリーマンとして仕事をして、最後の年明けになる予定です。取締役になるときに、退職手続きをしたので、すでに、再就職状態ですが、グループ会社に属しているということでは、今度が本当のリタイア、退職ということになります。もう少し、感慨があるかなと思ったら、いつもの年明けでした。 1976(昭和51)年、社会人スタートから初めての新年。三重県津で現場研修中のことでした。東京の実家にどうやって帰ったか、覚えていませんが、通常の帰省の逆コース、苦労をして指定券を確保したり、席を取ったという記憶もなく、当たり前のように、実家での年末年始を過ごしたのだと思います。入社してから9が月、待ち遠しかった年末年始でした。 それから、40回以上の新年を経験して、今に至ります。その間、7回はニューヨークでの新年でした。日本のニュースでも話題になる、タイムズスクエアのカウントダウンも一回だけ、寒い中、10ブロック以上も離れた場所で参加したため、いつ本当のカウントダウンかがわからず、何度も何度も、カウントダウンをしてしまいました。 ニューヨークのお正月は、クリスマス飾りもそのまま、新年の休みは1日だけです。大みそかはカウントダウンのころ、あちこちでパーティをして、大騒ぎということもあったようですが、基本的には静かな年末年始。2日からは、通常の仕事スタートとなります。ちなみに、クリスマスツリーなどが本格的に片づけられるのは、日本で言うと松の内が終わるころでした。 親戚が少なかったので、お年玉の臨時収入は少なかったのですが、それでも、イベント続きのクリスマスとお正月のある冬休み、首を長くして待ちました。今は、あっという間に一年が過ぎてしまいます。もういくつ寝るとお正月ではなく、次のお正月までに、いくつも寝ていないような錯覚に陥るくらいです。それでも、気分はうきうきしますが。 今までの40年以上、転勤や異動もありましたが、次の新年、想定内というか、毎年同じことの繰り返しでした。来年も同じようにめぐっては来るでしょうが、何を考えているのかなと思ったりもします。超高齢化社会に向かっている日本。65才はまだまだ若輩者。と言えるように、元気で毎日を過ごせる日を一日でも長くしたいというのが、来年への夢ですが。 |
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今日も思いつくまま・・2018年1月1日(月) |
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シンガポール滞在での主食は、屋台です。ホーカーセンターと呼ばれ、常設の屋台が何軒も集まっているフードコートです。最近、ミシュランでシンガポールの屋台が選ばれたということで、先日、その店を現認しました。ローストチキンの海南鶏飯を主として出す店です。一時期は3時間待ちだったそうですが、平日の11時半で、かなり並んでいました。 行列店も数軒ありますが、大体は数人並んでいるだけです。ミシュラン店では食べていないので、何とも言えませんが、大体において、味はおいしく、裏切られることはありません。取り放題のチリソースや、唐辛子で自分の好きな味にして食べます。一皿、スープ付きで2ドル50セントから3ドル、200円から250円くらいということになります。 今回、シンガポールに行く前に滞在したマレーシアで、ホーカーセンターに行く機会は残念ながら、ありませんでしたが、たぶん、シンガポールより安いと思います。ここだけ見ると、日本よりはるかに安いです。昔は発展途上国だから、とか、低開発国だから、物価が安いのは当たり前と思ったのですが、シンガポールの一人当たりGDPは日本より上になっています。 クーラーのない、セルフサービスのホーカーセンターでは、日本よりはるかに安く食事が出来ます。あの物価が高いニューヨークでも、街角のストリートベンダー(屋台)で買えば、ベーグルにコーヒーの朝食が2ドルか3ドルくらいなので、お得モーニングサービス並みです。一方、人出のかかるレストランは、大衆食堂でも、1000円以上は当たり前、普通に2000円になります。 ネットで、ニューヨークのラーメンが2000円という話題が出ていましたが、普通のダイナー(大衆食堂)でも、定食に税金とチップを加えると15ドル以上、約2000円です。日本のように、ワンコインや1000円以下で、セルフサービスではない、人出のかかるサービスは難しそうです。これは、シンガポールでも、マレーシアでも同じです。 ということは、人件費が高いということだと思います。一方で、日本の人件費、賃金が安いということになります。今は、中国からの人など、低賃金で雇えるのでしょうが、それぞれに経済発展し、日本を追い越すとそうはいきません。ここのところ、毎回シンガポールで毎回感じた勢いをマレーシアでも感じました。中間層が充実し始めているということを実感しました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年12月25日(月) |
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いよいよ今年も最後の週。65才になったのが今年の9月なので、次の株主総会でリタイアというルールになっています。まだまだ、仕事中なので、感慨もありませんが、現役最後の年末年始ということになります。1975(昭和50)年4月に入社してから42年。来年の4月で43年ということになります。あっという間のことでした。 入社したころは、電話がすぐ架設できない最後の時期でした。1978(昭和53)年には、全国自動即時ということで、全国どこへでもダイヤル通話が可能になるとともに、積滞解消、つまり、注文した時点で、待たせず、開通日がわかるようになりました。例外がなかったわけではありませんが、電話をかけるより行った方が早いとか、架設を早めるための汚職などが原則なくなりました。 このあとも、21世紀になるころまでの20年以上、経済成長や、一人暮らしでも電話を引くなどの需要が強く、施設数の増加が続きました。右肩上がりの時代です。このころが、アナログ電話の最盛期でした。1985(平成60)年4月に、20年と少し続いた電電公社は民営化され、日本電信電話株式会社(NTT)となり、1999(平成11)年の分割まで、この形で続きました。 入社して、失敗したなと思ったのが、始業時間。9時だとばかり思っていたら、8時半始業でした。そのころは、少しでも眠っていたいころ、朝の30分は深刻な差だと思いました。4月1日の入社から、研修期間を経て、5月初め、現場見習いとして、三重県の津に配属されました。研修というバッファを通じて、少しづつ慣れたのかもしれません。津では平気でした。 津でのくらしは、津市のとなり、久居市というところにあった独身寮。確か、自衛隊のあるところだったと思いますが、津の電話局の最寄り駅、津新町から一駅ですが、距離は長く、5分以上かかりました。その後に、中間駅が出来ていますが、峠越えのルートで、自然を感じながらの通勤。県庁所在地なのでそこそこに混みあいましたが、東京とは比べ物になりませんでした。 そのころは、地方出身者を大量に採用していた時代なので、個室の独身寮ではなく、精神的につらくらないようにという配慮から、相部屋でした。正直、こちらは、その方が参ってしまいそうでしたが、相方は建築の専門家でほぼ同い年の良い方でした。途中で名古屋に転勤したあとは誰もは入居しなかったので、個室状態。ありがたかったのも事実です。 |
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今日も思いつくまま・・2017年12月18日(月) |
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混雑している夕方の名古屋駅新幹線上りのホーム。そこに止まっていた新幹線の回送車両。いつもと違ったので変だと思ったら、あとの報道で、車内で焦げ臭いにおいがして、結局名古屋で乗客を降ろしたとのことでした。250キロ以上のスピードで走っているので、今回、亀裂が入った台車の負担も大きいのだと思います。大事故にならずに良かったです。 新幹線で東京と名古屋を往復した、名古屋勤務は、30年以上も前のことでした。1964年の開通から20年。そのころ走っていたのは、最初と同じデザインの車両。それでも博多まで延長した時から、食堂車がついたり、12両が16両になっていました。同じスタイルの車両でも、順番に更改していたはずです。新幹線開通から、再来年で50年になります。 日本が高度成長と言われるようになった、1960年代になる前、東京大阪を6時間半で結んだ東海道線の電車特急こだまは、途中でつばめやはとなどの列車も加わりましたが、6年で東海道新幹線にバトンタッチしています。貴重な風景は、三船敏郎の映画「天国と地獄」のシーンで出てきます。それが見たくて、DVDを買ってしまいました。そのころは小学生です。 走り始めた1958年秋は幼稚園、東海道新幹線にバトンタッチした、前回の東京オリンピックの時は小学校6年でした。子供の時間でしたから、夏休み、クリスマス、お正月まで、気の遠くなるような感じの長さでした。あこがれた特急こだまも、そんなころ。高度成長の右肩上がり、今日より明日は必ず良いと多くの人が思えた6年間、長く感じました。 子供の時間から、大人の時間に、そして、中年から壮年、老年と、時間がどんどん早く感じるようになりました。24時間の長さは同じですから、年令を加えることで、経験というか、知っていることが増え、感じる時間の長さが変わっているのかもしれません。楽しい時間はあっという間に過ぎ、早く終わってほしい時間は永遠に続くようなゆっくりさです。 新幹線のような高速で、時間を感じるようになったら、年令は60才台の半ば。なんかしてても、しなくても、同じかも知れません。嫌だなということも前にように長く感じないのであれば、嫌だなと放り出したようなことをやるのも一案かもしれません。アウトプットが出来るかどうかはわかりませんが、勉強や修練に使うのも良いかなと思いました。止まっている新幹線を見て、考えました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年12月11日(月)
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師走も3分の1過ぎました。先週金曜日は、官庁のボーナス支給日、そろそろ、忘年会最盛期。バブル時ほどではなくても、年末の賑わいが本格的にスタート。就職してから40年以上、アルコールに弱いので、ずっと割り勘負けをしていますが、宴会の雰囲気は大好きです。クリスマスまでの大騒ぎが終わるとあっという間に新年の静けさ。 就職してから40年以上、びっくりしてしまいます。あのころ、給料が多かったわけではありませんでしたが、週に1,2回はガードを越えて銀座エリアで昼食。コーヒーを飲むと1000円くらいだったと記憶しています。今でもある有楽町芳蘭のラーメンや、虎ノ門ハングリータイガーのスパゲッティ(パスタって雰囲気ではありません。)は、コーヒーなしで1000円以上、今もさほど変わりません。 忘年会とか、送別会を除いて、月に1,2回の宴会の予算は5000円、たまには二次会に行くとプラスアルファ。ボーナスでつじつまを合わせる必要もありましたが、そんなくらいでした。今のランチはワンコイン、夜の宴会は、飲み放題で3000円くらいと、40年前より、安くなっているようです。お弁当を買えば300円以下とか、居酒屋も探せば、千円でべろべろに酔える、センベロという言葉があるほどです。 外がこんなに安くなったので、社食の割安感が減小しています。昼も、300円以下のお弁当よりはだいぶ高くなるし、夜の宴会などは、大量に仕入れるチェーンにかないません。従業員の福利厚生のための施設が、外の値段に勝てないということを喜んで良いのか、悲しんで良いのか、難しいところです。社食の店長も、一人でも多く、一品でも多くと、販売促進施策に熱心です。 オフィスの近所でも、盛りが良くて、生卵食べ放題の立ち食いそば屋の行列は尋常ではありません。コスパが良いと評判になると、大行列が大行列を呼びます。40年前の給与水準より、正社員であれば、額面は間違いなく高いのですが、正社員は減少しています。一方で、国立大学の年間授業料が50年前の50倍くらいになった教育費のように、高くなっている物価もあります。 衣服は、ユニクロやしまむらなど、昔だったら、投げ売り程度の値段で、質の良いものを買えたり、野菜のような、天候などに左右される食材でなければ、外食も含め、お得に大安売り。安い値段で、品質の良いものを買えるから、生活レベルが上がったと言えるのか、難しいところです。予約のとれないミシュラン店など、高い店もあるという今、悩んでしまいますね。 |
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今日も思いつくまま・・2017年12月4日(月)
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今年も師走になりました。このブログもかれこれ20年。気がついてみると結構な時間と思いますが、あっという間でした。41才にして、初めての海外生活でニューヨークに行ってから21年になります。その数年前、初めてニューヨークに行ったとき、摩天楼を仰いでびっくりしました。その時には、こんなすごいところに住むなど、想像もしていませんでした。 12月になると、最初の大イベントが、ロックフェラーセンターのクリスマスツリー。点灯式の熱気に触れたとき、ニューヨークに来たなと実感しました。11月末の感謝祭が終わると、クリスマスデコレーションが始まります。感謝祭は、日本のお正月やお盆と一緒で、故郷に帰る人が多く、街は静かになります。ニューヨーク郊外では、ドライブ中に食事するのも大変でした。 東京のクリスマスツリーは、11月中旬くらいまでに、点灯式を終えてしまいます。街が華やかになるのは良いのですが、師走に向け、せわしなさが募る感じです。逆に、お正月を控え、12月26日になると、一気に、クリスマスツリーやデコレーションが跡形もなく片付けられ、門松が表れ始めます。洋風から和風へ、一気に転換です。 ロックフェラーセンターのクリスマスツリーが撤去されるのは1月になってから、日本の暦で行くと、松が明けるころです。お正月は1月1日だけがお休みで、大みそかに大騒ぎしておしまいです。タイムズスクエアに物見遊山で出かけましたが、遠く離れた場所だったので、いつが年明けかわからず、何度も何度も、ハッピーニューイヤーを言った記憶があります。 英語学校で、評価されるような英語は上達しませんでしたが、使い方には慣れたと思います。何より、上手にしゃべろうと思わず、相手にわかってもらうように話をすると思ったら、なるべく、意味のわかるような単語の発音や、シンプルで短い文章にし、相手の顔を見て、修正しながらしゃべるようにしたら、それまでより会話が成り立つようになりました。 それより、慣れたのはニューヨークの雰囲気です。遠い日本からの駐在ですし、コアなニューヨークなど、触れることすら出来ませんが、ニューヨーカーらしく生活しているという感じはありました。いろいろなものを飲み込む、ビッグアップルだからだと思います。この感じ、多様性はラクでした。日本が単一性を強め、一神教の国にならないように。 |
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今日も思いつくまま・・2017年11月27日(月)
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2001年9月11日火曜日のニューヨークで起こった事件のあと、しばらくの間、飛行機が飛べなくなって、日本に戻れなくなった人たちが、日本のニューヨーク総領事館に、宿の手配、お金の援助を求めて申し入れしたというニュースがありました。日本国民に対するサービスとして、当然かどうか、自己責任なのかどうか、考えさせられました。 自分も、付き合いのあった日本航空の現地スタッフに、中東に飛ばしたような、救援機を国の負担で飛ばさないのかと質問したところ、ニューヨーク在住の8万人を日本に帰すためには、ジャンボ機で200機必要になり、現実には無理という回答でした。在留邦人が少なければ出すというわけではありませんが、なるほどと納得しました。 去年の熊本大地震でも気づいたことですが、自治体の人が出勤し、救援活動に従事することができるようになるまでには時間がかかるということです。3日間は、自分たちで生き延びるための、非常用の防災用品や、水、食料を準備しておくことが言われていますが、それでは足りないのではということでした。専門家も1週間は必要ではないかという意見でした。 国とか、自治体がどこまで、何をしてくれるのか、国民や住民のために活動してくれるのかどうか、難しいところです。税金を払っているのだから、何でも聞いてくれて当然だという、モンスタークレーマーのようになりたい気もしますが、言ったから、ごね得にはなりません。国や自治体のルールや意向にに反することで、スピード違反のように、犯罪人なるかもしれません。 普通の、一般人は対象にしていない法律でも、スピードを出しすぎて捕まった途端、普通の人でも、一般の人でもない、犯罪人になってしまいます。ニューヨークに住んでいたこと、大企業の現地法人から言われたこと。みんながやっていても、赤信号では渡らないようにしているとのことでした。軽微なことであっても、違反は違反、申し開きはできません。 日本のパスポートは世界一信用されるとか、日本人だと入国審査がラクだとか、日本国民としてのメリットだと思います。ジャパンアズナンバーワンの時代は昔話になってしまいましたが、円の信用度も低くありません。治安が良く、安心して暮らせる日本、普通に飲める水など、十分に、日本国民、住民のメリットだとは思います。過大な要求をしてはいけないのかもしれませんね。 |
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今日も思いつくまま・・2017年11月20日(月)
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環八開通のために、小田急線の千歳船橋と祖師ヶ谷大蔵の間が高架になったのはだいぶ前のこと。その時は立体交差になっただけで、複線のままでした。それでも、かなりの数の踏切がなくなり、昭和初期に新宿小田原間の全線を複線で一気に開通した小田急線にとっては、大事件だったと思います。毎年、遠距離からの通勤者が急速に増加していたころです。 来年3月に、下北沢周辺の複々線が完成し、当初予定していた、上り線向ヶ丘遊園から代々木上原までが開通します。下り線は、登戸向ヶ丘遊園間の用地買収問題があるらしく、もう少し時間がかかりそうですが、朝の上りラッシュ時の通勤地獄にとっては、画期的なダイヤ改正になるという発表が、ダイヤ改正の4か月以上前の11月に発表されました。 この間には、長い時間がかかっています。世田谷区の区間で、高架線での複々線ではなく、地下化してほしいという要望が強く、訴訟が起こされたり、着工ができない期間が長く続いていました。環八立体交差のころから数えると、50年近くになるのではと思います。就職して、リタイアするまでには、複々線は完成しなかった人も大勢いると思います。 以前は、オルゴール音を鳴らしながら走っていたロマンスカーも静かに走っています。地下複々線訴訟でもめていたころ、外の見えない、地下鉄ロマンスカーなど、乗る人いませんよねと、小田急の人から言われましたが、今は地下鉄千代田線乗り入れのロマンスカー増発が、複々線化ダイヤ改正の目玉になっています。座れる通勤、夢が実現するということだと思います。 豪徳寺で、東急世田谷線(1969年までは玉川線)から小田急に乗り換えて、下り方面の電車に乗って通学をしていたので、一番なじみの深いのが小田急線。今住まいも、新宿から二つ目の参宮橋が最寄り駅になります。横浜から、引っ越した時には、帰ってきたなというホッとした感じがしました。今度の複々線化が夢のような話です。 正直なところ、環八立体交差化もついこの間のことのように思います。そのころ、走っていた小田急線の電車も、ほとんどが廃止になり、代替わりをしていますが、長い長い時間が経過をしたようには思えません。どうしても、自分はあのころのままと思ってしまうのかも知れません。あのころは念願の免許取り立て、今は、そろそろ返上する年齢、時間の経過に気づきました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年11月13日(月)
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いつの間にか、年賀状を用意しなければという季節になりました。まずは、誰から来ているか、毎年1月に整理しなければと思うのですが、年賀状の用意と、前回の年賀状の整理と、年賀状を書くという作業がほとんど同時になってしまいます。遅れに遅れて、年始になってから、返事という形で、一生懸命に書いたこともありました。反省はしましたが。 以前は、仕事だけの付き合いの人にも、自分で出していたので、最高600枚ほど出した記憶があります。就職してから42回目の年末年始、ずいぶんな数の年賀状を書いたり、受け取ったりしたことになります。今は、仕事の分は会社で出しているので、だいぶ減りましたが、それでも、300枚ほど印刷をし、足りない時にはコンビニで買い足します。 筆ぐるめで住所録をデータ化するまでは、ノートを作っていました。今、思えば、アーカイブ化しておくと、自分の歴史になったとは思いますが、年末年始用の住所録、よく言えば、毎年更新、事実は、年賀状を出すためだけのものになっていました。前回の年賀状でのデータ更新、今年も大作業が目の前にあり、憂鬱です。 還暦を機に、年賀状をやめますという通知を受け取ったことがあります。確かに、その後、出しても返事がないケースが少しづつ増えてきました。自分でもそうしようかなと思ったこともありましたが、こちらも思っただけになっています。仕事をやめたら、隠居ということで、年賀状をやめますという通知を出そうかなと思ってはいますが、もう少しです。 フェイスブックでお友達になっている、先輩の動静は以前よりもっと、詳しくすることが出来ます。素晴らしい写真の腕に感心したり、いろいろなところに旅行したり、宴会をしていることもわかります。読むだけのSNSですので、自分からは「いいね」か、シェアをするだけなので、年賀状だけが発信の機会にはなっていますが、短いコメントだけなので、生存証明に過ぎませんが。 そろそろ、欠礼の喪中はがきが到着しています。不謹慎ですが、これで出す数が減るとホッとしますが、ご本人が亡くなって、遺族からいただくことも、少しづつですが、10年くらい前から、増えてきています。短い付き合いでも、年賀状のやりとりだけが続いている人もいます。アナログ、年一回のつながり、今年も気を引き締めて、準備しなければと、決意表明です。 |
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今日も思いつくまま・・2017年11月6日(月)
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東日本大震災から、6年7か月。直後に、職場の関係で、仙台市周辺に入り、川の中に流された新築の家、外側はなんともなくても、中は住めないくらいに流された家や、すべて流された地域など、テレビとは全く違っていました。数か月後、開通した仙石線の電車で塩釜市まで行きましたが、道路の信号は機能しないままでした。 すでに、暑いと感じる季節になっていましたが、塩釜名物の生どら焼の店、榮太楼本舗。商品用の冷蔵庫は復活していましたが、エアコンはまだ。津波のあとが残る塩釜駅や、駅前のショッピングセンターなど、復活していませんでした。6年時間が経過して、仙台市内や、塩釜駅周辺では、気づくことは少なくなっています。 そのあと、石巻市を数回、訪問する機会がありました。大きな被害にあった製紙工場も復活しているようですが、津波の被害のあとはあちこちにあります。石巻までの仙石線は、海沿いから山側に線路を引き直して開通しました。大きく形を変えながら、少しづつ街が復活しているように見えました。 宮城県気仙沼市と、岩手県陸前高田市に行きました。陸前高田市は、奇跡の一本松や、津波で大きな被害にあったままの中学校の校舎が、気仙沼からクルマで入ると、街の中心部に着く前に、目に入ります。そのほかはすべて流されたということにも、気づきます。かさ上げするための、土を運ぶダンプばかりです。 気仙沼は、港の近くから、急に海抜が上がる土地があり、陸前高田市ほど、広い土地が流されたという感じではありませんが、老舗の鮨屋をはじめ、流されてしまった上、今でも、印象に残る大火のため、街がなくなってしまいました。境界で残っている旧家もあり、大変だったなというのが、素直な感情です。 陸前高田に出来たショッピングモールでお茶を飲みました。東京にいると、震災からの時間があっという間に過ぎ去ったみたいに思ってしまいます。気仙沼でも、陸前高田でも、あっという間に進む時間がある一方で、全く進んでいない時間があることを、大船渡線と鉄道代行高速バス(BRT)共用のJR気仙沼駅で痛感しました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年10月30日(月)
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衆議院選挙が終わりました。結果としては、与党、野党の比率はほとんど同じ。小選挙区制になって、相対的に勝てる党がバカ勝ちするということが続いています。一回だけ、自民党をあきらめた投票者が、民主党に向いた結果、相対的に勝った民主党が政権を獲ることになりましたが、次の選挙では逆になり、今、民主党はありません。 40数年前、大学を卒業した時には、第一次石油ショックの直後で、知人が内定取り消しになったり、右肩上がりに不安が生じた時期ではありましたが、それでも、終身雇用、年功序列、結婚して子供がいるということが当たり前と思われていました。大学卒業も、今ほどには多くはありませんでした。 大学卒業者にかかわらず、右肩上がりの経済成長で、物価も上がりましたが、給与も上がり、テレビ、冷蔵庫、洗濯機という、家電三種の神器が普及し、次は、自動車、クーラー、カラーテレビ、ステレオなどなど、買いたいものが次から次へと増えていました。卒業した1975(昭和50)年は、ほぼ揃った頃でした。 全体的に貧しかった社会は、右肩上がりの経済成長で、豊かになり、大学卒業者だけでなく、社会が一斉に貧しさを乗り越え、一億総中流時代と言われるほど、貧富の格差や、識字能力の格差とともに、発展途上国や、アメリカなど大国でも悩んでいたことが、日本では目立ちませんでした。みんなで渡れば怖くなかったのです。 中国から来た観光客の爆買いが話題になりました。少しは沈静化したことみたいですが、中国など、後進国と言っていた国が急激に経済成長し、給与も上がったことで、日本は物価が安い、買い物天国になったとも言えます。確かに、数十年前から、変わっていないどころか下がっている物価もあります。 お得にしないと、売れません。だから、給与が上がらなくても、生活できるというか、売っている従業員の給与は上がらず、外国投資家のおかげで、株式を公開した新経営者だけが大儲けします。格差は開くばかりです。選挙のあと、そんなことを考えました。希望の党、良い名前だと思いましたが、何も起こりませんでした。 |
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今日も思いつくまま・・2017年10月23日(月)
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65才の誕生日を迎えて、気づいたことがあります。JALの搭乗順位で、あかちゃんを連れた人や、妊娠している人と並んでお手伝いが必要な人を先に搭乗してもらいます。急かされずに搭乗出来るのは良いことだと思います。上級会員として、時に、もっと手早くしてほしいと思いますが、そんなことを考えてはいけません。 搭乗口にあるサイネージの、お手伝いを必要な方の欄にこんなことが書いてありました。65才以上でお手伝いを必要とする方という記述です。放送では年齢のことが触れられていないので、気づきませんでしたし、実際の運用も年齢にかかわらず、お手伝いを必要としていれば、優先的に搭乗しています。 この間、映画館で、60才以上は、一人でも、夫婦割引の一人分の料金で鑑賞できると知って、そうなんだと感心をしたり、住んでいる区の運動施設が60才以上で無料になったりなど、シニア割引や無料サービスがあることを知っていましたが、65才になるといよいよ、正真正銘の老人ゾーンに入ったと気がつきました。 確かに、60才を過ぎて、心臓の調子が今一つとなり、入院して、幸い、病気ではなく、過労とか、ストレスなどからの症状だったようですが、そうだとすると、原因のはっきりした病気と違って、いつまた同じ症状が出るかということです。年齢を痛感したのは、そのあとです。体力が低下したり、行動がぎこちなくなったりです。 それでも、まだまだ、元気なつもりです。少なくとも、広告にあるように、たまには膝が痛くなったり、クルマの乗り降りが格好良くできなかったり、食べる量が減ったりなど、昔みたいにはできないこともありますが、そんなに変わっているとも思えません。そんな人に、割引や無料、もったいないような気がします。 団塊の世代のあとで、やや損をしたこともないわけではありませんが、年金や退職金の減少も、今の減益世代ほどではなかったように思えます。負担が増えると、今の消費行動のおかげで、老後破たんになるかなとも思ったりもしますが、老人優遇もほどほどに、世代間格差に目を向けた方が良さそうに思います。きれいごとみたいではありますが。 |
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今日も思いつくまま・・2017年10月16日(月)
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沖縄で、お客様感謝のイベントを開催しました。すでに、沖縄返還前の琉球電電時代から、電話帳の印刷をお願いしていた、沖縄の印刷会社に、印刷・製本だけでなく、沖縄のタウンページを企画、編集してもらい、共同で販売を行おうということにしたこともあり、ささやかなお披露目をしました。 地元の会社とのコラボレーションは初めてです。長い間、黄色のタウンページ(職業別電話帳)、緑や青のハローページ(個人名・企業名電話帳)、として、NTT東西会社の固定電話を持っている住宅や事務所にだけ、お配りしていましたが、イメージを大幅にチェンジし、固定電話を持っているかどうかに関係なく、お届けすることにしました。 固定電話保有状況データ端末を持って、電話帳などいらないというところにはお配りしないようにしながら、お配りして良い住宅や事務所を探すのは、固定電話減少が止まらない中、年々、簡単ではない作業になってしまいました。個人の属性や希望を示す情報とも言えるので、余計に面倒なことになりました。 そこで、地元自治体と連携して、防災関係情報冊子(防災タウンページ)を付け、自治体やくらしの情報を増やし、すべての住宅・事務所に届けるようにした方が手間がかからず、コストも大幅に削減できました。ハローページ配達希望がほとんどなくなったということも、ポスティング方式導入を後押ししてくれました。 来年度には、全国すべての地域で、すべての住宅・事務所にお届けします。NTT固定電話数が、IP電話を入れても、最盛期の半分くらいになっていますが、この方式を取り入れたことで、現在の配達率は7割以上。来年度には、すべての住宅、事務所を対象にすることになります。 表紙だけでなく、全面的に地元色を強め、これまでの「電話帳」ではなく、「新タウンページ」としてお届けできるよう、今回の沖縄コラボレーションをスタートしました。沖縄の航空会社(JTA)の機内誌を制作している会社です。何が出てくるか、どんなタウンページになるか、楽しみです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年10月9日(月)
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2週間前、稚内市にある、9人の乙女の碑に花をささげに行きました。2回目です。会社の仕事で番号案内=104を運営していたので、8月15日のあと、樺太の真岡電話局の交換手がソ連軍が来る前に自決をしたことをあらわす碑に花をささげました。数年前にも行きましたが、今回は104の仕事が他社に移ったので2回目です。 稚内駅近くの山の上、樺太をのぞむ場所、氷雪の門の像の隣に乙女の碑があります。昔、昭和天皇皇后が来たときに、詠んだ歌の碑もあり、稚内市の観光スポットになっています。駅の近くですが、稚内公園は自然豊かな場所で、2回とも、鹿を見ることが出来ました。稚内の9月下旬、寒いを感じました。 終戦後、さらにサンフランシスコ講和条約、朝鮮戦争後に生まれたので、直接の記憶はありませんが、子供ころ、少なくとも、東京オリンピックまでは、戦後を感じることがありました。東京オリンピックから、昭和は25年続き、平成に変わる頃の写真にも戦後を感じることもあるので余計です。 戦争を知らない子供たちという曲がありました。そのころのキーワードは平和。太平洋戦争や朝鮮戦争は記憶ですが、ベトナム戦争は同時進行。どこが違うかわかりませんが、人間の生活しているところの破壊を徹底的に繰り返す、冷戦終了後の戦争とは違うような気がしました。 9人の乙女の碑、氷雪の門も、遠い記憶、物語の中。それでも、昔の社会党ではありませんが、平和を願い、戦争が起こらないことを願いました。たまには、こんな気持ちになることも悪くないなと思いました。9月下旬の寒さが、余計そんな気持ちにさせるのかも知れません。 9人の乙女の碑は、北のひめゆりの塔と言われているようです。そんな思い出の碑や像、英雄が増えないよう、平和が続けば良いと思います。そんなことを考えた稚内でした。旭川から4時間、宗谷本線の特急でたどり着いた稚内、途中、北海道の景色を満喫しました。海産物のおいしい街でした。 |
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今日も思いつくまま・・2017年10月2日(月)
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解散総選挙が決まってから、いろいろな動きが起こっています。民進党が事実上なくなり、思想的に合っている人は希望の党公認で選挙に出馬するということになりそうです。こちらの思想も、太平洋戦争後70年以上続いているレジュームを変えたいと主張しているようです。隣国からの脅威が後押ししているのかも知れません。 戦前、大政翼賛会という名のもとに、議会のほとんどすべてが国難打破のための挙国一致体制になりました。当時の新聞紙面では、弱気にならず、戦えという言葉が踊っていました。新聞が民衆の声を代表すると考えると、民衆もそう思っていたのかも知れません。止める勢力は皆無に近くなっていたようです。 何も言えない環境は、すでにいろいろな法律や規制で、がんじがらめになっていました。共謀罪や、批判報道の抑制、テロ対策のための、異分子排除の動きなど、そのころに似ていると言われる所以だと思います。和を以て尊し、争いを好まない、日本人の性格にもあっているのかも知れません。 権力を握ることが最終の目標であれば、現政権を批判するのではなく、現政権に対し、ネガティブな反応になっている点、たとえば、批判報道抑制につながらないよう、言論の自由、発表の自由を守り、開かれた国家をめざしますと言えば、反対できません。自由に発言してもらいながらの世論誘導、不可能ではないと思います。 虎ノ門で、評判になっている立ち食いそば店に、昼前後常時数十人が行列を作っている様子がずっと続いています。人と同じことをしたいという気持ちが強いのでしょう。数年前、たまたま、行列がなかった時に食べてみましたが、年齢のせいもあり、感動しませんでした。他人と一緒が一番みたいです。 戦争をする気かと批判するのではなく、アメリカの協力を得なくても、自分たちで守れる国にしたいと言えば、反対するのは容易ではないと思います。この間の東京都議選同様、流れが変わるかも知れません。リベラルと言われる人たちを排除する必要はありません。目的達成度のためには、手段を選ばない方がなどと考えてみました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年9月25日(月)
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忘れ物、なくしものの続き。新幹線でのUSB紛失は、東京行きののぞみ。世界的にも有名な、東京駅での社内清掃のおかげで、JR東海の遺失物センターで保管されていました。上り列車の車内での遺失物は、出てくる確率が高いようで、同じ会社の中で、何人もが恩恵を受けています。なくさないのが一番ですが。 前回書いたほかにも、財布紛失さわぎを起こしたことがありました。外国に行く前日、航空券を買ったクレジットカード入りでした。絶望的な気持ちになりましたが、この時は、気がつく直前に入った喫茶店で回収をしてくれていたので、大助かり。回収時におみやげ用のお菓子のセットを買いました。 ハンカチは、汗びっしょりの季節に起こりがち。何回拭いても、汗が治まらないと、ポケットにしまえません。雨の日のレストランで落としたのに気づいたのは8月。連絡をしたら、回収してもらっていたので、一安心でしたが、汗びっしょりを拭いたハンカチ、乾いて、納豆のようなにおいでした。お店の方に申し訳ないことをしました。 その日は、もう一つ、レストランを出たら、雨が止んで、折り畳み傘をカバンの持ち手の間で挟んで持っていました。地方から来たお客様をホテルまで送り、バス停でバスを待ちました。乗った途端、折り畳み傘がないことに気づきましたが、どこでなくしたのか思い浮かびません。その日は帰宅しました。 誕生日のプレゼントにもらって、大事にしていた傘なので、ひょっとして、バス停の側を探してみようと思い、早出をしてタクシーで駆け付け、信号を渡り、バス停へ。遠くから、緑色の傘らしきものが見つかった時は、うれしくて、飛び上がりそうでした。傘をくれた人と同じに大事にしなければと、傘にごめんなさいをしました。 このほかにも、忘れ物、なくしものがありますが、おかげ様で、ほとんどの場合、戻ってきています。ハンカチ、財布、折り畳み傘は自分の分身。なかったと気づいた時の落ち込みようは尋常ではありません。二度とそんな思いをしたくないとは思うのですが、繰り返してしまいました。反省しています。 |
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今日も思いつくまま・・2017年9月18日(月)
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久留米市役所に行ったとき、歩いて到着をしたので、汗びっしょり。市長訪問の約束時間まで、汗がひくように、タオルのハンカチで汗をぬぐっていました。そのうち、会社の人も着いて、場所を移動しましたが、その時、ハンカチをポケットに収納したかどうか、未確認のままだったようです。 この前、東京の人形町にある会社訪問の際も、そうでした。この時は、財布がないことに気づいたのは、訪問後、老舗の洋食屋さんでの食事後、お金を払おうとした時でした。この時は、会社で座っていたソファーの側ではないかと想定し、昼休み中のお客様の手を煩わせましたが、ありませんでした。 訪問前に入った喫茶店に行って、お店の人に聞いたら、届いていないということ。座っていた席の周りを見てくださいということで、もう一度確認をさせてもらったら、女性の座っているイスの下、床の色とほぼ同化していた財布を発見しました。きちんと断って回収成功。日本は良い国だと痛感した次第です。 久留米のハンカチ、財布ではないので、ここで縁も終わりかとも思い、予備のハンカチを取り出しましたが、市長面会後、まずは、市長面会前に会社の人たちと寄った喫茶店。ここには届けはないし、座っていた席の近所にも痕跡はないので、下へ降りて、汗を拭いたロビーへ回りました。 床に落ちていたハンカチを拾って、イスの上に置いてくれた人がいたようで、ありました。実は、このほかにも、財布を一回、ハンカチを一回、忘れたままに席を立ち、回収できたことがあります。そのほか、新幹線の中で落としたUSBメモリーを回収したりと、ホトケの顔に何度も感謝しています。 スマホや、カギはベルト通しにつなげていますが、大昔から、ものを落したり、なくしたりすることは少なかったのですが、ここ数年で、ホトケの顔を何度もです。もっと大事なものを忘れたり、なくしたりすることのないようにしなければと自戒、自省しながら、回収できたありがたさに感謝です。 |
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今日も思いつくまま・・2017年9月11日(月)
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9月11日になると思いだします。あの時、16年前は火曜日。月曜日が、夏休みの終わりになるレイバーデーだったので、週明けでした。思い出は次第に風化し、ワールドトレードセンターのツインタワーのあとも、新しいモニュメントにもなるタワーが建てられ、すっかりリニューアルされています。 それでも、あの時の記憶の中には、思い出にならないことがたくさんあります。阪神淡路大震災の時は東京、東日本大震災の時は広島ということで、当事者ではなかったのが、16年前のこの時は、目の前で起こったことをリアルに感じました。目をつぶると、その時を再上映することが可能です。 その週の土曜日、見物客が歩いて、ぞろぞろとダウンタウンに向かうのを見て感じた気持ちは複雑でした。日本からの出張者にリムジンんを手配するから、勝手に見物してちょうだいと言ったこともあります。仕事で仕方なく、その場所の近くに戻った会社を訪問するまで、足を踏み入れることはできませんでした。今でもそうです。 そこに生活している人や会社にとっては、そんな感傷的なことは言えないと思います。現実を直視しなければならないのだと思います。思い出になって風化しなくても、記憶を上書きするのでしょう。現地での微妙な距離の体験だし、その2年後に帰国したので、思い出にならないのかも知れません。 戦争体験も同じなのだと思います。終戦の6年後に生まれたことで、物ごころついた時には、朝鮮戦争が終わり、右肩上がりの日本復興真っただ中、小学校6年生の時には、東京オリンピック。あの時は、素直にうれしいと思い、大勢の外国人が東京に集まることを誇りに思いました。 それでも、傷病兵の装束をまとった人が街でお金を無心したり、大人はすべて戦争体験ありで、平和のありがたさを実感していることを痛感していました。国鉄(JR)の特急3代目へいわ号が最後に走ったのは、1962年。そのあと、へいわ号は復活しませんでした。思い出にして風化させちゃいけないことってあるように思います。 |
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今日も思いつくまま・・2017年9月4日(月)
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先週のつぶやきの続きです。では、これまでにうれしいを実感したことってあるのかと考えてみることにしました。一番に思い浮かぶことは、電車やバスで席を譲ったこと。それでも、強烈の遠慮されたことで、引っ込みがつかなくなったこともあり、却って迷惑だったのかなと思ったこともありました。 仕事の関係では、組織の一員としての話になり、自分の意志だけでやったというわけでもありません。素直に感謝された時は確かにうれしいですが、その中で、自分がどれだけのことをしたのかなどと思ってしまうこともあります。うれしいと思ってもらうためにやったのではなく、自分が満足するようにやって、結果として喜ばれるのでしょう。 仕事はフランス語でトラバイユ、旅行は英語でトラベル。どちらも、語源は苦労とか、苦役とかだったと聞いています。労働しなくても生活できる支配階級がいたということや、大昔の旅行が楽しみにではなく、未開の地へ足を踏み入れ、いつ山賊や海賊に襲われるかも知れないということもあったのだと思います。 昔のフジテレビのキャッチコピー、楽しくなければテレビじゃないをもじって、楽しくなければ仕事じゃないと思っています。ラクなことしかやらないという意味ではなく、100点は取れないという前提で、あとでの後悔を少しでも減らすように、やるだけのことはやっておくということだと思っています。 役に立つようにやってみて、結果として、相手の役に立ち、少しでもうれしいとか、喜んでもらえれば最高だと思っています。もちろん、いろいろな失敗もありますし、やらなければと思いつつ、放っておいたことなども多々あります。組織内でのことにはなりますが、やらなかったことが比較的少なかったのではと自負しています。 それでも、プライベートの部分も含めて、これはうれしいと思われたと実感できることがなかなか、思い浮かびません。ひょっとすると、それで良いのかなとも思います。褒められることなど、めったにありません。何も反応がないことが、役にたって、幸せな結末なのかも知れません。あれこれ悩まないことにします。 |
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今日も思いつくまま・・2017年8月28日(月)
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うれしいとか、うれしかったことって、少なくとも、3種類あると思います。ひとつは、達成感のあるもの、例えば、受験合格、プロポーズ成功、仕事のプロジェクトが完成などです。でも、本当は、そこからがスタート、うれしさを思い出すことはあっても、苦い記憶で終わることもままあると思います。 次は、美味しいごはんを食べたりというような経験。巣の中で元気なツバメの子供たちや、立ち上がろうとしているパンダの赤ちゃんをニュースで見たり、そんなことだと思います。毎日の生活の中で、気づいたうれしさ。気分や体調のすぐれない時には気づかないこともあります。気づけることが大切だと思います。 3番目は、第3者が喜んでくれることだと思います。電車の中で、席を譲って、喜ばれたことなどです。自分で満足するという面もありますが、喜んでもらったという気持ちになれれば、素直にうれしいです。2番目のうれしさ同様、その日、ゆったりした気分で過ごすことができます。こんな時を増やしたいと思います。 ほどなく、40年以上続いた、サラリーマン生活を終えることなります。趣味があるかと問われれば、釣りとか、ゴルフとか、極めているわけでもなく、終日夢中になった記憶もありません。口では、ボーっとすると言っても、現実はどうなるか、正直なところ、自信があるわけではありません。 そんな時間の中、うれしいなと思える時間を増やせるのは自分だけだと思います。うれしくさせてくれと頼んでも、そんなこと無理だと頭でわかっても、組織の中で、管理職を長くつとめていると、どうしても、他人に期待をしてしまうことになりそうです。そうならないことが肝腎なのでしょう。 などと、考えさせられることを言ってもらいました。感謝しています。3番目のうれしいを実行したいと思います。単なる暇つぶしで終わるか、幸せになる人を一人でも、作ることができるかです。右往左往、紆余曲折、曲がりくねった道を進み始める準備、結果オーライと言えるようにしたいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年8月21日(月)
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大学を卒業してから42年。フルタイムでの仕事はそろそろおしまいになります。少し上が、団塊の世代で、定年後が大きなテーマになっているので、社会とのつながりを大事にしなくては、とか、地域活動を熱心になるべきとか、新聞、雑誌、本、ネットなどなど、いろいろと言われています。 一時期、20年近く若い人たちが起業したいという話を応援したいなと思ったことがありました。使途不明金をねん出するのは難しいので、事務所で借りたマンションの保証人になったり、うまくいけば、カミングアウトしたいなと思いましたが、途中で挫折、構想も良かったので、今でも残念です。 42年間、それなりに評価されたこともあり、ニューヨークで現地法人のトップを7年間つとめるというような職歴もありますが、事務系の弱みで、専門分野で手に職があるというわけではありません。知り合いが多いとか、コネクションがあるとか、経験があると言っても、ポストがあってのことにすぎません。 42年間には、ほぼ平穏ではありましたが、多少の紆余曲折、毀誉褒貶などがあり、近づいてくる人、遠ざかった行く人、常に慕ってくれる人、距離を置きたい人などなど、SNSの友達申請にどう応えるか、応えられるかと同じような悩みがありました。要は、他人に過大に期待しないこと。果報は寝ても起きても、来ません。 図書館で席を確保し、自分史を書くことも、一眼レフのデジカメを買って公園で花や鳥の写真を撮ることも、してみたいなとは思いますが、団塊の世代のあとを真似しているような気になります。何かを理由にせず、ボーっとしていることができればそれで良いのでは思ってしまいます。そういう時間、大好きです。 忙しいから、そんな時間が好きなんだとも言われます。あと1年足らずで、自分計画をきちんとできるか、自信ありませんが、好きな人と、好きなことが出来るよう、42年間に貯めたポイントが残っていれば、発信をしていきたいなと思っています。発信したいことは山ほどあると思っているので、忘れないうちに。 |
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今日も思いつくまま・・2017年8月14日(月)
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節電の夏は6年前。街の明かりが減り、エスカレーターが止まり、自動販売機も節電になっていました。東日本大震災の復興直後のことでした。今も、原発処理や復興途上ですが、節電を感じることが少なくなっています。省エネ家電や、LED信号など、ホームドアや電気自動車が増えても、電力消費全体は増えていないようです。 昭和30(1955)年代、うろ覚えですが、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、扇風機という順番で、電灯、ラジオ、アイロン以外の電気製品が家の中に登場しました。1964(昭和39)年、東京オリンピック・パラリンピックが開催されるまでには、家庭電化がほぼ一巡したのではないかと思います。 東海道新幹線、首都高速道路の開通もそのころ。右肩上がりを毎年、実感することができた時代です。中古のコロナが我が家に登場したのは、1963(昭和38)年。その年の8月に亡くなった祖父を連れてのドライブには間に合いました。祖母は前年、1962(昭和37)年に亡くなりました。55年前のことです。 ステレオ、クーラーが登場したのは、昭和40(1965)年代。洋式トイレもその年代でした。ウォシュレットが登場したのは、1992(平成4)年。パソコン系を除けば、昭和50(1975)年代だった電子レンジに続き、最後の家電でした。それでも、25年前。だいぶ昔になりました。 1974(昭和49)年の石油ショックで、ネオンが消え、深夜のテレビ番組がなくなるなど、一休みがありましたが、節電の夏までの長い間、便利さの右肩上がりが続きました。ウォシュレットに慣れてしまうと、昔に戻れません。和式トイレを使う機会もめっきり減りました。慣れってこわいことだと思います。 テレビがなかった60年前を想像することは出来ません。便利さは享受し続けたいと思ってしまいます。それでも、少しお休みをしても良い、便利さは何かを確かめておかなければという気がします。言うは易く、実行は決して簡単ではないと思います。今年も暑い日が続く毎日、節電の夏を思い出しました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年8月7日(月)
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太平洋戦争の終戦から72年。8月6日は広島に原爆が投下され、9日には長崎でした。自分の年令は9月で65才。朝鮮戦争が休戦になる前、サンフランシスコ平和条約が発効したあとに生まれました。団塊の世代と言われる、ベビーブーマーの少しあと、生まれてしばらくの間、右肩上がりでした。 右肩上がりが一旦停止したのは、ニクソンショック、石油ショックと続いた大きな出来事。日本の輸出のバックボーンだった、1ドル360円が、変動相場制になり、そのあと、紆余曲折を繰り返しながら、円高が進みました。このころは、大学新入生、危機感を感じたという記憶はありません。意味不明だったのかも知れません。 初めて、海外旅行をしたのは、ニクソンショックの6年後。1974年の石油ショックは、生活に直撃だったので、こちらの方が印象的でした。ネオンが消え、トイレットペーパーが店頭からなくなり、買占めという言葉を聞くことになったり、年々、豊かになるのがあたり前ではないということを実感しました。 2回にわたる大ショックでも、日本企業の努力で、輸出力は上がり、1ドル100円を切っても、売れるものは売れるという状態が続き、一時は、ジャパンアズナンバーワンと言われたり、ニューヨークの象徴、ロックフェラービルを、日本企業が買うと言ったような話が続きました。 やり過ぎだったのかも知れません。日本ではすでに忘れてしまったと思っている、72年前の終戦に至るまでの歴史ですが、忘れていない人も多いのは事実だと思います。中国、ロシア、朝鮮半島の目の前にある日本の場所。地政学で考えると、アメリカにとって、大事な場所です。だからと言って、やり過ぎはダメだったのでしょう。 その後、ニューヨークでの日本企業の存在感は確実に低下しています。一生懸命走って、走り回っても、結局は手のひらの上、西遊記って、そんな話だったなと思いだしました。走る前に、日本に住んでいる人の幸せがアップした方が良かったのではと思うのですが。若者の貧困や老後破たん、良い話、聞きません。 |
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今日も思いつくまま・・2017年7月31日(月)
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沖縄かりゆし第2弾。日本橋三越で1枚、那覇の平和通りの店で2枚買ったかりゆしは綿100%、着心地は良く、アイロンをかけなくても、十分着られ、夏にぴったりでした。沖縄で着るだけではもったいないので、東京や大阪でも着てみました。涼しそうに見えるので、快適です。 高い方のかりゆしは、1万4000円。少し贅沢な、ブルックスブラザースのワイシャツでも1万円と少し。一番高いシャツだと思いましたが、知事面会の際、ボタンダウンに綿100%はカジュアルなので、どこでも着られるという話が出ました。失礼には当たるわけではないとのことですが、かりゆしの奥は深いと気づきました。 沖縄事情に詳しい知人に聞いたところ、フォーマル度の高いかりゆしがあるということで、7月下旬の沖縄のお客様集中訪問の前に、高級品も置いてある店で、4枚目のかりゆしを購入しました。残念ながら、スタンドカラーはなく、ボタンダウンでしたが、 素材は麻100%、見た目と肌合いが違いました。 ということで、訪問活動は、麻100%のかりゆし。クルマでの移動で、汗びっしょりではなかったので、2日間着ることが出来ました。知人のアドバイス以上に、麻100%かりゆしのご利益はあり、面会の際、みなさんからの反応は良く、中には、1ランクアップと言われました。 気づいたのは、かりゆしはシャツではないということ。以前、沖縄で告別式に出席をした際、3月にもかかわらず、参列者の2割がかりゆしの喪服だったことからも、上着として、スーツと同等だということです。であれば、1万4000円は、決して高くはない値段。麻100%はその3倍近くの値段でした。 もっとも、面会終了後に寄った、かりゆし販売店では、麻100%+絹や、一品ものなど、さらに倍から3倍するくらいの品物もありました。以前、お店の人に聞いた、かりゆしは、見ればグレードがわかるとはこういうことだと理解しました。かりゆしから触れた沖縄、ほんの少しだけ、詳しくなったような気がしています。 |
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今日も思いつくまま・・2017年7月24日(月)
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今年の夏も暑いです。先週、札幌出張がありましたが、暑かったです。確かに、新千歳空港で機内から出た時は、涼しさを感じましたが、日差しは強く、札幌の街に北国らしさは感じられませんでした。それでも、数日前に比べれば、暑くないというのが、札幌オフィスのスタッフの話でした。 札幌で、エアコンがある家庭はそんなに多くはないということでした。オフィスで聞いても、ほとんどいませんでした。地球温暖化の影響か、北海道でも、真夏日や猛暑日が出現しているようですが、朝晩は涼しく、札幌で窓を開けて寝たら、風邪をひきそうになるということです。うらやましい限りです。 暑さの記憶、ナンバーワンは、20年ほど前、勝鬨橋のたもとにあったオフィスを訪ねた帰り、日比谷の本社まで、晴海通りを歩いた日の最高気温が39度。もう少し低くても、ギラギラする太陽の下や、湿気が多い日だと、不快指数たっぷりになりますが、この日は灼熱そのもの、歩くには大失敗でした。 それでも、銀座で昼ごはんをなどと、一緒に行った部下と話し、築地あたりから、店を探しながら歩きましたが、どこにするか決められず、数寄屋橋、ソニービルのあたりまで戻ったところでギブアップ。お昼の定食案内に惹かれ、入りました。エアコンの涼しさにホッとしました。 そのあと、この店の昼営業はなくなり、結局のところ、お昼を食べたのは、灼熱のその日一回限りでしたが、縁があって、夜に行くようになって20年以上経過しています。何回も、部下を連れて行きましたが、誰も再訪しません。上司の店と認定されるようになったということだと思います。 アルコールに弱いので、せいぜいが、生ビール一杯と、お湯に焼酎をちょっぴり、目薬くらいたらした、お湯の焼酎風味。それでも、すっかりなじみました。これも、灼熱の日のお昼のおかげ。今でも、たまに、この店に行くと、あの夏の日を思い出します。今でも、オアシスみたいです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年7月17日(月)
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25年前の夏と、2年前の春に入院しました。どちらも2週間ほど、結果としてはオーライの病状で、深刻なことにはなりませんでしたが、タイミングを逸すると、そうでもなかったようです。25年前は消化器系、2年前は心臓系でした。一病息災とはよく言ったもの、気をつけるようにはなりました。 25年前の入院の時は、職域病院。コネなしで診察を受けに行って、4時間待ち。その間、コネを活用した知り合いが健康診断の結果を聞くなど、深刻ではない理由で何人も追い越していきました。3時間待った時、気分が悪いと訴えましたが、座っていてくださいと、さらに1時間、先生には怒られました。 地獄の沙汰もコネ次第などと、笑って言いましたが、複雑な気持ち。それより、入院して感じたことは、この病院、どういうわけか、入院患者と外来が同じ診察待合を使うことになるので、知り合いに会うことがままあり、どうしたのかとか、元気かと聞かれます。点滴中なので、見ればわかるのですが、言いようがないのでしょう。 22年後は、心臓病の専門病院のせいか、外来患者と入院患者の動線は別々。同じ検査室や処置室を使う時も、基本的には両側に配置された待機スペースで待つことになります。入院患者のストレスを軽減すりょう、よく配慮されていました。今では、職域病院でも、同じかも知れません。確認したくはありませんが。 心臓の症状で入院した時、感じたことは、お見舞いに来てくれても、ありがたいと思う反面、しゃべることだけでも負担になったことです。1週間も経てば、症状も収まり、平気になりましたが。近しい誰かが入院すると、お見舞いに行っていましたが、タイミングを見なければと思った次第です。 おかげ様で、2回とも、深刻なことにはならず、すぐに原状復帰することができましたが、それでも、退院直後は、体力が思った以上に弱った感じになり、地下鉄の階段が厳しく感じられるほどでした。愛宕神社の天を衝くように見える、出世の階段を登りきれた時には、健康のありがたさを痛感しました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年7月10日(月)
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7月4日のアメリカ独立記念日、7月7日のたなばたが過ぎると、梅雨も終盤に入り、本格的な夏に。先週は、西日本、特に、島根、福岡、大分を中心に、梅雨末期の豪雨。大きな被害になっています。降り始めから急に強くなり、避難をする間もなく、土砂崩れや、河川の増水でどうにもならなくなってしまうようです。 このような災害が起こると、テレビなどで、予兆を感じることはできないのかなど、いろいろと放送されますが、次は自分だとはなかなか、思いません。どこか、別の世界の話のように聞いてしまいます。東京でも震度5弱になり、帰宅難民であふれても、今は、すでに昔のことになっています。 30年近く前、神田川のほとりの飯田橋に住んでいたころ、神田川が増水し、14階建ての社宅は、床下浸水し、まるで、モンサンミッシェルのようになり、社宅敷地内に駐車していたクルマも水没しました。飯田橋駅までの途中にあるタバコ屋の前、川のようになった街に船が浮かんでいるテレビニュースが印象的でした。 そのあと、神田川の改修工事で、バイパスなどが作られ、このような水害は発生していないようですが、短時間の間に、想定以上の雨が降ると、大変なことになります。ニュースでしか、見ていなかった被害ですが、自宅の近所のマンホールが、処理できない水の噴水で浮かび上がったのを見ると、他人事ではなくなりました。 代々木駅からの途中、小田急の陸橋下、少し低くなっている場所があります。注意喚起はしていますが、確か、一昨年、タクシーなど何台かのクルマが、動けなくなってしまいました。タイヤの半分くらいの水でも、動けなくなってしまうということでした。身近にある危険、どこにでもあると思わないといけないようです。 それでも、忘れたい、自分には関係ないと思い勝ちなところ、毎年、すべての住宅、事業所に、防災タウンページを付録にして、タウンページを、お届けしています。来年度には、全国すべての地域でのお届けになります。災害を忘れないということで、防災、減災に、少しでも役立ててもらえればと願っています。 |
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今日も思いつくまま・・2017年7月3日(月)
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ソニータイマーって、言葉があるようです。ソニー製品はデザイン、機能は良いのに、ある時間が経過すると突然壊れるという話です。この前、壊れたスマホ、ソニーのエクスペリアは落としてしまったという過失が原因ですが、VAIOブランドのパソコンで経験をしました。 突然、具合が悪くなって、フリーズを繰り返したり、動作が遅くなったりという症状で、ストレスがどんどん溜まることになりました。幸い、突然起動しなくなるということはありませんでしたが、それでも、今のご時勢、パソコンが使えなくなると困ることが多々ありました。 電気製品を使えるようになって、生活が格段に便利になりますが、電気が来なくなるとどうにもなりません。東日本大震災のあと、原子力発電所が稼働せず、特に東京電力管内では、計画停電が頻繁に行われました。乾電池や、蓄電池で動くもの以外は単なる箱になってしまいます。 大昔、通産省に出向していたころ、予算がなくなり、大型の自動ソーティング機能付きゼロックスを使用中止にしたことがありました。40年近く前の最先端機能がただの箱になってしまったことを見て、現代文明って、意外にもろいのではないかと感じました。何もしませんでしたが。 今までに、何台もVAIOを使いましたが、ソニータイマー装備だったのではと思うくらい、突然不具合が便利を上回り、これじゃダメだなと判断することになりました。買って2年間くらいは、快適そのもの。3年目になると、何かが起こることになりました。ちょうど、新しい機種に買い替えるタイミングではありましたが。 今使っているVAIOは幸いにして、途中でウィンドウズ10にしたにもかかわらず、3年以上使っても、順調に動いています。その間、VAIOはソニーから分社し、ソニーマークがなくなっています。最後のソニーVAIOなので、すでに、ソニータイマー標準装備ではなかったのかも知れません。元気でいてほしいです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年6月26日(月)
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沖縄に行くので、かりゆしを買いました。今回は、沖縄県庁に訪問する、お客様を訪問するという用事があるので、かりゆしを着て行くことにしました。スーツでも構わないとは思いましたが、かりゆしを着た方が親しみを持ってくれるという話に従うことにしました。確かにそうでした。 長い伝統のあるかりゆしは、さすがに湿度の高い季節でも、さらっとした着用感。スーツで上着より、はるかに快適でした。もっとも、最初に着て行った日の那覇は小雨で、気温が低く、空港に降り立った時には、寒さを感じました。飛行機の中では、毛布のお世話になりました。 何枚か買ったので、東京でも着てみました。比較的余裕のあるサイズのを買ったので、ポロシャツや、ぴったりしたシャツに比べ、ずっと快適でした。古代柄ではありませんが、かりゆしらしい柄なので、気分も南国になります。心にゆとりが出来、幸せ指数が上がるような気になりました。 ボタンダウンや、開襟のタイプを買ったので、普段でも違和感なしですが、かりゆしらしい、スタンドカラーではありません。那覇のかりゆし専門店に置いてあるスタンドカラーは、黒い喪服用だけ。伝統的なかりゆしにも、流行りすたりがあるようです。スタンドカラーを買いたいと思っています。 買ったかりゆしについていた説明は、沖縄で、沖縄の素材を使って作ったのがかりゆしだということです。かりゆし専門店で売っているかりゆしの値段は結構な額です。夏の間だけ、日本橋三越に出店を出している専門店なので、高い店だとは思います。いろいろなことを知るようになりました。 那覇行の飛行機には、同じように、着なれないかりゆしを着たビジネス客も乗っていました。那覇空港で、スーツにワイシャツを見ると、あれっと思います。自分がかりゆしを着てから、気づくようになった景色かも知れません。郷に入れば、郷に従い、一つくらいは、その地らしさを実感したいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年6月19日(月)
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スマホ騒ぎは、ドコモショップのフロア担当、カウンター担当の係員が懇切丁寧に対応してくれたので、無事、Suicaのお引越しも出来ました。液晶が反応しないので、パソコンでログインしての手続きを行ったあと、新スマホで再度インストールすることになります。普通の機種変更ではないので、慣れるというわけにはなりませんが。 新橋のドコモショップでは、マウスを使っての作業が出来ました。エクスペリアのスマホは、一旦、メインボタンと、音量ボタンを同時に長押しして強制的に電源を切断してからでないと、マウスを認識しないそうです。クルマでのフルブレーキングのようなものですが、こちらも、知らないと出来ません。 このほかは、IDというドコモのクレジットカードのお引越し。こちらもSuicaとほとんど同じでした。マウスのお世話になりましたが、月曜日の切符を救済しなければならなかった、Suicaより緊急性が少なかったため、むしろ、手続きは簡単でした。SuicaもIDも、それぞれ、新スマホで使えた時は、ホッとしました。 おさいふケータイになれると、小銭を出すのが億劫で、面倒になってしまいました。夜、タクシーの中で、百円玉はどれかなと探すより、IDやSuicaで、タッチだけがラクです。おさいふケータイに対応している、日交など4社、東京無線、チェッカーを選んで乗ります。ほとんどが、最寄り駅から歩いて15分の距離の宴会帰り利用です。 余談ですが、タクシー料金が410円からになったおかげで、1キロ少しある自宅までの料金が、信号待ちしなければ490円、運転手さんには申し訳ないなと思います。小銭だと、10円玉のおつりをもらわないこともありますが、おさいふケータイだと、おつりは出ません。 SuicaとIDのお引越し完了で、ホッとしましたが、羽田空港のJALゲートでNG。JALのタッチアンドゴーというモバイルでのゲート通過にはアプリのインストールが必要でした。アプリ自体はお引越ししていましたが、手続きが必要だったことに気づきませんでした。これで、スマホ液晶損傷事件はほぼ終了。スマホ依存度の高さをあらためて実感しました。 |
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今日も思いつくまま・・2017年6月12日(月)
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スマホが壊れました。激しく、落としたりしたわけでもなく、また、今まででも何度か、落としたことがあったのですが、突如、画面は出るものの、何も反応しなくなりました。おサイフケータイ、クレジットカードのID、その他もろもろ、さて、困りました。今どき、スマホがないと何もできません。 出張中でしたが、ドコモショップに駆け込みました。さぞ、お困りでしょうというねぎらいの言葉はなく、事務的に手続きを進めてもらいました。あっさりしすぎているかなとも思いましたが、同情されても、治るものではなく、ドライな方が良いのかも知れません。 全く、意識をしていませんでしたが、ケータイ補償サービスに入っていたようで、9000円弱負担すれば、同じ機種を2日後にもらえ、それまでの間は、無料でスマホを貸してくれるということが第1の選択肢、もうひとつは、2週間かけて修理、この場合もスマホを貸してくれるそうです。 修理は液晶の取り換えなので、それ以外に故障があるとどうにもならないかもということと、できれば、なるべく早く、借り物ではなく、自前にしたいので、取り替えにしました。まずは、電話、メール。こちらも、意識していませんでしたが、ドコモクラウドにデータを預けていたため、電話帳や過去のメールもOKでした。 貸して、もらった仮スマホは、ディズニースマホ、いつも使っているソニーのエクスペリアではなく、シャープでした。慣れないための、使い勝手の悪さもありましたが、ディズニーキャラクターがあちこちに出てくるので、次は何かなという興味もありました。ずっと使いたいとは思いませんでしたが。 液晶のタッチだけが問題でしたが、家電量販店で、スマホ用マウスで試してもNG。傷は深いようでした。壊れて動かせなくなったスマホからのSuicaのお引越しや、仕事用のVPNアプリの再インストールや認証など、面倒なことが多々ありますが、ひとつひとつ解決したいと思います。新品への機種変更より、大変そうではあります。 |
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今日も思いつくまま・・2017年6月5日(月)
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受動喫煙防止のため、飲食店での全面喫煙が議論になっています。タバコをやめてから36年、干支が3回、回りました。長距離列車の中では、喫煙OK、近距離の東海道線や、小田急線でさえ、小田原周辺では、車内でタバコを吸うことができました。愛煙家にとっては、どこでも吸える時代でした。 勝手なもので、自分で吸ってはいても、他人の煙はあまり良いものではありませんでした。新幹線の1号車自由席だけ、禁煙になったころ、車内は禁煙だから、乗る前にまとめて吸っているタバコの煙、えらい迷惑だと感じたことがあります。タバコを吸わなくなって間もなかったので、余計だったのかも知れません。 あれから、20年近く経ったころの、成田エクスプレス。ドアのあるデッキだけは喫煙可だったので、デッキと客室を隔てるドアが開くと、禁煙スペースに、煙がどっと入ってきました。喫煙車を作ったらどうかとJRの幹部に話をしたくらいです。願いが叶って?、デッキも禁煙になるまでには、少し時間がかかりました。 タバコを吸っていたのは、10年ほど、大学に入ってからが初めてだったので、おくてでした。それでも、吸っているとき、一番多かった時代は、朝昼晩にタバコを買い、その上、他の部署に行くときには、先方でタバコをもらったり、宴会の時はプラスアルファで都合4箱になったことも。 当時、軽くなったと言われた、マイルドセブンでしたが、今となっては、ニコチン、タールともに、かなり多く、36年経っても、痕跡がなくなっていないかも知れませんね。不思議なのは、吸わなくなっても、お金が手元に残らなかったこと、どこかで、使ってしまったのだと思いますが、もったいないことでした。 吸っていたことがあるので、常時、煙に敏感かなと思ったのですが、他人の煙と違って、一緒に飲食している人の煙は一向に気になりません。勝手なものです。ニューヨーク、スモーカーズという名前のジャズクラブでさえ、禁煙になったのが10年以上前。世界のすう勢の中、仕方ないことですが、元ヘビースモーカー、共存できたらとは思います。 |
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今日も思いつくまま・・2017年5月29日(月)
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老舗というか、たまに行っている店が閉店するのは寂しいものです。週に一回くらい、お昼に食べに行っている老舗のおそば屋さん、180年弱の歴史を閉じることになりました。歴史のある店なので、自社ビルなのかと思ったのですが、建物のオーナーとの交渉の結果だということです。 ここ数年で、何軒か、たまに行く店が閉店しました。中には、行きつけと言えるくらいのところもあり、閉店のお知らせが貼ってあったり、突然行ったら、閉まっていてショックを受けたりと、知ったきっかけはいろいろとありますが、何度も食べたあの味が過去のものになるのはさびしいものです。 中には、しばらくの空白のあと、別の場所で復活した店もあります。それはそれで、うれしいし、同じ味を食べられるのはありがたいのですが、建物や雰囲気は変わり、昔とは違います。1年も空白があると、働いていた従業員の顔ぶれも変わります。懐かしい顔の人がいると、ホッとしますが、同じ店ではありません。 30年前、すでに社会人になって、だいぶ経ったころに出来た店も、テレビ番組では老舗と言われます。タウンページデータによると、飲食店の3割が毎年入れ替わるということですから、長い間、お客さんの集まる店が続くということは大変なことだと思います。店主の年齢も毎年積み重なるし、余計です。 同じ味だと思って食べていても、塩分や甘みが少なくなったり、微妙な変化に気づくことがあります。清涼飲料水なども、定期的に味わいを変えたりして、消費者の嗜好の変化に合わせることもあります。爽健美茶など、発売以来、何回も、味やラベルを変えています。 そんな中、同じ味を提供し続け、老舗と言われ続けるのは大変なことです。店主の年齢、後継ぎなしはともかく、お店の賃貸契約更改という事情で、閉店してしまうのは、残念です。永遠に変わらないでほしいというのは、こちらのわがままだとは思いますが、少しの贅沢がなくなることは寂しいことです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年5月22日(月)
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老人ドライバーが高速道路を逆走したり、アクセルとブレーキを間違えて、コンビニなどに突っ込んだり、などのニュースが結構あります。60代も中盤になると、運転免許を返上したらどうかと言われます。自分ではまだまだと思っても、そういう年齢になっているのも確か、自覚したくはありませんが。 運転免許を取得したのは、46年前の1971年、19才の時でした。大学に入って半年ほど経ったころ、当時は厳しかった教習所で、何時間かダブり、9月の誕生日前の取得はかなわず、19才になって1か月経ったころ。早速、家のクルマを運転し始めました。大事故はありませんが、こすったりしたことはありました。 ニューヨークに転居した最初の2年間、マンハッタンではクルマはいらないと思って、アメリカの免許を取得しなかった時期を除き、ずっとクルマを運転していましたが、幸い、大きな事故はなく、違反は4回。最初は、免許を取って18年後、四国松山勤務の時、伊方原発のそば、気持ち良くスピードを出しました。 そのあと、2回はニューヨーク。一回は排気ガス検査を忘れていたことで、音楽祭で有名なウッドストックの街でのことでした。車検はありませんが、排気ガス検査済みシールの更新をしていませんでした。整備をしたディーラーに文句を言いましたが、自己責任だということをあらためて確認して、2回目の罰金でした。 3回目は、帰国の寸前。郊外で気持ち良く走っていたら、パトカーに停められました。もう少しで、別の警察管轄になる場所。4回目は、10年ほど前、東京に戻ってころ、目黒駅のそば、天現寺のトンネルの中で、20キロ弱オーバー。トンネルを出たところで、白バイが追いつきました。ゴールド免許の戻ったのは去年です。 クルマを便利に使っているのは、羽田空港への往復。首都高中央環状線が開通したことで、自宅最寄りの初台南インターから、空港まで15分程度。空港の駐車場も一日1500円。ちょっぴり贅沢ですが、1時間かかる、電車よりラクです。たまにはドライブもしたいし、できれば、運転免許返上はもう少し先と思っています。 |
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今日も思いつくまま・・2017年5月15日(月)
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京都は、普通に路地を歩くだけで、歴史を感じることができます。新しいマンションが出来たり、電柱や電線があったり、京都らしい町家も、少しづつ減ってはいますが、すべてが江戸時代のころの昔ではなくても、明治、大正、昭和、それぞれの建物がそれなりに同居しています。 京都駅前に京都タワーが出来たとき、京都駅が今のように改装されたとき、歴史的景観が崩れるという議論があったようですが、いつの間にか、少しづつ気にしなくなったように思います。いかにも、無神経な感じでありますが、昔のままだけの街並保存と、生活感のある、ミックスとどちらが良いか難しいところです。 確かに、電柱や電線はないに越したことがないとは思います。神奈川県唯一の村、清川村役場から見える緑の山との間にある電柱や電線、確かに邪魔でした。でも、京都の街並の電柱、電線は、木の年輪のように、時代を越えて、街があるということの証なのかもしれません。妙な理屈ですが。 京都駅から、室町通や、新町通という、狭い路地を通って、四条通りの向こうまで歩いたことがあります。碁盤の目になっているので、地図が不要。名所をめぐるというより、何かに見つけることになります。何気なくある建物が、歴史的に重要な場所だったり、あちこちに歴史があります。 クルマが通るので、ヒヤリハットにならないよう、気をつける必要がありますが、路地の主役は人、クルマも遠慮しながら、走っているように思います。小さな店や、昔から続いているようなお店や会社、町家から出てくる人々、まるで映画の一場面を見ているような光景があらわれます。 最近、京都へ行っても、観光地に行くより、路地歩きの散歩をしています。古都維持のために、拝観料も払わなければとも思いますが、路地を歩いて、珈琲を飲んだり、何かを食べたり、買い物してはいますが。今の季節は、散歩にちょうど良い季節、気持ち良い路地歩きをしたいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年5月8日(月)
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2020年、東京オリンピック・パラリンピック前に、東京全体を原則禁煙にするという話題が出ています。飲食店の中での分煙や、バーや居酒屋などでの全面喫煙可が、ニューヨークで現実になったのは、10年以上前。スモーキーという名前のジャズクラブが禁煙になったと笑いを取っていました。 日本のタバコの値段が安いと実感したことが何度かあります。1980年ロンドンに出張した際、ロスマンズというタバコの値段が、1ポンド、日本円で約400円。マイルドセブンが200円の頃です。次が10数年前のニューヨーク、一気に800円くらいになって、ビックリしました。日本で300円弱の頃です。 数年前のオーストラリア、免税店で800円を高いと言ったら、外だと1200円くらいになると言われ、ビックリしました。上がったとは言え、マイルドセブンが名称を変えた、メビウスが400円と少しだったので、今度は3倍です。それでも、喫煙者は確実にいたようですが。 タバコをやめたのは、1981年の暮れ、36年前です。もちろん、それまでも、禁煙を何回もやりましたが、復活をすると本数が増えるという悪循環。やめる前には、マイルドセブンを1日3箱。宴会だったりすると1箱増えたり、人から、タバコをもらったりなので、80本くらい吸っていた日もあったと思います。 新幹線に禁煙車が出来たのは、そのあと、昭和50年代の終わりだったと思います。それまでの電車の中は吸い放題、飛行機もベルト着用サインが消えると、あちこちで煙が上がりました。近郊の東海道線でも、平塚から先は喫煙可だったり、小田急でさえ、本厚木から先は喫煙可でした。 タバコをやめた理由は、ごくごく些細なこと、喉が痛くなり、数日禁煙が今に至っています。嫌煙権とかが言われ始めたころだったので、タバコをやめるのは、意思が弱い証拠と言われたくらいでした。最後まで残った新幹線の喫煙車もなくなるということ。座席でタバコは不可能に。時代を感じます。 |
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今日も思いつくまま・・2017年5月1日(月)
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先週、下関まで行ってきました。少し付き合いのあった親戚がいたので、行ったことのある街ですが、去年市役所とのご縁が出来るまでの45年間は、行ったことありませんでした。先週までに都合3回、下関に行きましたが、3回ともに、違うルートでたどり着きました。 1回目は、山口宇部空港へ飛行機。会社の人が迎えに来てくれたので、約1時間かけてクルマで下関市へ。飛行機の時間と約束の時間の間に、時間があったので、下関駅と市役所の間にある、唐戸市場で昼食。海鮮料理を食べ、ささやかに観光気分。45年ぶりの下関、良い感じでした。 2回目は、大阪からだったので、新幹線ひかりで下関。新下関に止まる、速達タイプの新幹線、ひかりとさくらは、たまにしかありません。新大阪から2時間と少し。新下関駅の新幹線と在来線との乗り換えは、結構離れています。下関駅には、やっとたどり着きました。 3回目の今回は、東京から。約束の時間が間に合うのは、北九州空港から戻る方法だけ。北九州便は、スターフライヤーとJAL、スターフライヤーは、深夜に到着する便もあり、いろいろな選択が可能です。最寄りの小倉駅までは、空港リムジンバスで30分強で到着します。 小倉はJR九州、下関から先はJR西日本ですが、会社の境界は下関。新幹線は博多までJR西日本なので、北九州と福岡の間は、JR西日本の新幹線と、JR九州の在来線の競争。速さでは、新幹線が圧倒的ですが、本数、乗り換え不要の直通や料金の工夫で、JR九州も戦っているようです。 新幹線や、空港の場所で、便利になったり、不便になったりします。東京からの時間距離は下関が福岡より先。駅前に大丸が残り、駅から離れていないところに、唐戸市場や水族館などの観光施設もあります。付き合っている親戚はいなくなっていますが、仕事なしで行ってみたいと思っています。 |
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今日も思いつくまま・・2017年4月24日(月)
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電話番号を覚えなくなりました。予約の電話をするときも、スマホで調べて、電話マークを押せばかかります。家族や知り合いでも、スマホや携帯の電話帳に登録しているので、次第に電話番号から、遠くなってきます。登録していない番号から、かかった場合には、基本出ません。留守電の録音を聞いてから、どうするか考えます。 玄関に電話を置き、近所の電話がない家が、連絡先を呼び出し。今から60年ほど前には、普通のことだったと思います。電話設置を申し込んでも、すぐにはひけず、忘れるくらいになるまで時間がかかりました。ひけても、遠距離通話は申し込みが基本、待たないとかからない地域もありました。 ダイヤルを回す電話機など、すでに骨董品。子供に見せると、ダイヤルの中に書かれた数字をプッシュするという話を聞きました。電話をガチャンときるなどという言葉や動作も、わからなくなっているようです。古いミステリードラマ再放送で、出てくる昔の電話、歴史になってしまいました。 公衆電話もどんどん減っています。緊急時に特設する公衆電話は、避難所で重宝されますが、自治体が決めた避難所にあらかじめ、設置した回線に電話機をつなげ、電話局からリモートで開通するという仕組み。公衆電話ボックスと同じ機能ありですが、普段は使いません。 同じ三公社だった国鉄もずいぶんと変わりましたが、鉄道をやめて飛行機になったわけではありません。タバコも禁煙が主流となり、食品や薬品など多角化していますが、タバコは製造しています。電電公社だけが、屋台骨が大きく変化し、写真フィルムや、石炭などに似てきています。 それでも、IP電話とあわせれば、昔とほぼ同じ姿の電話機が当時の半分程度は残っているようです。2億台近くある、携帯電話を入れてのシェアでは15%ほど。利用している通信手段の中のシェアはもっと小さいのではと思います。電電公社に入社して42年と少し、こんなことになるとは思いませんでした。 |
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今日も思いつくまま・・2017年4月17日(月)
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2年前、那覇に日帰りで行ったのが、沖縄へ初上陸。泊りがけで来るようにと地元の人から言われましたが、沖縄の宴会は、遅く始まり、終わるのが遅いということで、体力的に無理かなと思い、日帰りにしました。福岡のすぐ先と思ったのが、間違い。初の体験で、往復5時間余はきつかったです。 そのあと、一泊で2回、日帰りで1回、2年間で沖縄へ行きました。大宴会はやらず、食事を取ったという感じの夜でしたので、まだまだ、沖縄風宴会は未体験です。ということで、4回行っても、私用ではないので、目的地を回るだけ、途中で観光気分になることはあっても、点をめぐっているだけです。 那覇空港の雰囲気は、海外みたいと思いました。JALとANAがそれぞれのウィングを陣取り、2つのウィングの間に、空港ビルがあります。到着と出発は同じフロアで行き来をする形。沖縄返還後45年経過しても、免税店があるところ、国内の空港とは雰囲気が異なっていると感じました。 最初に行った3月下旬が、あたたかい日で、羽田空港との気温差もあり、飛行機から出た途端、南に来たという感じ。シンガポールに来たようでした。少し湿ったような空気も南国らしく、肌には良さそうだと思いました。建物や街の色も、白っぽく、南国らしさを味わうことが出来ました。 沖縄では、沖縄の会社にお願いし、沖縄による沖縄のためのタウンページにしていきたいと思っています。地元タウンページのひとつのモデル作りをしていきたいと考えています。ということで、これからも時々、那覇空港に降り立つことになりそうです。次は、何を見つけることができるかです。 沖縄そば、ブルーシールアイスクリーム、もずく、らっきょう、ゴーヤ、ピーナツ豆腐などなど、毎回、少しづつ、沖縄の味に触れています。東京で食べるのに比べ、美味しく、地元で食べる幸せを感じました。まだまだ、奥は深そうです。沖縄らしさを体感し、出来れば、早めに、私用で訪ねたいのが第一希望。 |
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今日も思いつくまま・・2017年4月9日(月)
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鳥取市で、すなば珈琲に行ってきました。この間の宮崎市で、全都道府県制覇でしたが、今回の鳥取市で、県庁所在地全制覇になりました。県庁での用事の前に時間があったので、空港からのバスで駅前に直行し、駅前のすなば珈琲を探しました。一号店だという駅前の店、すぐにわかりました。 店内は満席状態でしたが、幸い、出る人達がいたのに、前に待っていた人とほぼ同時に着席。お得なモーニングセットではなく、アメリカンと豆乳ドーナツ。平日9時前のことでした。豆乳ドーナツは、今まで食べたドーナツの中でも、ベストクラス。アメリカンも美味しかったです。 お得なのは、モーニング。トースト、おにぎり、お粥の3コース。隣の人が食べているのを見て、うらやましい限りでした。県庁のあと、早い昼ご飯を食べる予定だったので、モーニングをパスして、おやつにしました。次回、行く機会があれば、モーニング、トライしたいと思います。 鳥取県はスターバックス珈琲のない、最後の都道府県だということで、この面会した、鳥取県知事がアピールしていました。トップセールスに熱心な知事、大阪環状線の駅に貼ってあるポスターや、テレビのバラエティ番組などに出演している有名人です。 スターバックスはなくてもすなば珈琲があるという知事発信のフレーズも結構有名になり、そんなこともあって、空港からすなば珈琲をめざしました。宣伝効果って、バカになりません。言い続けるということの大事さ、責任者が率先することの効果を痛感しました。 県庁での知事面会後、鳥取駅をはさんで、すなば珈琲の反対側にある、スターバックス珈琲を見に行きました。列車の時間があるので、店の中には入りませんでしたが、駅裏という感じの場所で、すなば珈琲にくらべ、寂しそうでした。もう一度、鳥取に行きたいと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2017年4月3日(月)
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靖国神社のお花見、携帯電話が普及する前は、遅れていくと、ぼんぼりだけの暗闇の中、自分たちのグループがどこにいるか、探し当てるのは至難のわざ。それでも、不思議なことに、たくさんの宴会の中から、聞きなれた声を聞き分けられるのか、酔っ払いの輪の中、無事に合流。 数年前、小泉首相が靖国神社参拝をしたことで、日中関係が険悪になったころの桜。しろうとのグループが取れる場所は、ほとんどなく、境内全体が居酒屋状態。席が空いていても、予約でいっぱいということ。携帯電話が普及し、明かるくなったにもかかわらず、気軽にお花見ができなくなっていました。 青山墓地も、10年くらい前は、ダメと書かれていても、場所取りの外資系の外国人スタッフが朝からいたり、クルマのヘッドライトを明かりにしての大宴会が可能でした。そうなると、ブルーシートを引いた典型的なお花見が出来る場所は、次第に希少価値になっています。 そうは言っても、桜が咲くと、心がはずみます。近所の桜も、テレビやネットで見る名所の桜も、春になったなと強く感じます。3月に卒業や退職、4月に入学や入社。桜がお祝いをしてくれています。散り際も、あっさりしているので、気持ちを切り替え、仕事も、勉強も本番。 何が起こっても、季節はめぐります。桜は咲いて、散って、梅雨になり、暑い夏が来ます。速度が速くなっているだけではなく、どんなことがあっても、梅雨は桜のあと。3月、4月と区切りなので、お正月よりも、次のステップに進んだような気がします。今年も4月になりました。 ということで、少し、4月になっても、満開ではない今年の桜ですが、そろそろ本番。珍しく、入学式の日に、桜が満開ということも期待できるかもしれません。一昨年、桜が咲いてから散る間、入院していたこともあり、満開の桜を見ることのできる普通が幸せだと思うようになりました。今日からはお花見通勤です。 |
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今日も思いつくまま・・2017年3月27日(月)
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この間、宮崎市に行きました。これで、一都一道二府四十七県、すべて地面に足をつけることができました。最後に残ったのは、沖縄県、佐賀県、宮崎県でした。沖縄を除いて、長崎本線の特急に乗ったり、日豊本線の急行で通ったことはありましたが、降りたことはありませんでした。 最後から四番目はどこだったか、すでに忘れてしまったほど前です。いつ行ったかはやや自信なしですが、地面に足を付けた理由というか、なぜ降りたかということはそれなりに、はっきりと覚えています。来月初め、鳥取市に行くことで、県庁所在地もすべて、制覇したことになります。 沖縄県には、2年前、取引関係にある会社訪問と、沖縄県副知事との面会で、日帰りしました。福岡の少し先と侮ったが失敗で、往きは3時間近くかかり、早朝便での日帰りはそれなりに負担になったようで、翌日から、体調を崩してしまったというオマケがつきました。ゆったりとプライベートで行きたいと思っています。 那覇空港に降り立った時に感じた、沖縄らしさ、建物や街の色、羽田との気温差、などなど、遠くに来たなと実感し、沖縄そばや、沖縄ブランドの、ブルーシールアイスクリーム、マンゴーなど、日帰りの割には、盛りだくさんでした。リフレッシュ好適地に日帰りは失礼だったのだと思いました。 佐賀県は、佐賀大学へ訪問し、学生のみなさんとのコラボレーション授業に参加しました。学生のみなさんと話をしていると、九州一の福岡県と、ユニークな存在の長崎県に挟まれている佐賀県を実感しました。薩長土肥という幕末に主役だった藩の中でも、地味な感じがします。 宮崎市は、宮崎県庁で副知事と面会しました。県庁のたたずまいに既視感があったのは、芸能人知事の時に、観光地化し、マスコミに露出し続けたからだと、気づきました。結構、覚えているものです。最後になった三県ならではの何かを探したいなと思いました。これからの楽しみです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年3月20日(月)
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今年も桜の便りの季節になりました。昔、いつまで待っても、クリスマスやお正月な来なかったり、上級生になるまでに時間がかかったこともありましたが、今はあっという間です。春夏秋冬、すぐに次の季節が廻り、年が明け、春になります。ずいぶんと時間が経ったようですが、64回目の春。 2年前に、具合が悪くなって、入院をしてからは、朝晩に血圧をはかり、体重をはかっています。ずいぶん前に買った血圧計を、20年ぶりに使い始めました。過度に健康志向になりたくはないなと思ってはいますが、一病息災、少しだけ、気を使うくらいがちょうど良いのかも知れません。 永遠に健康なんてことはありませんが、少しでも、このままの状態が続けば良いと思っています。2年前はびっくりしましたが、2週間、静かに過ごし、何もせず、病院の食事だけを食べ、ゆったり過ごしました。あの2週間は、時間の感覚、長く感じました。早く退院したかったのだと思います。 年を取ると、時間が速く感じるのは、今が充実しているからなのかもしれません。本当のところは、未知のことがなくなり、想像できる時間が続くので、あっという間に翌日になると感じるのではないかとは思いますが。待ち遠しかった週末も、当たり前のように来てしまいます。 そんな時間の速さ、あまり、気にしないようにしています。正直なところ、あと何回お正月を無事に迎えられるのかなと感じる時もありますが、今を第一番にして、過ごすようにしています。ということで、今年も春、卒業式帰りの家族連れがいるなと思っていると、次は桜の季節。 2年前に具合が悪くなった時に、感じたのは、普通のありがたさ。特別なことを期待するのではなく、いつものように、目覚め、動けることが何より大切だと痛感をしてしまった経験でした。当たり前の普通のことが貴重だと感じるような年齢になったのだと、自分で納得しています。 |
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今日も思いつくまま・・2017年3月13日(月)
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先週は山口県山口市に行きました。県庁所在地ですが、新幹線や空港から離れた内陸部にあり、時間がかかります。山口市役所訪問が11時だったので、最寄りの山口宇部空港に9時半に到着し、クルマで約40分。余裕を持って、到着するには、早朝東京発が必須です。 山口市は、維新策源の地ということを前面に出しています。来年は150年になります。明治維新というと、一番に名前が出てくるのは、坂本龍馬。こちらは土佐藩です。山口市、長州藩は維新の本家、維新策源の地ということで、明治新政府以降、維新から続く、大改革の本当の主役の実質だと主張しているようです。 山口市には、下関市に住んでいた親戚のクルマで、雪舟展を見るため、来た記憶があります。免許取り立て、親戚の愛車コロナを運転し、当時、高速道路がなかったと思うので、下道で1時間以上、ドライブをしてたどり着いたのでしょうが、来たという記憶だけ、詳細は全く覚えていません。 しばらく前に、今回と同じように、来ましたが、その時は、NTT西日本山口支店、こちらは、新幹線の止まる新山口駅(昔の小郡駅)から、普通列車で約20分の山口線山口駅の一つ手前、湯田温泉駅。愛媛県松山市にある松山支店と道後温泉の距離より近い、温泉地のオフィスでした。 県庁や市役所のある、山口駅最寄りのエリアは、山に近い、緑の多い場所。寺院が多く、五重塔で有名な瑠璃光寺というお寺だけでなく、緑の中に点在している寺院がなかなか良い風情かなという感じです。昼食に食べた、おそば屋さんのそば寿司も美味しく、仕事の合間に良い思いをさせてもらいました。 用事がないとなかなか行かない山口市。比較的近い、津和野や萩、秋芳洞や秋吉台は、SLやまぐち号とともに、目的地になりそうですが。短い時間でしたが、もう一度散歩したいなという街でした。ミシュランほか、有名な場所や店へのスタンプラリーが大好きな人には向きませんが、素敵な街、まだまだ、たくさんありそうです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年3月6日(月)
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2020年の東京オリンピック、パラリンピックを前に、日本の強みはおもてなしということになっています。確かに、キャビンアテンダントや、デパート、ファミレスなどの丁寧な応対を見ると、日本らしさを感じることは感じますが、おもてなしって、何でしょうか。 一方で、アメリカのサービスは悪いと言われています。日本の交通法規やテイストを合わないアメリカ車では、輸入も増えないということと同じに、常識になっていると思います。ドキドキしながら、ニューヨークに住んだ20年前、アメリカのおもてなしに触れることができました。 最初は、クリーニング。アパートの間に、必ずと言って良いほど、クリーニング店があります。ほつれとかの修理もしてくれる店で、朝、ワイシャツを出すと、夕方には仕上がり、アパートへの配達も可能。折りたたんでも、ハンガーにかけても、どちらでも大丈夫です。 値段も、大して、高くありません。最初に、お願いした時には、無事に戻って来るのか、あるいは、とんでもない仕上がりになっているか、不安でしたが、糊付けの有無も聞いてくれるし、極端な話、2枚のワイシャツがあれば、毎日、ビシッとしたワイシャツでの出勤が可能です。 日本でも、ホテルとか、新宿伊勢丹などで、見かけたことがありますが、バレーパーキング。映画で見たことがあるかも知れませんが、玄関でクルマを降り、そこからは、係員が駐車するという仕組み。アメリカだと、ショッピングセンターでも、この仕組みあり、駐車が下手になる原因の一つかもしれません。 こちらも、クルマが戻って来るのか、不安でしたが、慣れるとラクです。確かに、スーパーのレジ係の態度は低姿勢ではありませんが、マニュアル通りではなく、意外に弾力的です。大した例ではありませんが、丁寧を良しとする日本、結構融通が利かないことあり。おもてなしの意味そのものが違うのかも知れませんね。 |
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今日も思いつくまま・・2017年2月27日(月)
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ニューヨーク勤務になる前、40才くらいまでは、出張のない職場ばかりでした。そのあとは、今に至るまで、結構な頻度で出張があります。特に、自治体訪問が増えた今は、オフィスで仕事する時間はわずか、ほとんど外出ということもあります。リモートアクセスでのメールチェックや決裁を便利に使っています。 先週の松本出張。強風の影響で、中央本線の、長野県と山梨県との県境あたりで、止まったり、徐行したりで、月曜日の新宿行あずさのダイヤが大幅に乱れました。影響の少なかった長野経由、新幹線利用も考えましたが、なんとか動かしますという駅員さんの話もあり、運を天に任せることにしました。電光掲示板の表示は10分遅れ。 8時新宿発、大昔のヒット曲「あずさ2号」の末裔となる特急は、40分ほど遅れて到着。その時、すでに10分遅れでの出発は無理でしたが、掃除が終われば、すぐに出るということで、途中の徐行を入れても、定時の1時間遅れくらいで到着しそうでした。それなら、長野経由新幹線と同じくらい。 やれやれと乗車した段階で、15分遅れ、信号が変われば出発しますということで、良かったと安心したものの、一向に出ません。お得意の申し訳ありません連呼の放送もなくなり、静かに待つことになりました。そのうち、普通列車の運転を取りやめる代わりに、特急に乗車してもらうということになりました。 ホームでの放送も要領が得ないので、戸惑った乗客が乗車するまでには、結構時間がかかり、さらに、30分後に出発する「あずさ」を運休したこともあり、その乗客にも乗ってもらい、52分遅れで出発。意外に順調に走り、これなら、新宿着1時間半は遅れないなと思った途端、上諏訪駅でストップ。信濃境での強風の影響で、1時間近く待機。 少し風が弱くなってからの徐行で、甲府駅では2時間遅れ、新宿には2時間10分遅れで到着。急いでいたことと、車内での払い戻し放送もなかったので、切符は自動改札機の中、2時間遅れの特急券払い戻しの権利は放棄。徐行区間の線路際、寒い強風の中、監視しているJR社員を見ると文句言えませんが。 |
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今日も思いつくまま・・2017年2月20日(月)
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麺類が好きで、出張に行くと、よく食べます。長野や新潟では、地元の有名店に行ったり、高松でも、有名なうどん店めぐりをしたりすることもありますが、一番は駅の麺類。この間、食べたのが、名古屋駅在来線ホームの駅きしめん。新幹線ホームの駅きしめんより空いていることもあり、お気に入りです。 もちろん、空いているだけでなく、新幹線ホームの戦うビジネス戦士ばかりの雰囲気ではなく、まったり、ほっこりとした感じが好きです。店のおばさん曰く、新幹線のホームと違って、天ぷらが揚げたてが売り物。天ぷらものを頼むと、揚げる時間に数分、待っただけの価値はありです。 朝から開いているので、早い時間の列車に乗る時には、朝食として食べます。新幹線に乗る前、一旦、在来線のホームに上がり、早めの通勤客と逆方向に歩いて、駅きしめんに向かいました。もっとも、大きな名古屋駅、在来線ホームすべてに駅きしめんがあります。味の違いがわかるほどではありませんが。 昔、好きだったのが、京浜東北線蒲田駅の駅そば。東京風としては、薄い感じのつゆのおそば。かき揚げも桜エビが入ったユニークなもの。忘れられなくなる味で、横浜の自宅から、ニューヨークに戻る際、蒲田で途中下車して、東京駅から、成田エクスプレスに乗ったこともたびたびあります。 その味のおそば、ほとんど同じ味のが、羽田空港国内線第1ビルの中の、立ち食いの店で食べられます。働いているおばさんに、蒲田駅との関係を聞きましたが、考えてみれば当たり前、全然知らないということでした。駅そば同様、こちらも、楽しみのひとつ、羽田空港昼ごはん有力メニューのひとつです。 本家の蒲田駅は、数年前に改装した時に、閉店してしまいました。駅そばは、東京も、大阪も、JRグループが経営しているチェーン店が中心になっています。それはそれで、美味しいし、地元らしいメニューもあるのですが、そのために食べに行くという感じではありません。駅麺探し、続けたいと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2017年2月13日(月)
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インターネットを使って、品物の売り買いをするのが普通になって、20年くらい。そのころから、ビジネスの速度が速くなっているように思います。1996年、ニューヨークに着任したころ、パソコン通信が主流の時代。メールをダウンロードするのも一苦労、ノートパソコンもずっしり重く、しょっちゅう、フリーズしていました。 そのうち、ADSLになって、速度が劇的に速くなり、パソコンでのページめくりやスクロールのストレスも減少しました。あちこちで、ニョキニョキとインターネットに関わる、新ビジネスが出てきました。ウィンドウズ95の時代です。最初のパソコンは、Macブック、残っていれば、すでに骨董品クラスです。 通販、オークション、マッチング、いろいろな配信やネットワークサービス、価格や商品の比較サイト、ネットラーニング、ゲームや、旅行・グルメなどなど、今や、ネットなしに生活するのは事実上困難。そんな中、いろいろな会社、ビジネスが生まれては消え、大きなビジネスにもなっています。 ところが、日本の企業がWebサイトを活用しているわけではありません。一時のブームでWebサイト、ホームページを開設しても、その後のメンテナンスはせず、スマホ対応でもなかったり、まして、熱心な担当者がやめたりすると、すぐには売り上げに結びつかないホームページはそのままになってしまいます。 一方、セキュリティ、個人情報保護などなど、企業の社内ネットワークは慎重第一、自社内で完結するネットワークを構築し、外との出入り回線の速度を上げず、グローバルインターネットを活用しようとする気持ちは薄いようです。海外からのビジネスメールに、Gmailアドレスが多いのと、対照的です。 IoTビジネスを考える前に、やることがあるのかも知れません。インターネット時代のチャレンジャーのように、出来ない理由を考える前に、やるためにアクションを起こすようにと思ったりもします。相談されて、否定的に対応し、つぶしたアイディアのいくつかが、少しの工夫で大成功。反省しています。 |
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今日も思いつくまま・・2017年2月6日(月)
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インフルエンザが警報レベルだそうです。高熱の出ない種類もあるようなので、なかなか治らなかった風邪も、ひょっとしてと思いますが、風邪のまま、やっと快方に向かっています。湿気の少ない太平洋側の冬らしい日が続いているので、どうしても、喉がカラカラ、風邪がとりつきやすい環境です。 3日に節分、4日に立春ですが、太陽暦だと、冬の真っただ中、旧暦に合わせた暦だと感じます。それでも、梅が咲きはじめ、寒くても、日差しは春らしくなっています。コートなしでも平気なくらいの昼休みがある反面、夜になると、強い北風、思わず、亀のように、首を縮めたくなります。 3日の節分は、豆まきより恵方巻。子供のころは、クリスマスと、大晦日、お正月くらいだった歳時記が、バレンタインデー、ホワイトデー、ハロィーンと増えています。すべて西洋かと思ったら、恵方巻。たぶん、関西の風習だったのを、コンビニフーズとして、全国化したのではと思います。 そんな中、消えてしまったのが、花まつり。仏教系の幼稚園だったので、4月8日には、甘茶を仏様にかけた記憶があります。このままだと、イースターに取って変わられる可能性もありそうです。旧正月といい、仏教系の旗色は今一つみたいです。それにしても、恵方巻は、あっという間にポピュラーになりました。 コンビニバイトに、クリスマスケーキ同様、恵方巻ノルマを課し、売れないと自分で引き取らなければならないというニュースを聞いたことがあります。売れたら、報奨金ではなく、バイト料の中にノルマを入れ、売れないと実質的に自分で買うという話。本当なら、きれいごとのコンビニ広告とは、だいぶ違いますね。 お客様は安いが一番だから、人件費や材料コストダウンだったり、歳時記的な販促企画にノルマ。確かに、タダとか、割引とか、大盛無料などに並ぶ人数を見ると、売る方は大変だなと思います。味とか、品質とかは二の次です。そんなことで、歳時記を使われ、残った恵方巻はどうなるかと心配になるマーケティング、3日のコンビニでした。 |
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今日も思いつくまま・・2017年1月30日(月)
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ニューヨークに引っ越した1996年から数年間住んだ、47丁目とセカンドアベニューの交差点のところ、国連本部やジャパンソサエティのそばのアパートから、ほど近いところに、そのあたりで一番高い、トランプアパートが建設されました。ヤンキースの松井選手が住んでいたと言われるアパートです。 フィフスアベニューにあるトランプタワーには、トイレ拝借でお世話になりました。オフィスに行ったこともなければ、カフェに寄った記憶もありませんが、自由に使えるきれいで安全なトイレなので、こちらは重宝した記憶があり、ゴールド基調のインテリアの中を歩きました。 ここまで、金持ちだと強調するのは、趣味が良いとは思えませんでしたが、富の象徴という意味では、わかりやすい感じではありました。マンハッタンでは、トランプという名前を冠にする建物があちこちにあり、石造りで地味なカラーの建物の中で、目立っていました。こちらの方がマンハッタンらしい感じがしました。 トランプ大統領就任から10日。こんなことを思い出しました。駐在員という立場だったので、会社がも家賃を出してくれたので、住めたマンハッタンのアパート。それでも、行ったときに、この部屋の売値はいくらかと聞いたら、30万ドル程度。横浜のアパートの専有面積の倍はあり、値段は3分の2でした。 そのあと、不動産バブルが大変なことになり、世界中から富がマンハッタンに集中し、郊外の住宅地より急激に値上がりし、家賃も上がり、オーナーの都合もあって、契約更新できず、もう少し安いところ引っ越すとき、売値相場を聞いたら、100万ドルを超えていました。わずかの間に3倍です。 ブラックマンデーの影響から脱し、次のリーマンショックまでの不動産バブル、トランプ財閥はますます膨らんだと思います。9.11の時にも思いましたが、何が起こるかわからないということ。戦争をすると儲かる人々が権力を独占しないことを祈っています。平和という言葉を聞く機会が少なくなったのが、気になります。 |
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今日も思いつくまま・・2017年1月23日(月)
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1964(昭和39)年、東京オリンピックの年に起こったのが、新潟地震。ちょうど、お昼ごろ、東京でも、結構揺れた記憶があります。アパートの倒壊や、液状化という言葉、この時、初めての経験でした。地震の怖さを体感しました。すでに、50年以上前の話ですが、結構覚えています。 新潟は、昔から、石油や液状ガスが出るということなので、確かに地面の下にマグマがあったのかも知れません。もっとも、日本列島は、活断層がどこにでも、埋まり、見つかっていないだけなのかもしれません。昨年、熊本で起こった地震、30年以内に、震度5弱以上の地震が起こる確率が数パーセントだったということです。 同じ予測の東京は100%。いつ起こっても、不思議ではありません。地震のないと言われていた、阪神地区で起こったのが、阪神・淡路大震災、22年前のことです。高速道路やビル、鉄道が崩壊し、長田地区での大火災など、おおぜいの人が犠牲になりました。怖い記憶です。 新潟地震が起こった時間の2週間ほど前、小学校の修学旅行の帰り、上野行の急行「越路」に乗っていました。確か、新潟駅を発車する寸前のことでした。そんなこともあって、印象が強く、今でも覚えています。新潟で何をしたかということは、まったく覚えていないのと、対照的です。 新潟の前、たぶん、会津若松あたりで泊まったのだと思います。その前に、猪苗代湖の近くの野口英世記念館に行って、お母さんからの手紙のレプリカを買った記憶は残っています。それと、会津若松から新潟まで、当時、上野発、東北本線、磐越西線経由で、遠回りでの新潟行急行「いいで(飯豊)」に乗ったのは覚えています。 4年後、前回のオリンピックから56年後、また、東京で開催されます。その間、冬のオリンピックが、札幌と長野で開催されました。前回の東京は、高度成長期。右肩上がりが永久に続くのではという時代でした。今度のオリンピック、国立競技場の設計、ロゴマーク、コスト、揉めてばかりですが、無事、開会式を迎えたいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2017年1月16日(月)
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パソコンを使うようになって20年。技量は上達せず、メールとWeb中心のままです。せいぜい、年賀状のあて名管理や、写真の保管くらいですが、生活にとって、なくてはならない存在にはなっています。性能もあがり、ダイヤルアップから、光回線、WiFiと、速度も見違えるほどです。 パソコンでは、ブラウザーを開いて、そこから、検索が始めていました。そのページには、ニュースや占い、天気予報などがあり、なるべく長く滞在してもらう努力を、プロバイダーが熱心に取り組んでいました。検索のための機能だけのページしかないグーグルに違和感を感じました。 スマホになって、状況が一気に変化することになります。アンドロイドでも、iPhone、どちらでも、ブラウザーを開けるという作業なしに、ウインドに文字入力をすれば済むようになりました。今では、音声入力機能が上がったので、スマホに向かって、しゃべるだけでOKです。 一旦、検索結果のページが出て、そこで選ぶという作業もありますが、入力如何では、一気にアプリやWebサイトが開くことや、あるいは、NAVIなどでは、すぐにアクションOKということになっています。E-mailアドレスもプロバイダーのドメインではなく、グーグルなどのWebメールになりつつあるようです。 長い文章を入力するのは、パソコンでキーボードがないと不便だと思っている人もどんどん減っているようです。スマホか、せいぜいタブレットがあれば十分。電車の中で、スマホに入力している指の動きに感動することがあります。何の躊躇もなく、何もみずに動く指は芸術とも言えるのでは思うほどです。 電話番号もLINEのIDに使うだけになったり、音声通話をする頻度も激減したり、メールもSNSに取って変わられていると言われています。それでも、20年前から慣れ親しんだパソコン、しばらく使い続けたいと思います。指の運動にもなるし、老化防止にもなるのではと思いますが。 |
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今日も思いつくまま・・2017年1月9日(月)
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十日戎という存在を知ったのは10年ほど前でした。福男レースで毎年報道される西宮神社の神事が、商売繁盛のための戎信仰とは結び付いていなかったということです。東日本では、埼玉の鷲宮神社をルーツにするお酉様が商売繁盛の神事ですが、こちらは11月に二日か三日ある酉の日。十日戎は毎年1月10日を中心に、前夜と後夜の3日間です。 熊手でお金をかき集めるという発想は一緒ですが、酉の市は収穫の終わった稲穂、十日戎は笹がメインです。商売繁盛、笹持って来い来いというお囃子を聞いていると、景気が良くなると気持ちが高揚します。リズミカルで軽い感じが、大阪らしいとも言えるのかもしれません。西宮神社は兵庫県ですが。 毎年、行くのが、通天閣のそばにある今宮戎神社。こちらは複数選ばれる福娘に、毎年外国人がいたりして話題になるみたいです。もう一か所、梅田に近い、天神橋筋商店街の近くにある、堀川戎神社。こちらも大勢の参拝客で、年々増えているようです。お参りに来る余裕が増えているのか、神頼みの商売繁盛か、わかりませんが。 ここのところ、買った熊手を交換しに、毎年大阪へ来ています。三が日が過ぎて、旅行シーズンとしては閑散期になっていることもあり、十日戎をやっている神社周辺を除けば、静かな大阪です。成人の日がつながることもあり、3連休になると、お梅田となんば以外の大阪は、ゆったりと歩くことができます。 たこ焼き、お好み焼き、うどん、串カツ、焼肉などなど、おいしいものがあちこちにあり、有名店、行列店でなくても、外れはほとんどなく、レベルが高いのが大阪です。美味しくなければ、誰かの好みに合った味を提供しなければ、大阪では生き残れないということだと思います。問題は食べ過ぎてしまうことです。 そんな大阪の商店街と、数年前から、タウンページが仲良くしようとしています。商店街と喫茶店が元気でたくさんあるのが大阪。だから、散歩が楽しくなります。電話帳から、地域とくらしの安心メディアに変身中のタウンページ。大阪市では、20年続いた広告売り上げ減少がストップしました。来年も続くように、十日戎で商売繁盛、お願いします。 |
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今日も思いつくまま・・2017年1月2日(月)
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今年9月で65才になります。若いと思っていても、前期高齢者。60才、還暦を迎えると、シニア割引の対象にもなりましたが、現役での仕事もあとわずか、幼稚園入園以来60年以上続けた、朝起きて出かける義務がなくなります。平均余命までには、まだだいぶあります。約20年です。 20年前、何をしていたかというと、すでにニューヨーク勤務2年目。ついこの間みたいに感じます。そうなると、20年、あっという間に過ぎてしまいそうです。まずは、誰でも考えそうなことですが、これまでを片付け、断捨離をすることにしようかと思っています。 44才で、初めての海外勤務は冒険ではありました。英語で生活ができるのか、トラブルがあったら、どうするかなど。ニューヨークに住んで5年経った2001年に、ワールドトレードセンターのツインビル崩壊を目の当たりにしたという大事件に遭遇しましたが、自分の周辺ではまずまず平穏でした。 毎年、ニューヨークに里帰りと称して、夏休みの10日間ほど滞在しています。何もしない、ホテルの窓の外はニューヨークという贅沢を味わっています。数年前、風邪をひいたまま行って、滞在して、帰ってから、何もしないという過ごし方もあることに気づきました。 ホテルから10分程度歩いたところにある、ブライアントパークという公園に置かれた椅子に座り、人々や、リスなどの小動物、公園の外を走るクルマ、ヘリコプターや飛行機などを見て、救急車やパトカーのサイレンなどの街の音を聞いていると飽きません。普段忙しく仕事をしているからなのだと言われますが。 ニューヨークだけではありません。東京でも、地方でも、静かに座っている場所を見つけると同じように実践することがあります。心が洗われるとか、高尚なことには関係なく、動きたくなくなります。65才になる今年、こんな時間が増えるかもしれませんし、増えないかもしれません。どうなるか、楽しみにしています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年12月26日(月)
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「流される」と「思いこみ」ってありますよね。流されるというのは、日本人お得意の空気を読むにということにもつながるような気がします。自分ではそう思っていなくても、周りがそうなら、そうしておいた方が無難だと思うこと。そう思わない人、そういう行動をしない人には、好ましいことではありません。異端者になってしまいます。 確固とした信念に基づいた行動ではないので、別のことが起こると、あっという間に変わってしまいます。70年と少し前の、終戦前後で、鬼畜米英とギブミーチョコレートとの関係など、同じ人とは思えない行動、理屈では説明できません。常にに自分が正しいと思っているのだと思います。過去に触れられたくありませんね。 「思い込み」を変えるのは、簡単ではありません。「流される」結果のことなので、転換点にたどり着かないと、そのまま続いてしまいます。黒船と言われる米国船が来たリ、終戦などという大ごとがしょっちゅう起こるわけではありません。まして、会社の活動の中での、自浄的な変革は簡単ではありません。 もっとも、大きな刺激があると、簡単に変わってしまうという特徴もあるので、ここが難しいところです。つまり、潮目が変わるとなると、一斉にそちらに行ってしまいます。瞬間芸のような芸人の人気急上昇が素早いのに、飽きられる速度も尋常ではありません。すぐに忘れるということも、特技です。 変革が起こったとしても、「流された」結果のあらたな「思い込み」なので、すぐに変わることもあります。瞬間芸の運命とよく似ているのだと思います。こんなことを考えたのは、タウンページです。20年間、売り上げ減少が続くと、それが当たり前、流されてしまった結果の思いこみということになります。仕方ないですよね。 固定電話の呪縛を離れ、全国民と対象にし、防災タウンページに開封力を頼るなど、あらたなモデルへの転換。広告売り上げ結果の積み重ねで、社内意識の転換点に近づきつつあるような感じです。百の説得では無理でも、流されれば、大きな動きになり、成功モデルへの思い込みになるかも知れません。もう少し、あと少しが長くても、焦らないようにします。 |
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今日も思いつくまま・・2016年12月19日(月)
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面白いことに気づきました。通販って、デパートより安いと信じていたのですが。ラルフローレンのケーブル柄タオルハンカチ、10年ほど前から、使っている品物です。汗っかきなので、普通のハンカチだと、間に合わないので、最初に使ったタオルのハンカチは、確か、お香典返し。 少しは格好をつけたいなと思って、見つけたのがこのタオルハンカチ。一枚800円。カラーバリエーションが豊富なので、見つけると買い足し、結構な枚数に。汗をしっかり吸ってくれる大活躍、やや古びて、ふわっと感が復元しなくなるまで、しっかりと使える、お気に入り。今でも愛用しています。 いつの間にか、置いてあるショップが少なくなり、ハンカチ売り場に1,2色あればよい方。そろそろ、買い替えなければと思って、通販で検索。楽天、アマゾン、ともに、そんなに数はなく、ラルフローレンの公式ショップでは見つからないので、少し、がっかり。出ている品物は昔の倍近い値段になっていました。 数週間前、新宿のデパートで久しぶりに見つけ、値段を聞いたら、昔と同じに、税抜きで800円。1色しかなかったので、店員に聞いたところ、カタログを見せてくれて、昔とほぼ同じの10色ほどのラインアップ。お取り寄せできますよという話と、女性ものハンカチの売り場にもありますとのこと。 もう一度、通販サイトを見て、確認をすると、やはり倍近い値段。同じ例はiPad。ほんの少しだけど、通販サイトの方が高くなっています。安いのがあると新品同様。どんなメカニズムか、まったく、わかりませんが、リアル店舗や、メーカーの公式サイトで確認できないと、どれが妥当な値段なのか。 もっとも、iPadだと、アップル公式サイトで簡単に確認できるのに。不思議なことがあるものです。価格コムなどの比較サイトで、お得を追求する人や、コスパを求めて長い行列に並ぶ人がおおぜいいるのに、通販サイトで高い買い物をしている場合もあるのでしょうか。通販で結構奥が深そう、ビジネスチャンスもありそうです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年12月12日(月)
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おかげ様で、全国の自治体を訪問し、知事や市長に会う機会が増えています。ここのところ、週に2回ペースのことも多く、それでも、せっかく、従業員のみなさんがアポイントを取っても、残念ながら行けないこともあります。タウンページの付録に、防災タウンページをつけたおかげです。 防災タウンページは、甲府市タウンページに付けた避難所マップ。タウンページを届ける際のビニール袋を破いてもらい、本誌を手に取って、サラサラとでも、参照してもらうためのツールとして、女性雑誌のようなトートバックを付録にしようという編集長のアイディアから、始まりました。編集長第1号は、甲府市、高崎市が同時、2013年のことでした。 トートバックは、おしゃれなスポンサーが見つからないことやコスト面で断念し、東日本大震災のあと、東京で売れた帰宅困難者マップを付けようという話になりました。当初、甲府市は乗り気ではありませんでしたが、100年ぶりの雪が降ったこともあり、防災が大事だということになって、広告モデルの避難所マップが出来ました。 自治体の作る、危険地域地図(ハザードマップ)や防災マニュアルは、詳しすぎたり、毎年出すわけではないということで、配布されても、市民にとって、なじみのない存在だったようで、薄くて、避難所地図中心の付録は好評で、次の東京都港区他から、防災タウンページと命名しました。まだまだ改善の余地大で、熊本大地震被災者の意見により、大進化する予定です。 地方創生予算をもらったらどうかというおすすめや、誘惑はありました。自治体との防災協定を結んだケースもありますが、自治体の協力により、NTT固定電話のない家庭や事業所にも全数お届けするというモデルを、タウンページの開封率、広告媒体価値アップにとって、プラスにするぞという意気込みで、広告モデルにしました。 自治体にとって、出入り業者ではなく、イコールパートナーとして、接してくれるようになり、知事や市長に面会できる機会が劇的に増加しました。その結果、地方への出張回数が増えることになりました。面会時のマスコミ取材も増え、TVニュースで放映された時の反響にビックリしたこともあります。今年の訪問はあと3市です。 |
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今日も思いつくまま・・2016年12月5日(月)
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早いもので12月。年賀状の準備をし始めると、急に師走という実感がわいてきます。毎年、1月中に、誰から来たか、年末に来た喪中はがきを合わせて、整理しておけば良いとはわかっていても、着手をするのは、年賀状の準備が出来てからになります。今年も、たぶん、同じことになりそうです。 年齢を重ねるに従い、どうしても、喪中はがきが増えます。とりわけ、年長の方とやりとりをした場合、ご遺族から亡くなったというはがきを貰うことも増えて来ています。それでも、亡くなる年齢で多いのは90才以上、中には、100才を超えるという例も結構見られるようになりました。長寿です。 60才、還暦を迎えたので、爾後、年賀の例はやめますというはがきをもらうこともあります。若いころ、年末がどうにも忙しく、年内に一枚も出さなかったことがありました。そのあとは、やり取りの数も多少減った記憶があります。寂しいのか、ラクなのか、難しいところです。 それでも、あたりかまわず、出していたころの、600枚は、個人としては多すぎたみたいで、近年は300枚プラスアルファになっています。何年か前から、あて名印刷にプリンターを使うようになり、劇的にラクになりました。情緒がないと言えば、ありませんが、文明の利器、ありがたいことです。 あて名がプリンター、本文が印刷なので、一言、添えることにしています。できれば、あて先にあったコメントを書きたいところですが、どうしても、決まりきった文句になることがあります。印刷する際には、書き添えする余白があるようにしています。少しでも、気持ちが伝わればと思っています。 去年、年賀状を書こうと思った時期は、ついこの間のようです。毎年、時間の感覚が速くなっています。60才を過ぎ、一気に加速したように思えます。年賀状や、桜の時期、夏の暑さ、紅葉に、クリスマスなどなど、歳時記で自分の時間を感じます。あっという間にならないよう、やりたいことをやっておきたいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年11月28日(月)
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新潟県新潟市に、初めて行ったのは50年以上前、小学校6年の修学旅行でした。会津から回ったのですが、どうして新潟市に泊まったのか、どこを見学したのか、何も記憶がありません。佐渡や越後湯沢とか、観光地はたくさんありますが、新潟市そのものの観光名所はと聞かれても、即答できませんし。 覚えている原因は、東京へ戻る列車に乗っている時間の2週間後の同じ時間に、新潟地震が発生したからです。世田谷の学校の校庭でも、揺れた記憶があります。生まれて初めての、大きな災害のあった地震でした。信濃川にかかる昭和大橋の崩落、団地の倒壊や液状化、衝撃的な記憶でした。 災害は、いつ起こるかわかりません。高知県では南海トラフ大地震発生の数分後に来ると想定される、大津波に対し、津波タワーという施設を、700キロある海岸線沿いに設置しようとしています。津波も、土砂崩れも、川の氾濫も、自然は待ってくれないということです。 30年以内に、震度5弱以上の地震が起こる確率、東京ではほぼ100%となっています。南海トラフ、東南海、東海地震対策を講じているところは、同じです。が、今年4月の大地震前、熊本市の確率は10%以下だったそうです。大地震は、いつでも、どこでも起こる可能性があります。 日本列島は、真ん中に背骨のように山があり、平地が少なく、海に面しているということは、太古の昔に、火山の噴火や、地殻変動でできた土地なのでしょう。海に近い平地を走る東海道新幹線以外、トンネルばかりの新幹線に乗ったり、峠越えのエキサイティングなドライブを楽しめるのも、こんな理由でしょう。 地球自体が、どうなっているのか、謎だらけ、宇宙だって、始まりと終わりがあるなどと考えると、眠れなくなります。が、その中の誤差にもならないくらいの時間、生きているうちに、大災害に巡り合うかどうか、運みたいなものですが、災害に備えておくことには、大きな意味あり、久しぶりの新潟市で感じたことです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年11月21日(月)
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自治体の協力をもらって、防災タウンページを編集し、その地域のタウンページの別冊付録として、固定電話を持っていない住宅や、事業所にもお配りしている関係で、自治体の長が出席する発刊式に出席するため、地方自治体へ行く機会が増えています。日程の関係で、行けないところがあるのは、残念ですが。 滞在時間がわずかということもあり、観光や名物を味わう機会が皆無ということがほとんどですが、駅の雰囲気や車窓、クルマの中から見える季節の変化、空からの雄大な景色など、地元に触れることができます。今の時期の日本は、どこに行っても、紅葉がきれい、赤や黄色に色づいた木々が、美しい日本そのものです。 時間があれば、商店街を歩いたり、駅前から、市役所などまで歩いたりしています。残念なのは、駅のそばの、歩いて行けたり、鉄道やバスで行けるようなところに元気がないことです。シャッター通りとは言い得て妙ですが、開くことのないシャッター、昔の賑わいはなかなか想像できません。 クルマで移動すると、郊外のショッピングセンター。こちらも、すべてが賑わっているようではなさそうです。より大きな、新しい、特に、日本中どこにでもある大手には、平日昼間でも、駐車しているクルマも多く、街がすっかり移動してきたみたいな感じです。一日中楽しめるレジャーランドみたいです。 大手でも、古くなった規模の小さな、ショッピングセンターは、選択と集中で、さっさと閉店し、撤退をすることで、投資効果を最大にしています。残ったのは、シャッターばかりの商店街、廃墟になりそうなショッピングセンター跡、街の食品スーパーが残っていれば良いのですが、普段の買い物も難しくなってしまうようです。 移動中、気づくのは、床屋さん、美容院と、規模の小さな食品スーパーです。ショッピングセンターに関係なく、このような地元住民ご用達が残っていれば、なんとかなるのではと思います。地域とくらしのメディア、タウンページは、地元の食品スーパーと連携したいと思っていますが、どうでしょうか。 |
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今日も思いつくまま・・2016年11月14日(月)
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ニューヨークに住んでいたころ、アパートの近くに、トランプアパートが出来ました。そこには、ヤンキースに入った松井選手が入居したという話もありましたが、会うことはありませんでした。住んでいるアパートは、松竹梅で、松の下か竹の上、トランプアパートは、値段、グレードとも、松の特上クラスでした。 フィフスアベニューのトランプビルでは、トイレを使わせてもらいましたが、金色の装飾を使ったインテリア。あまり、センスの良い感じではありませんでした。本当にグレードの高いアパートも、キラキラのトランプアパートではなく、アッパーイーストの歴史を感じさせるコンドミニアムだったのではと思います。 トランプ大統領で、先週はにぎやかでした。最初は、泡沫候補っていうか、冗談だと思いましたが、あれよあれよと、共和党の指名レースを勝ち抜き、常に、そろそろ退却とか断念ではと言いながら、旋風になってしまいました。本選でも、ほぼすべてのメディアが当日までクリントン優勢。びっくりの結果になりました。 当選してからも、反対デモがアメリカのアチコチで起こっているという報道もありますが、朴槿恵大統領退陣を求める韓国にくらべれば規模が小さく、少しづつ手のひらを返したようなトーンの記事だとか、実は前からそう思っていたという、勝てば官軍になりつつあるように思えます。 アメリカという国の持つ、表と裏というと、陰謀史観みたいな怪しげな感じですが、住んでみて、意に沿わないことに対する冷たさを感じることとか、ジャパンアズナンバーワンと持ち上げてくれたとは思えない感じって、あったように思います。それが、本質だとすると、トランプの主張は怖いほど正直なのではと思います。 永久に移民を受け入れ、英語が公用語でなくなる日を待つのかなど、元から住んでいる原アメリカ人が、大陸に移住した際、原住民にやったことと同じことが起こるのかという不安。などのことを、トランプは避けませんでした。自分の意に沿えば、なんでもありという在来の考え方との差。ここが普通の人に受けたように思えます。どうなるのでしょうか。 |
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今日も思いつくまま・・2016年11月7日(月)
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先週、高知に行ってきました。前回は新幹線と岡山から、土讃線特急の南風号でしたが、今回は飛行機。高知県と高知市へ訪問し、高知県版タウンページと防災タウンページの発刊式に出席します。幸い、県知事、市長に出席をしてもらい、県でのセレモニーには、テレビ局や新聞社も集まってくれました。 高知県は、海岸線が700キロ以上あり、太平洋に面していることから、津波対策としての、津波タワーを県内に150か所設置するなど、防災には熱心です。確かに、地震による津波、台風、山間地での土砂災害など、風光明媚と引き換えに、自然災害が多く、県知事も孤立化を前提に対策を立てているという話でした。 昨年、高知市で、防災タウンページを発行し、全住戸・全事業所に配りました。あわせて、高知県とは、防災情報に関する協定を結ぶことになり、協定締結式の場で、高知県知事の防災に対する思いを聞く機会がありました。そこで考えたのが、県との協定に基づいた、防災タウンページの発行でした。 それまで、防災タウンページは、高知市のような県庁所在地や、東京23区などを単位に発行し、防災の基礎知識、被災経験者からの情報、避難所や公衆電話マップ、防災メモ欄などをタウンページの別冊付録にし、本紙には、より詳細な記事を掲載して、2014年から、順次、全住戸・全事業所への配達を開始しました。 2018年くらいには、全国で発行したいとは思っていましたが、全国に2000近くある自治体すべてと調整をしながら、発行は容易ではありません。どうしようかという時に、高知県と協定を結び、高知市を中心に、県を東西にわけ、東部版、西部版の防災タウンページとして、発行することにし、一気に発行市町村を拡大しました。 2016年度末には、全国の60%、2018年度には、全国全域カバーを実現したいと思っています。自治体の防災施策を補完しながら、全国データベースを作り、防災や減災に少しでも、役立ててればと思っています。高知県での記念すべき取り組みを次につなげたいものです。発刊式出席の出張、ますます、増えそうです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年10月31日(月)
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55インチ、アンドロイドTVが我が家にやってきて、1週間経ちました。宿泊出張があったり、帰ったら、バタンキューなので、ゆっくりと見ているわけではありませんが、大きさは気にならなくなりました。操作方法にも少しづつ慣れ、12年間の変化を感じ始めています。 リモコンが声で操作できます。インターネットとつながっているので、何でも言えば、検索をしてくれます。昔の曲名を言えば、ユーチューブの中で検索し、結果が表示されます。古い映像を大画面で見るので、苦しい場面もありますが、ハイビジョン後の素材は、4K品質へと修正してくれるので、結構きれいです。 アップになった顔の表情や、肌がくっきりとわかるくらいにまでなります。ここまでは必要ないと思ってしまうくらいです。それより、インターネットの中にある、コンテンツの多さに感激します。思い出の曲は、歌詞も覚えていて、そのころを実感してしまいます。ここまではタダでできることです。 先週半ばから、アマゾンビデオに対応できるようになったので、プライム会員になっていると、追加料金なしに見られる映画や、TV番組がたくさんあります。外資のアマゾンにからめとられているのですが、買い物、電子ブックともども、アマゾン利用率が増えていることを実感します。有料コンテンツも買っています。 元々、地上波TVは朝のニュース中心で、BSやCATVの旅番組や、ミステリードラマの再放送を見ることが多かったのですが、そこに、アンドロイドTVのコンテンツを見る時間が加わっても、総視聴時間が増えるわけではありません。TV局がどうなっていくのか、こちらも心配になります。 アンドロイドTV、新しいおもちゃを買った気分です。時々、すねて、再起動が必要だったり、悩ましい事態がないわけではありませんが、パソコンかスマホと考えたら、こんなものかなという感じです。しばらくは、TVと過ごす時間が増えるような気がします。まだまだ、出来ることがありそうで、楽しみです |
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今日も思いつくまま・・2016年10月24日(月)
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テレビを買い替えました。前のテレビは12年使いました。今のアパートに引っ越して13年、ウォシュレットが壊れ、ガス湯沸かし器の調子が今一つということで、取り替えたのに続き、テレビもです。しばらく前から、朝一番で電源を入れると、何回かついたり、消えたり、長い時は1時間近く安定しませんでした。 さらに数年前から、画面に二条の薄い墨絵のようなすじが見えるようになっています。液晶の交換が必要だと言われましたが、白っぽい画面以外は、気づかないほどでしたので、そのまま。WEGAというブランドで最後に販売した40インチの液晶テレビ、お金がかかり、大赤字だったとソニーの人から聞きました。 当時は、まだフルハイビジョンではありませんでしたが、お金をかけただけあって、ギラギラしない、味わい深いテイストでした。去年、ヨーロッパのAVメーカーがチューニングして、500万円で販売していた液晶テレビとよく似た感じ。WEGA最後の液晶40インチの値段は、10分の1以下でしたが、それでもかなり高額でした。 数年後に買った、寝室用の32インチは、すでに買いやすい値段になっていました。ソニーのBRAVIA、スタンダードクラスの商品だったこともあり、画質はそこそこ、40インチのWEGAにくらべ、よく言えばあざやか、悪く言えば安っぽい感じ。実用には、十二分でしたが。 40インチのWEGAは画面の両側にスピーカーがつき、ベゼルというのでしょうか、枠も立派だったので、同じ大きさだと、50インチくらいまでなら、同じ大きさでした。最初は46インチくらいかなと思っていましたが、せっかくならと、横幅が10センチ弱大きくなりましたが、55インチにしてしまいました。 機能テンコ盛りの、アンドロイドTV、4K、高画質の商品でしたが、12年前の40インチWEGAの半額。枠が狭く、スピーカーが今一つという、価格コムの口コミを信じて、シアターバーというサウンドシステムを買っても、7割以下でした。画質、音質ともども、500万円TVとくらべてもまあまあ、満足しています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年10月17日(月)
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壱岐市に行きました。長崎県の所属する市ですが、福岡から、ジェットフォイルという高速船で1時間と少しがメインルート。長崎からは、39人乗りの飛行機が一日2往復ということで、対馬同様、福岡との関係が深い、長崎県の離島です。ちなみに、対馬へは、壱岐からさらに1時間以上かかります。 大型の高速船ですが、一日4往復。それでも、朝一番の壱岐市行は、乗船率は高く、ピーク時には、席がないほどだということでした。平日の朝便なので、博多港には、観光ムードは感じられず、スーツを来た仕事に行くような男性が主な乗客でした。ということで、静かな船内でした。 先日、行った沖縄も、島ですが、離島という感じになる、もう少し小さな島を考えると、橋で渡れない島って、確かに行く機会が少なく、確か、松山の対岸にある島に行ったのは30年近く前。結構、いろいろなところに行っているつもりですが、伊豆七島も、佐渡島や利尻島など、行ったことがありません。 淡路島や、しまなみ海道沿いの島々、江の島のような、橋でつながっているところに行く機会が複数回ありました。橋でつながっているから便利なのか、もともと、人の交流が多いから、橋をかけたのか、いずれにしても、壱岐島が初めての本格離島です。高速船の時速は80キロ、遠くを眺める海では、速さを感じません。 帰りの高速船は対馬発だったので、港内に入って来る船影があっという間に近づいてくる様子を見て、初めて、高速船の威力を実感しました。確かに速い船です。スタビライザーのおかげか、嵐のような中でなければ、乗り心地もよく、揺れを感じません。昔あった、福岡からの飛行機がなくなった理由もわかります。 壱岐島内、観光をしたわけではありませんが、往きと帰りの港が、別々のところなので、島内ドライブをすることになりました。遺跡もあり、邪馬台国に近い、国境の島を感じます。有力な政治家がいたのかなと思うくらい、道路は整備され、快適なドライブになりました。帰りの高速船は、熟年観光客が多く、活気があり、ホッとしました。 |
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今日も思いつくまま・・2016年10月10日(月)
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アメリカ大統領選まであと少し。白人ではない初の大統領になって8年。今回は、女性初の大統領登場か、何を言うかわからない大富豪の戦い。一時代前のようなエスタブリッシュメントが主役ではなくなったようです。まさかの展開がありそうで、なさそうで。結果に興味津々になります。 戦後70年が過ぎました。代々木の米軍住宅地ワシントンハイツは、1964年の東京オリンピックの際に返還され、オリンピックの選手村として使ったあと、代々木青少年生活センターと代々木公園になり、そのころは、創建以来、40年ほどだった明治神宮の杜に隣接した、広大な緑地となっています。 成城を歩いていると、アメリカ軍の通信施設らしい小さな土地を見つけ、広尾の近くにある、米軍施設、新山王ホテルと同じく、東京23区内に残っているアメリカがあると思ったのですが、どうも、アメリカ好きで成城に住んでいる所ジョージが所有しているパロディーのようです。確認はしていませんが、ホッとしたり、ガッカリしたりでした。 新山王ホテルは、ホテルニュージャパンの隣にあった、山王ホテルが開発のために移転した施設。20年近く前、たまたま、行く機会があった際、入口には、米軍兵士がいて、アメリカ政府の施設らしく、何をしに来たか、英語で聞かれました。頭の中が真っ白になった記憶があります。 ひと月ほど前、沖縄宜野湾市役所の前に、普天間基地があるということに気づきました。あれだけ、報道されていましたが、位置関係もわからず、那覇中心部からも、そんなに離れていない、宜野湾市の街中に基地があります。守ってもらうため膨大な費用も負担し、本土からは、段階的になくなったアメリカが沖縄には集まったということになります。 トランプ候補は、日本から、もっと費用を出させると主張しています。でないと、守らないということですが、実際には、戦後賠償が終わっているとは言いにくいほどの費用やその他もろもろを負担しているという話。東京にいると、鈍感になってしまいます。アメリカ大統領選、日本政府の政策、もう少し興味を持った方が良いのかもしれないと反省しています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年10月3日(月)
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11年目に入ったクルマ、走った距離は4万キロ、最初の1年は喜んで1万キロ近くになったので、そのあとは、年5000キロも走っていません。年1回、少し遠くへドライブするくらい。去年は長野、今年は成田空港が最遠地。調子は抜群、気にいっているのですが、乗る機会は増えていません。 なるべく、エンジンを回すように、乗った時には、中央環状線を台場から、中野長者町までとか、ほぼ一周することにしています。天気の良い日は、荒川沿いで、景色もよく、東京タワー、スカイツリー、運が良ければ、富士山も見える気持ち良いコース、難は、たまに、渋滞することです。 最初の7年間、バッテリー交換もせず、トラブルフリーでした。最初の1年、結構走ったために、機械を十分に使ったことが良い結果になったのではと思います。タイヤも、走りこむことで、グリップが効くようになるという話でした。整備スタッフからは、最低50キロは走ってくださいと言われてしまいました。 最初のバッテリーが7年以上持ったのに、2個目のバッテリーは2年しか持ちませんでした。そんなに高価ではありませんでしたが、もっと乗っていれば、長く使えたのではと、反省しています。10年以上経過したので、そろそろ、いろいろなところに不具合が生じるのではと心配していました。 しばらく前から、白い文字で、シフトが噛み合っていませんという表示が出るようになりました。大丈夫かなと心配していましたが、先週、始動時だけでなく、走っているときに表示点灯。整備スタッフに聞くと、赤い文字ではないので、様子を見ることにしましたが、珍しく、お墓参りという用向きで乗った土曜日、赤い文字でシフト異常動作という警告灯が出ました。 そこで、ギブアップ。レッカー車をお願いし、ディーラーに。整備スタッフによると、ギアボックス交換にはならず、シフトの位置センサーの問題とのことですが、入院になりました。もっと、乗っていればと反省しています。動くものは動かしておかないとダメということ、反省し、クルマにごめんなさいしています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年9月26日(月)
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早いもので9月も終わり。生まれてから、最初の一年過ごした時間感覚を1とすると、年を重ねるたびに、過ぎる時間を早く感じることになり、その感覚は年齢分の1だという話を聞いたことがあります。最初の1年のことなど、覚えているわけはありませんが、お正月が待ち遠しかった小さなころを思えば、そうかなと実感します。 朝早くのファミレスに多いのが、団塊の世代、散歩帰りのモーニング。24時間営業のマクドナルド、結構おいしい100円コーヒーと、モーニングメニュー、こちらも、年配の人たちが主流。そんなことを知っているということは、同じような早起き、寝坊して、起きるのがつらいということがなくなりました。 このままで行くと、最終コーナーを回ってから、あっという間ということになってしまいそうです。普通に動け、普通に生活できるということが大したもんだと実感するようになりました。仕事をやめて、毎日が日曜日になったら、どうなるのかという不安がないというわけにはいきません。 去年春に、心臓の具合が悪くなって、2週間ほど入院をしたこともあり、多少は体調を気にするようになりました。朝晩に血圧を測定し、毎日一回体重をはかっています。クスリを飲んでいることもあり、数値はまあまあ安定。2月に1回の検診時、このままだったら、また入院ということはなさそうと医師に言われ、ホッとしました。 でも、健康診断や人間ドックと同様に、賞味期限は検査をした日。20年前、初めての人間ドックでバリュームを飲んでの健診が結果OKになった1週間後に、下血があり、入院して数回の胃カメラ、腸カメラ検査のあと、十二指腸潰瘍快癒の跡が発見されたということを経験しました。日々更新です。 20年ぶりの入院のおかげで、一病息災という言葉を実感することができたのは良かったと思います。加速度を増している時間感覚と上手に付き合い、日々更新を実感しながら、今日を生きたいと思います。動き続けるだけでなく、ボーっとしていたり、怠惰にゴロゴロも。週末が待ち遠しいです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年9月19日(月)
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3回目の那覇、これまで日帰りだったので、初めての宿泊です。遅く始まって、遅く終わるという沖縄式宴会は遠慮しましたが、一泊でも、夕方、夜、朝の街を見ることができたのが、今までとの大きな違いでした。名所、旧跡に行ったわけではありませんが、那覇のイメージに広がりができた感じです。 最初に来た時にも気づいたのですが、光と色が南国、東南アジアと同じ。屋根のオレンジ色、建物の白が街の主流。全国チェーンの店に違和感があるくらいです。クルマで移動することが多いので、まだまだ、那覇という街のサイズ感や、位置関係が不明ですが、結構乗ってもタクシー料金が安く、移動しやすい街です。 バスを乗りこなすという上級移動に慣れるまでには、時間がかかりそうですが、モノレール(ゆいレール)は地下鉄と違って、外が見えること、片方の終点が那覇空港、中心街を通っていることもあり、安心して乗れます。高いところを走るので、海も見えたりするなど、乗ってみる価値ありです。 仕事で訪問した、宜野湾市役所、那覇市の衛星都市というか、市内と言っても良い距離。その市役所の前は、渦中にある、普天間基地だということに初めて、気がつきました。スマホのナビゲーションって、経路を中心に見るので、昔のように、紙の地図で確かめれば、すぐにわかったのに。 そう思って、帰りに那覇空港で、離陸するまで、外を見ていると、軍用機が目立ちます。東京からの飛行時間が、ソウルより長い沖縄。東京にいて考えていては、気づかないように思いました。横須賀でや、福生でも、感じたことですが、第2次世界大戦後70年以上経過しても、何も変わっていないのかも知れません。 空港で、目立つのは免税店、東京に多くなった免税店と違い、日本人でも買える免税店、沖縄復帰からだいぶ経っても同じです。空港で、買ったのはブルーシールという沖縄ブランドのソフトクリームでしたが、沖縄の持つ異国情緒の一端に触れることができました。今度は、仕事ではなく、もう少し長く滞在したいと思った沖縄一泊出張でした。 |
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今日も思いつくまま・・2016年9月12日(月)
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昨日は、アメリカの9.11から15年。あの日、マンハッタン41丁目にあるオフィスから見えてしまった、2棟のワールドトレードセンターの崩壊。仕事では行けましたが、今でも、足がそちらの方向に進みません。ここのところ、毎年、ニューヨークへ、里帰りのような旅行をしていますが、行っていません。 先日、記入間違いのため、ビザなし渡航に必要なインターネットでの入国事前承認(ESTA)が承認されないという事態に陥りました。ぼう然としましたが、ネットで、不承認の99%は記入間違いだということで、申請書をチェックしたら、すぐに判明。伝染病に感染していることになっていました。 再申請はなんなくOKとなりましたが、実際に入国するまでは安心できませんでした。結構並んだあと、キオスクと呼ばれる端末にパスポートを入れ、必要事項に回答した結果、承認された紙を受け取り、さらに並んでスタンプを押してもらい、税関を通れた時のうれしさ、何度行っても、ドキドキします。 13時間飛行機に乗って、水際で帰国ということにならなくて良かったと思いました。時間はかかるものの、7年間住んだニューヨーク、もう少し気軽に入国できればと思ってしまいます。日本からのJALと同じような時間に、アジアや中東、東欧などから、多くの便が到着するので、無事入国まで1時間以上かかることもあります。 日本人は観光など、短期滞在なら、ビザなしで入国できるので、それでも、簡単になっていますし、どこの国に行っても、ある程度並ばないと入国できません。9.11の前のヨーロッパ、パリやフランクフルトなどは、チェックなしでしたが、最近行ったことがないので、どうなっているのか。 北朝鮮の核実験やミサイル、ロシア、中国や韓国との領土をめぐる問題など、国境は超えられません。自由の国、日本の友好国と思っているアメリカでも、国境は厳然としてあるどころか、住んでいるときに、監視や盗聴されているのではとか、空港で必ず、調べられるとか、そんな話も聞きました。外国に住んで、初めて意識したことでした。 |
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今日も思いつくまま・・2016年9月5日(月)
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9月になっても暑い日が続き、防災の日の前後にも、台風が続々とやってきて、初めて、直接上陸した東北地方や北海道で大きな被害が出たり、熊本での地震が続いたりと、いろいろなことが起こっています。オリンピックで湧き上がったあと、落ち着かない日々が続いています。 旧暦で言えば、まだ8月ですから、暑くて当たり前ですが、気温がほどほどでも、湿度が高いと、エアコンの効いた室内から出ると、熱帯雨林の中にワープしたような感じになります。年齢を重ね、温度調節機能が低下しているのかも知れません。少し動いただけで、汗びっしょりです。 それでも、赤とんぼが飛んでいたり、青空の模様が秋らしかったり、ブドウや梨が店頭に出てきたリ、季節を感じることもあります。暑い暑いと言っても、朝晩だったり、日蔭で感じるひんやりで秋の気配を感じると、毎年のように、ホッとすると同時に、夏も終わるのかと思ったりもします。 昔はそんなことがなかったはずの、手を洗う水を出しっぱなしにして、トイレから出てきたリ、モノをなくしたりすると、自分にも確実に秋や冬が近づいていると思います。気にしすぎると、萎縮してしまうのではと思いますが、同じようなことが続いたり、指摘されると、考え込んでしまいます。 普通にできることがどんなに大切なことかを実感する機会が増えています。立ち上がるとき、確か、昔はもっとすっとできたのではとか、どっこいしょとかけ声で、自分を鼓舞しなくても良かったのではと思ったりもします。自分の秋を積極的に探したりして、滅入っても仕方ありません。 春夏秋冬、好きな季節ってありますが、ずっと、次の季節は必ず来ると思っても、あと何回来るのかなというフェーズに入ったのも確かです。自分だけは違うと思いたいですが、たぶん、そうはならないでしょう。当たり前のことですが。ということで、季節の移り変わりを素直に受け止め、楽しむようにしたいですね。 |
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今日も思いつくまま・・2016年8月29日(月)
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ソウルの地下鉄の中で、路線図を眺めていた時に、韓国語で話しかけられたリ、成田空港で、同じように韓国語で話しかけられ、日本語はもちろん、英語でもまるきり、会話が出来ず、茫然としたり、30年近く前、初めて行った香港の地元らしい店で、中国語のメニューが皆目わからず、あきらめたことがありました。 スマホでの自動翻訳機能も、だいぶ改善されはしていますが、万全というわけにはいきません。外国旅行はまだまだ、緊張の連続。東京で、外国人に話しかけられたら、どうしようかという気持ち、海外で7年生活をしたあとも、変わりはありませんでした。慣れと度胸で、切り抜けるしかありません。 歯医者さんでの、診療方針説明や、スポーツや芸能など、共通知がないと絶対にわからない会話など、ニューヨークで本当に困った時もありましたが、日常生活では、なんとかなるというのが正直なところ、身振り手振りを活用したり、知っている単語を並べることで、意思疎通が出来るということがわかりました。 一番邪魔なのは、見得や外聞。下手だと思われようと、話が通じれば良いということで、恥をかくことを恐れなければ、なんとかなります。いくら、TOEICの成績が良くても、話の中身に知性、教養、知識がないと、会話になりません。何はともあれ、相手にわかってもらおうという熱意が必要だと思います。 それでも、外国人として生活をすることは簡単ではありません。とりわけ、役所や銀行などでの手続き、交通機関の使い方や切符の買い方など、マニュアルがあっても、おっかなびっくりで試してみることには変わりなしです。ニューヨークに住んで困ったのと同じように、日本での外国人、困ったことがたくさんありそうです。 日本で通じるのは日本語だけです。外国人来日客の増加にともない、英語や中国語、韓国語表示が少しづつ増えていますが、まだまだです。まして、一定時期以上定住しようとか、全国を回ろうと思うと、余計に大変です。そんな外国人が困った時のサイトを、多言語で、タウンページの中に用意したいと思っています。簡単ではありませんが。 |
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今日も思いつくまま・・2016年8月22日(月)
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今年もニューヨークに行きました。年一回、帰任してから13年、ほぼ毎年里帰りをしています。最初のころは、ミュージカルを見たり、美術館めぐりをしたり、レンタカーを借りて、郊外にドライブしたりなどもしましたが、ここ数年は、ホテルをベースに散歩中心、リゾート型滞在になっています。 片道13時間ほどかけて、飛行機で行くのなら、あれもしたい、これもしたい、7年間住んだ街をたっぷり味わいたいと思い、ニューヨーク州の運転免許も維持したままにしていましたが、今は、窓の外はニューヨーク、という生活を満喫しています。今年は、猛暑だったので、外に出る時間も減りました。 20年前に、着任した際、すでにバブル期のようジャパンアズナンバーワンではありませんでしたが、まだまだ、怖さの残るニューヨークやアメリカにくらべ、日本はうらやましがられる存在。ニューヨーク・マンハッタンのランドマーク、ロックフェラーセンターを三菱地所が購入するなど、勢いが残っていました。 日本車や、家電製品の高品質は高く評価され、ニューヨークの駐在員も多く、マンハッタンの中心部を歩くと、日本人を見かけるのが当たり前という感じでした。その後、進んだ、アジアへの経営資源シフト、現地幹部の登用、日本そのものの勢いの減退などで、様子が変わりつつあることを実感します。 今年も、猛暑のなかではありましたが、散歩に出かけましたが、日本語を話しているような人に会うことがまれでした。昔からあって、なんとか残っている和食レストランも、どことなく元気がありません。アメリカ人がほとんどの、新しいイメージの和食レストランが増えているようです。 バブル期のジャパンアズナンバーワンの方が普通ではない、一過性だったのかも知れません。日本らしさを活かし、アメリカにとって、良いパートナーになれるような関係が良いと思います。背伸びをしても、無理なことは無理だと思います。毎年、元気で、気持ちよくニューヨークで散歩することができればと思っています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年8月15日(月)
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もう、20年近く前、民営化したとは言っても、一社だったころのNTT。不祥事を起こした会社とは、一定期間取引をしない、入札への参加を停止していました。コンプライアンスの面では当たり前かもしれませんが、NTTにも、その後、いろいろな事件があり、自治体や官庁への入札停止にあうことになりました。現場では結構困ったことになります。 悪いこと、世間で糾弾されるようなことをすれば、当たり前と言えば、その通りですが、その割に、最近不正経理を起こした、大手電機メーカーや、東京電力をめぐっては、さほどの制裁がかかっている様子は見えません。少しづつ、物事を測るメジャーが変わっているのかも知れません。弾力的になって、良かったとはとても言えません。 談合とかで問題が発覚した建設会社などへの、入札参加停止をいち早く決め、報道発表とするという姿勢を非難はできませんし、かばい合うことになってしまってはいけないと思いますが、正義感を振りかざすような決断を公表しておいて、自分のところは、大丈夫かなと心配になったのも事実です。その後、心配した通りのことが何回も起こりました。 フォルクスワーゲンのディーゼルエンジン不正の際、日本の口コミに書かれた、不正をする会社は許せないから、不買運動をという論調にも違和感を感じました。何か問題が生じると、すべてが悪い、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」のことわざ通り、すべて許さないというという姿勢と、共通点があるのかも知れません。口コミの嫌な面です。 仲間の不正には甘くても、仲間の枠を超えていないと認められなければ、すべて許さないと平気で言えることの怖さなのではと思ってしまいます。レッテルを貼られるとどうにもなりません。そこには、多様性、ダイバーシティへの尊重など、何もない、ヒステリックな分類しかないのではと不安になります。 今日、8月15日は、第2次世界大戦が日本の降伏により、終了してから71年。15年前の9月11日、ニューヨークで経験した、9.11事件を契機に、いろいろなことが起こっています。その10年ほど前には米ソの冷戦が終了し、ベルリンの壁がなくなりましたが、それ以上に大きな変化が身の回りに起こるかも知れません。思い過ごしであれば良いのですが。 |
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今日も思いつくまま・・2016年8月8日(月)
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20年ほど前、リオデジャネイロに行ったことがあります。5日金曜日から始まったオリンピックの関係で流れる映像で、ここ行ったことがあるとか、見たことがあるという場所も映ります。カーニバルの季節はブラジルの冬、行ったのはこちらの秋だったので、リオでは春になります。地球の反対側、遠いところです。 宿舎が未完成とか、住めないというニュースや、蚊に刺されるとジカ熱という伝染病の危険があるとか、治安の問題など、心配をすればキリがないリオデジャネイロですが、大都市が抱える暗部だと思えば、安全を謳い文句にしている東京でも、危険な犯罪もあり、程度問題かなという気がします。 行った時も、歯をみがく時はミネラルウォーターを使えとか、交差点でクルマが止まっても、窓を開けるな、しっかりロックしておけと注意され、地下鉄に乗りたいという話をしたら、自殺行為と同じだから、やめとけと言われました。世界的に有名な、コパカバーナやイパネマの海岸を歩く時にも、時計したり、きれいな靴を履いていくなと言われました。 理由は、きれいな海岸には、強盗がうようよしていて、手や足ごと、強奪されるという話でした。途中寄ったパリからリオデジャネイロに向かう、エアフランスのCAから注意されたので、驚きました。きれいな海岸や、有名なコルコバードの丘、水道橋を渡る電車など、見ている分には最高でしたが、散歩には向いていない街でした。 街の裏側にあるリスクを考えないと、魅力的な景色、陽気な住民など、世界の観光地だったのだと思います。幸い、注意を守り、海岸を歩く時にも、午前中の安全な時間に、何も持たずに少し歩いただけ。それでも、きれいで広い砂浜、さすがという感じがしました。無事、ホテルに戻った時には、ホッとしましたが。 オリンピック・パラリンピックを開催することになったから、安全になったとは言えないみたいです。むしろ、世界中から集まる大勢の人を当てにして、犯罪のプロも集まっているのでしょう。警備だけで防げるとは思いませんし、テロの危険は以前より増えてはいますが、魅力的な街であることには間違いありません。もう一度行ってみたいとは思います。 |
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今日も思いつくまま・・2016年8月1日(月)
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7月30日土曜日は、土用の丑の日。大昔、平賀源内が、夏に売れない鰻屋さんのキャッチフレーズで、土用の丑の日に鰻を食べると、夏負けしないというというコピーを作ったら、と伝えられていますが、最近は、吉野家などの牛丼店でも、鰻の蒲焼をメニューにして、土用の丑の日商戦は過熱状態。 年に何回か、ごちそう鰻重を食べに行く、神田のお店も、普段と違って、大行列。数年前、鰻の稚魚、シラスが不足しているということで、鰻の値段が上がり、常軌を逸した水準になっても、季節ごとの旬が大好きな日本人。同じように、行列ができていました。今年もすごかったのではと思います。7月になったら、近づきません。 吉野家の鰻重を食べたことがあります。しっかり焼かれた鰻の蒲焼が、1枚から3枚。さすがに3枚の鰻重になると、吉野家でも、結構高い値段になります。鰻を食べたいというニーズにあったメニュー。どういう方針かわかりませんが、最近は吉野家の鰻重を食べられる時期が長くなっているようです。 土用の丑の日にあわせて、大量の鰻の蒲焼を準備するためには、絶滅危惧種になっている鰻には大変なことのようです。日本鰻やそれに近い親戚の鰻だけでなく、全世界から集めるので、皮に歯ごたえのある鰻も養殖され、趣の異なった、鰻重になります。吉野家の鰻もたぶん、そんな種かなと思いました。蒲焼としてはまあまあでした。 江戸時代から、日本人は評判や、口コミなどに左右されやすかったという証左だったのかも知れません。売れない時期だったということは、一番おいしい時期だったのではないでしょう。初鰹も、珍しい時期に食べるということで、早いうち、初物で食べることに意義を見出したのでしょうか。 十分に熟す前の、若いうちに食べてしまうということは、西洋料理でも、仔牛とか、仔羊とか、あるので、日本の専売特許ではありませんが、一日(たまには二日になりますが。)のために、世界中から絶滅種となっている鰻を集めるのは、やりすぎのようです。大好きなごちそう鰻、今は我慢の時期、9月には食べたいですね。 |
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今日も思いつくまま・・2016年7月25日(月)
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少し前のこと、6月末に、高知市へ行きました。時間の関係で余裕があったので、普通に使う飛行機ではなく、列車で行くことにしました。新幹線で岡山乗り換えです。6時間かかります。羽田空港への時間、高知空港から市内へのアクセスにもよりますが、飛行機にはかないません。 飛行機がぜいたくだったころ、瀬戸大橋がなく、宇高連絡船で宇野、高松で乗り換えても、メインルートは列車。新幹線も時間がかかったので、8時間とか9時間かかったのではと思います。飛行機だったら、アメリカ西海岸までと同じくらいです。 ということで、実用的な移動手段としての優位性はありません。ちょうど良い接続時間ののぞみが、遅れたこともあり、乗り換え客も少なく、ガラガラでした。幸い、ゆとりを持って乗り換える予定だったので、無事に高知行のアンパンマン列車、南風7号に乗れました。 ゆとりを持ったのぞみも遅れたので、余裕はなく、岡山駅で食べようと思っていたうどんを駅弁に変更しましたが、ガラガラの1号車グリーン車、2人しか乗っていなかったので、一番前の席で、思う存分、先頭車を満喫し、ワクワクしました。 瀬戸大橋をわたり、琴平駅を過ぎると、山のなか、勾配とカーブの連続、吉野川沿いに、阿波池田、大歩危(おおぼけ)と泊まり、高知駅手前の土佐山田から、普通の景色になるまでは、振り子式ディーゼルターボの底力を十二分に発揮し、最高120キロ、迫力満点でした。 単に揺れるだけとも言えますし、ジェットコースターに乗っているわけではないので、ということですが、乗っているだけで楽しかったというのが感想です。かなり、無理はありそうですが、土讃線特急をエンタテインメントにできないか、鉄道を使った、高知への誘客、考える価値がありそうです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年7月18日(月)
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5月以来の3連休。18日月曜日は海の日。今年から、8月11日が山の日だそうです。ただでさえ多い、日本の祝日。これで、祝日のない月は、6月だけになりました。5月に連休があり、7月からは夏休み突入だし、6月に株主総会をやる会社も多いので、祝日なしでも構わないように思います。 3連休の初日。タウンページ京都市版の表紙で、昨年からお世話になっている、祇園祭山鉾連合会を訪問することにしました。最初のきっかけは、京都の象徴、祇園祭関係のコンテンツを、来年も使うことになりそうなので、まだ、見ていない祇園祭をチラと見てみてみたいと思ったことです。 いつもの通り、一人で行って、適当に見物をしようと思ったのですが、会社の人に、いつ、どこが良いのかと聞いたのが、いけませんでした。いつもなら、徹底的に断るのですが、由緒正しいお祭りなので、詳しい人の話を聞きながらの方が効率的かなと思い、喜んで好意を受けることにしました。 ということで、せっかくだから、お世話になっている、連合会の事務局にあいさつをした方が良いという話になり、せっかく行くのだから、それもそうだなということで、短パンにサンダルの軽装から、ビジネスカジュアルくらいの服装かなと思い、結局、上着をはおったクールビズ、つまり、いつもと同じにしました。 おかげ様で、連合会事務局のご厚意で、16日宵山と呼ばれる3日間の最後の日の午前中、含蓄のある話を伺いながら、山鉾の上に乗らせてもらったり、普通では見えない角度から、価値のある文物を見せてもらうことができ、祇園祭初体験にもかかわらず、中身の濃い見物をすることができました。 500年以上前から、記録に残っている祇園祭。戦国時代、明治維新、太平洋戦争後や、火災などの困難を乗り越え、京に住む人々が自分たちの祇園祭として、守り、発展させたということを聞きながらの見物、鉾や山、装飾品などの持つ歴史の重さを痛感し、興味深い経験をした半日。午前中の早い時間は、比較的涼しかったので、助かりました。 |
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今日も思いつくまま・・2016年7月11日(月)
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10日の日曜日に出かけるので、前日、期日前投票に行ってきました。確か、区議会議員選挙の時に期日前投票をしたので、2回目です。今回の選挙から、18歳以上が投票権を持つことになりますが、ずっと昔、20歳になってから、海外にいた期間以外は、皆勤賞だったのではと思いますが、自信はありません。 前日の昼だったので、期日前投票所は混んでいるかなと思いましたが、さほどではなく、理由を記す紙に書いて、係員に渡すと、順番に投票用紙をもらうことになります。当日と違うのは、今回みたいに、参議院地方区、比例区とわかれている2枚を一度に渡されて、記入し、別々の投票箱に入れることです。 黄色と白の投票用紙なので、間違えないようにはなっていますが、確認をすればするほど、大丈夫かなと不安になることも確かです。海外旅行などで、長期間留守をする時、鍵をかけたかどうか不安になり、戻って確認したり、実家に電話をして、見に行ってもらったこともあります。 特に、ネットで申請したり、ホテルを予約する時、きちんと書いて、なおかつ、最後に確認画面が出てくるのですが、大丈夫だったか、不安になることがあります。事実、パスワードを規定回数以上間違えたり、根本的なところで、誤記載をしてしまい、申請がブロックされたり、拒否されたりという経験もあります。 それにくらべ、期日前投票は、アナログ方式そのもので、パソコンで参照しながら、投票所入場券を投票用紙と交換するという当日よりも人力に頼っているように感じました。そもそも、本人確認をしないので、投票所入場券さえあれば、大丈夫なのではと思ってしまいます。住所も入っているし。 選挙に不正はないという前提で、信用していましたが、なりすましは大丈夫かと、ネットでの話題を見ると心配になります。免許証とか、写真付き証明書を見せる必要はありません。そんなことを、期日前投票をしたあとに考えました。選挙権が18歳以上になった今回の参議院選挙、どんな結果になるのでしょうか。 |
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今日も思いつくまま・・2016年7月4日(月)
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防災タウンページを発行することになってから、自治体へ訪問して、知事や市長に面会する機会が増えました。先週は、北海道と四国、日程の関係で、月曜日に函館、木曜日に高知へ日帰りをしました。訪問時間の関係で、前後に多少余裕があったので、函館からは、北海道新幹線で戻り、高知へは早朝の新幹線に乗りました。 3月に開通した北海道新幹線、実は前回、函館市を訪問した際にも、飛行機の時間の関係もあり、帰りに在来線の特急と、新青森乗り換えの東北新幹線に乗り、東京に向かいました。長いという実感でしたが、もうじきなくなる青函トンネル経由の特急、お名残り乗車でした。 今回は、新函館北斗駅から4時間15分ほど、以前、渡島大野という寂しい駅が新幹線の出発点。新青森も似たようなものでしたが、周辺には何もなく、売店やレストランも少ない駅でした。構内に市場みたいな店があり、生鮮品や調理品を試食しながら買える新青森駅をうらやましく思うくらいでした。 函館市内からは、在来線に乗って、乗り換えて、4時間半から5時間。4時間を切ると新幹線が飛行機に勝てると言われていますが、確かにビジネス客は少なく、熟年夫婦を中心に、観光客主体でした。開通して数か月、団体も多く、指定券も取りにくい状況が続いているようですが、ブームのあと、心配ではあります。 28年前、瀬戸大橋開通後、ちょうど、国鉄民営化でJR四国が発足した直後の勢いもあって、賑わっていた四国、岡山乗り換え、高知行の特急、南風はガラガラでした。接続する新幹線が下関近辺での停電のため、遅れていたという特殊事情もありましたが、それだけでもなさそうでした。 四国に入り、琴平を越えると、雑木林の間、狭いトンネル、カーブばかりの単線を、よく揺れる振り子式ディーゼルターボエンジンの特急が、最高120キロで走り、場所によってはジェットコースターみたいでした。経営のきびしいJR北海道と同じく、JR四国も大変みたいです。乗っているだけで楽しい土讃線、試す価値ありです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年6月27日(月)
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英国のEUからの離脱、国民投票での決定なので、戦前日本の国際連盟脱退とは違うものの、大変なことにならなければと思ってしまいました。EUに従属するのではなく、強い英国を求めたのかも知れません。日本では参議院選挙、7月10日投票に向け、選挙運動がスタート。いろいろなことがあっても、今の政権が続きそうな事前調査が出始めました。 より強固な政権になり、憲法改正も自主的にできるようになるか、引き続き、連立政権だったり、他党と組まないと出来ないかということになるかが、興味の範囲になりそうですが、強い日本を求めている国民が多いのではと感じます。確かに、弱いより、強い方が良さそうです。日本だけでなく、英国もアメリカでも、同じだと思います。 1996年にニューヨークへ着任した時には、ジャパンアズナンバーワンに多少陰りはあったものの、ニューヨークの富の象徴、ロックフェラーを日本企業が買ったり、映画会社が日本資本になったりなど、グローバルに活動する日本企業の全盛時代だったように思います。バブルは終わったものの、金余りの日本だった時代です。 確かに、強い日本を感じることは気持ち良いことです。マンハッタンの中心部に、ソニーのショールームや、高島屋ニューヨーク店、紀伊国屋書店、旭屋書店や、増えていく日本食レストランなどがあるのを見ると、強い国日本を実感することが出来ました。アニメや、日本のレストランチェーンの進出など、まだまだ、増殖している部分もあります。 21世紀になって進むことになった、日本企業のグローバル化。非正規社員の増加、給与の減少、終身雇用の減少みたいな、制度面での変化が、団塊世代の高齢化による老齢人口の急速な増加とがあわさり、日本を追いかけ、追い越す国が多かったことで、日本は強いという信念がいつの間にか、消えることになりました。 円安になり、雇用環境も改善されているという数値になっていますが、正規社員になれない若者の増加や、中間層の貧困化、非婚化など、くらしの不安は増えているようです。日本が強くなれば、事態は改善されると思う人が増えるのも仕方ありません。日本を強くすると言わない勢力を否定することが効果的。こんなことを思ってしまいました。 |
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今日も思いつくまま・・2016年6月20日(月)
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ニューヨークに住んでいた10年以上前のこと、日本から来る女性が、着物でやって来るという連絡があり、緊張しました。マンハッタンの街を日本の着物で歩くと目立って大変なのではと心配したのですが。特に、ジロジロ見られたり、話しかけられることもなく、何もありませんでした。 考えてみれば、人種のるつぼと言われているニューヨーク。いろいろな国の人が、なかには、民族衣装を着て、普通に歩いているのですから、特段、珍しいということもなく、何事もなく、すれ違うということになるのだと思います。日本の着物ということで自意識が過剰になったのだと思います。 マンハッタンでの、日本人に対する関心は、成田空港に着いたばかりの外国人が日本に対して、持っている興味などとはまるきり違うものなのでしょう。成田空港でのインタビューで番組を作ると、すべての外国人が日本に強い関心を持っているのだと、錯覚してしまいます。日本が一番という感覚ですよね。 確かに、クールジャパンの象徴であるマンガ本売り場が、マンハッタンの有名書店の2階フロアいっぱいに拡張されたのを見ると、日本文化への関心が高いと思ってしまいますが。マンガ本が日本文化なのかと思われているかとか、少なくとも、関心のあるのはマンガ本であって、日本人ではなさそうです。 たぶん、アメリカ人にとっては、日本人、韓国人、中国人など、モンゴリアンの区別などつきません。というか、われわれでも外見だけでは無理だし、語感の似ている韓国語だと、交差点で隣にいても、ジッと聞かないと日本人ではないということに気づきません。 歌舞伎、着物、茶道、華道、禅、能楽など、庶民が触れることが少なくなっている日本文化に対して持っている高級なイメージや、マンガ本やアニメ、キャラクターに代表されるクールジャパンも、こちらが思っているほど、日本に対する印象にはなっていないと思います。外国に住んだから、気づいたのかも知れませんね。 |
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今日も思いつくまま・・2016年6月13日(月)
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60才になると、そろそろ、リタイアする人が出てきます。大学時代の人たちと会う機会が増えています。忙しい時間を過ごしてきましたが、時間に余裕も出てきて、会合に遅れる人が減るばかりか、集合時間が早くなり、早めに終わるようになりました。現役ではなくなるとは、こういうものだったと気づきます。 大人になるまでの、長い長い期間を超えると、時間が急に早くなったように思いました。一方で、こんな日が永遠に続くのではと思っていたのが、そうではありませんでした。太古の昔から同じで、当たり前のことですが、自分だけは永遠にと思っていたかったということかもしれません。 20代前半までの伸び盛り期間を過ぎ、最初に、年齢を感じる、つまり、少しづつ下り坂にさしかかったのかなと実感したことは、白髪を一本見つけた時でした。宴会で夜更かししていたころ、トイレの鏡で見つけた白髪、照明がハイライトのようになって、ショックでした。 それと、大丈夫だった、夜更かし、徹夜が、つらく感じた時。宴会など、遊んでいる時は、まだまだ元気いっぱいでしたが、仕事で日付変更線を超えた時の疲労感。以前だったら、連続しても大丈夫だったのが、以前とは違うなと感じた時、こちらも、平気ではありませんでした。年を取るって、こういうことだなと。 そのうち、徐々に、そんな変化と上手に付き合えるようになり、時間の流れの速さと合わせられるようになったのかも知れません。50才を超えるころまでは、さほどの変化、なかったように思います。43才から7年間、ニューヨークで生活するという予想外のイベントがあったので、余計でした。好奇心は時間を止める効果があるみたいでした。 60才を超えると、そろそろ、実感しなければいけないよと言われているようなことが次々と起こります。100才超えの人が多くなったとは言え、一般な寿命は90才前まで。折り返し点はとうの昔に超え、最終コーナーに差し掛かっているので。速度をゆるめ、時間とゆったり、付き合いたいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年6月6日(月)
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大昔、広報担当をしていたころの話。すべての記者がそうではありませんでしたが、初めて取材を受ける記者の中には、頭の中でストーリーが出来ていて、どう説明しても、聞いてくれず、自分に都合の良いところだけをいただき、というか、言葉尻をとらえるという経験をしました。 一方で、日頃、接触している記者などのマスコミ関係者は、次第にお互いの立場を理解することになります。掲載は少し待ってというお願いをしたことや、逆に真意はこういうことだからと、報道しないことを条件に普通では話をしないようなことまで、説明をすることもあり、懇意にしているとはこういうことだという感じです。 接待をして、都合の良いような記事や内容にしてもらえるかというと、そうでもありません。さすがに、そこまで堕落はしている人は少なく、中には、絶対に接待を受けず、割り勘という記者も結構いたという記憶もあります。割り勘だとこちらも自費になるので、続くと、財布が軽くなってしまいます。 都合の悪い記事を止めろと言われることもありました。最初のころは、どうしようかと悩みましたが、慣れてくると、止めても良いですが、そうなると、止めたいという事実自体で、この話の重みをはかられ、その上、メディアを変えて、尾鰭背ビレがついて、ドロドロした記事になるかも知れませんと言って、出ても仕方ないと、納得してもらったこともあります。 学習したことの一つが、等価交換だということ、こちらから、何かを出さないと、先方も出してこないということです。接待が効果的ではないことや、むやみに止めたりすると、条件も悪くなります。こんなことをやっていると、相手の出方を見ながら、交渉するということに慣れてきます。 もう一つ大事なことは、苦し紛れに、嘘をついてはいけないということ。本当のことだけで交渉しなければなりません。100%言わないで、少しだけ、説明を減らすとか、工夫はしますが、嘘で説明をすると、そのこと自体が意味を持ってしまいます。正直に本当のことを言って、納得してもらうということです。簡単ではありませんでした。 |
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今日も思いつくまま・・2016年5月30日(月)
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モバイルスイカを愛用しています。昨年までは、ガラケーで使っていましたが、今はスマホ。JR東海・西日本の新幹線エクスプレス予約でも使えるので、新函館北斗から博多までモバイルスイカです。もっとも、互換性がないので、東京駅では、一旦、新幹線エリアから在来線エリアに出なければなりません。 在来線では、新幹線のように、指定券を取れるのはホンの一部だけですし、九州新幹線はカバーしていません。一度、便利を味わってしまうと、オールマイティで使えるようにしてほしいと願っています。スマホを落とすと大変ですが、便利なものは便利、飛行機もチケットレスなので、切符を持つとなくさないかと不安です。 新幹線の指定券は割引になり、割引率も自由席より高いので、チケット屋で購入するより安くなります。簡単で安い上、使ったクレジットカードのポイントも貯まるので、二重にお得。特に、JR東日本のビュースイカカードはポイント還元率が高いと言われていますので、余計です。 東海道新幹線は、この3月のダイヤ改正まで、入札時に出てくる切符みたいなカードを使って検札をしていましたが、JR東日本は、入札時に何も出ず、指定された座席がどこか、スマホで確認しなければいけませんでしたが、ずいぶん前に、検札をやめています。その代り、受け取りという操作をしないと使えません。 受け取りという操作、当日にしないと入札できないなど、やや面倒です。おまけに、先日、受け取り操作をしているときに、トラブルが発生し、モバイルスイカアプリがフリーズしてしまいました。復旧しようと思っても、グルグル回るだけで、結果としては、あとでもう一度操作をしてくださいとなってしまいます。 受け取り前に代々木駅でトラブルになった際は、朝7時に自然復旧し、無事受け取ることが出来ましたが、受け取り後に発生したトラブルでは、スマホの節電モードをオフにして再起動した結果OKでした。どちらの際も、JR東日本の係員が親切に対応してくれましたが、便利なものの不便を、身を持って体験する結果になりました。 |
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今日も思いつくまま・・2016年5月23日(月)
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緑が一番あざやかな季節。行楽地に行かなくても、街の緑を目にしながら、歩くだけで気持ちよくなります。首都高速道路中央環状線のトンネル工事が終わった、山手通りに数年前植樹された街路樹が、それらしくなってきました。しばらく経つと、見上げるほどのケヤキ並木の甲州街道みたいになるのかも知れません。 横浜に勤務をしているとき、みなとみらいに緑が少ないと感じました。横浜駅から歩くルートには全く街路樹がなく、開発途上だったこともあり、ギラギラとした夏、寒風吹きすさぶ冬など、楽しく歩けませんでした。緑があれば、多少はマシになるのではと思いました。 工場跡地や、埋め立て地だったので、土質が緑にふさわしくないという事情もあったようです。造成時に植樹した街路樹も、土壌がよくないために、立ち枯れをしたり、発育しなかったりと、いろいろな問題が発生し、いつまで経っても、開発途上という感じのままでした。 そんなところで仕事をしていると、街路樹があったら良いな、緑がもっと目に入ったら良いなと思いました。実は、それまでそんなことはただの一度も思ったことがありません。造園や園芸に興味があったわけでもなく、花や木の名前にも詳しいどころか、ほとんどわかりませんでした。 だから、ここで勉強をしたということもなく、今でも知識レベルは低いままですが、横浜市役所に行って、事情を説明したり、横浜経済界の何人かに同意をしてもらって、みなとみらいに緑を増やそう、街路樹を増やそうという活動を始めました。横浜市では、NTT東日本の支店長だから会ってはみたものの、クレーマーと思われたようです。 みなとみらいの道の清掃の継続や、独自に緑の調査をしたり、市長、副市長への説明をした結果、横浜経済界の影響力で、横浜市の事業として、街路樹植樹など、みなとみらい緑化をすすめることになりました。数年経って、行ったら、その効果を実感することが出来ました。今年の緑もあざやかだと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2016年5月16日(月)
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東京都内にも、防災タウンページ付きの新タウンページ紙版の配達が始まりました。このあと、防災タウンページアプリが今夏にリリースされることになります。まずは、今回、配達中の地区だけでスタートし、いずれは全国に拡大することを計画しています。捨てられず、本紙、別冊ともどもの開封、よろしくお願いします。 以前は、NTTの固定電話を持っている住宅や、事業所だけに配っていました。1985(昭和60)年電電公社の民営化後に実現した、電話の自由化で、NTTの固定電話独占ではなくなり、電話帳が配られない住宅や、事業所があるということになりました。30年近く前のことです。 他社への電話移行が始まっても、NTT固定電話のピークは自由化後の2000年ころになります。シェアは減少しても、市場自体が拡大をした結果だと思います。携帯電話、インターネットの急激で本格的な増加が目立つようになるのは、21世紀になってからのことです。 電話帳はその厚さが、電話帳みたいということで形容詞化されました。しょっちゅう使うわけではない、無用の長物というイメージが強くなりつつあったのかも知れません。それでも、他社電話になった会社も、電話帳掲載用に、NTT回線を残すなど、まだまだ、存在感があった時期です。 その後は、他社に移行しても、電話番号を変えなくてすむようになった結果、NTT固定電話を持たない、住宅や事業所が急速に増加し、電話帳配達率も低下してしまいました。その対策として、電話帳の持つくらしや仕事のガイドブック、行政情報が掲載されているということを活用し、すべての住宅や事業所への配達を開始しました。 去年からは、手渡しして古い電話帳を回収することを基本にした方法から、ポスティング方式で配るようにしました。東京23区タウンページ大変身は今回が2年目、今年からは、23区全体での大変身、開封し、別冊、本紙ともに一読、せめて一瞥していただき、便利で役立つになってほしいと期待しているところです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年5月9日(月)
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ボランティアのみなさんが熊本や大分に入り、連続大地震で崩壊した家屋の片づけや、避難所での支援、手伝いをしてくれています。防災タウンページの関係で連携をしている防災ガールのみなさんが行くということで、少しばかりですが、寄付をしました。まだまだ、地震が続いているようです。 防災タウンページを発想したのは、甲府の雪でした、100年ぶりの大雪で、中央本線や中央高速道路が数日間ストップしてしまったことで、甲府市版タウンページの別冊付録として出そうとしていた冊子が一気にハイライトを浴びることになり、甲府市と一緒に、コンパクト版別冊として発行しました。 専門家の先生に監修をしてもらった、災害、防災の基礎知識、阪神・淡路大震災や、東日本大震災の際の体験談を掲載し、さらに、避難所や、公衆電話をプロットした地域の地図をコンテンツにして作成しました。少しではありましたが、広告もとり、別冊付録として発行しました。 幸い、市役所からも、利用者のみなさんからも好評でした。東日本大震災から3年と少しでしたが、そろそろ、経験も風化しているのではという時期でした。東京新宿の家電量販店の防災用品売り場の品数の少なさ、誰もいない売り場、防災意識が高いとは言えなかったと思います。 全国に拡大しようと思い、発行することにした自治体と接触をしたところ、甲府市同様、歓迎をしてくれました。ある市の危機監理監(部長クラス)から、この話のおかげで、市長が防災への関心を高め、話を聞いてくれるという話もありました。また、中身をチェックし、厳しい指摘をもらい、潜在的な関心の高さを痛感しました。 防災タウンページが備えだけの存在であれば、良かったのですが、熊本市版が役に立つことになりました。被災をした会社の人に聞くと、いざとなると、まだまだ、足りないことや、不完全なことも多いという指摘がありました。いつ起こるかわからない災害、少しでも役立つよう、防災タウンページ、進化を続けたいと思っています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年5月2日(月)
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熊本・大分の大地震、直下型ということになるのか、家屋の全壊や半壊が多く、また、家屋が無事でも、家財道具が壊れたということです。100人くらいしかいない、会社の従業員の中でも、このような話を聞きます。仮設住宅の建設が始まったとのこと、落ち着くのは時間がかかりそうです。 東京でも、どこでも、いつ大地震が起こっても不思議ではないと言われる日本列島、モノを持つことのリスクが多いことをあらためて感じました。とはいえ、便利な生活、豊かな生活のために、増えていったモノ、そうそう簡単に処分するわけにはいきません。難しいところです。 高度成長期のように、人口も増え、次々に便利で魅力的な新製品が出現することで、国も、会社も、個人も、成長していくような時代ではなくなり、貧富の格差、中流家庭の崩壊と言われていますが、モノは減りません。故障したり、陳腐化したりで、修理や買い替える必要が出てきます。 壊れたら、そのままでも良い場合がありますが、台所にあるコンロやレンジ類、湯沸かし器、トイレや風呂、流し台や配管などの水道設備や、日常使っている電気器具は、壊れた途端に、困ってしまいます。ペット同様、手間をかけないといけないモノ、身の回りにこんなになるのかと、がく然としたことがあります。 これらに共通なのが、家の中、部屋の中に、入ってもらわないとならないということです。通販で大型液晶テレビや、冷蔵庫を買って、玄関に置いたまま、配達した人が帰ってしまうという話も聞きます。据え付けは別途注文というケースもあるようです。まして、配管修理など、作業員が部屋に入らないと始まりません。 検討しているのは、このような業者と連携し、受付代行を行い、何かトラブルが生じた際の対応もするというサービスです。他にも例がありますが、保守的なブランドだということを活用し、生活全般の「困った」について、まとめて受け付けて、最後まで責任を持って手配し、安心・安全な作業を提供できれば、ビジネスになりそうですが。どうでしょうか。 |
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今日も思いつくまま・・2016年4月25日(月)
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14日木曜日の夜に始まった、熊本や大分の強い地震がなかなかおさまりません。最初の地震から本震と言われている次の大きな地震まで、静かな時間があったこともあり、おさまっても不安は消えず、震源が少しづつ広がっていることもあり、安心できません。九州新幹線の運転再開など、良いニュースもありますが。 19日火曜日、もともと、福岡に出張する予定にしていたのですが、クルマで行けるということだったので、熊本市中心の北側にある会社のオフィスを訪問しました。援助とかの邪魔にならないように、余震があったらどうしようかなどと、懸念もありましたが、途中で引き返すことにして、福岡空港から高速道路に。 不通区間になる最後の出口の一つ前の菊水インターで降り、メインの国道ではなく、普段は地元しか通らない裏道を通り、少しの渋滞はあったものの、2時間ほどで到着。今回の大地震が局地的に強かったことがわかるように、行程のほとんどは、地震があったことを感じさせませんでした。 それでも、熊本市内に近づくにつれ、屋根瓦が落ち、ブルーシートで補修している家が見られるようになりましたが、印象は瓦屋根の立派な家が多いということでした。本震と言われる大地震から、すでに3日、スーパー、コンビニも徐々に復活し、熊本ブランドの弁当屋さんも開いていました。 本震の震源地だった、益城町の映像でも気づきましたが、耐震を考慮したあたらしい工法で建った家は壊れていないようです。一階の店がくの字になっている3階建ての古いビルの横に、何事もなかったように建っている、古い家もあり、少しの違いで、被害の大小があるようです。 熊本城周辺や、益城町の震源地のように、集中して地震のエネルギーが最大化したところもあり、一方で、並んでいる2軒のうち、片方だけが壊れているというケースもあるようです。行った日には、オフィスに避難をしていた従業員や家族のみなさんも、いつ揺れるかと思うと、こわくて屋内にいられないということでした。少し落ち着きましたが、不安が続きます。 |
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今日も思いつくまま・・2016年4月18日(月)
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15年前の9月11日、NYでのあの事件から3週間、当時NTTアメリカに勤務していた私のプライベートブログが、ヤフーの網にひっかり、アクセス数が激増してい
るので、リンクをしてほしいという話がありました。意味もよくわかりませんでしたし、10月になってからはアクセス急減で、立ち消えてしまいました。 オフィスから、数キロ先で起こっている惨事を、目の当たりにした経験でしたが、その後、10年後には、東日本大震災。広島にいたので、震度5になった東京の地震を体感はしていませんでしたが、当日の飛行機はすべて欠航、翌日一番の便で戻りました。信じられないことでした。 そして、5年後の先週木曜日の夜、その日の午前中に東京へいくために使った熊本空港のある益城町で、震度7の地震。熊本市内でも、震度6にもなる大揺れがありました。その後に続く地震で、家屋の崩壊、橋や道路の崩落など、水や電気、通信のライフラインも止まり、大変なことになっています。 通常は、大きな地震のあと、余震を繰り返しながら、次第に治まり、3日後くらいから、復旧作業が本格化することになるのですが、今回は、最初の地震から24時間以上後に、より大きな地震が起こり、それまでの地震で緩んだ地盤や、弱った家屋により大きなダメージがありました。 大きな地震が続くと、防災タウンページで用意した、避難所マップ上の建物内避難所ではなく、屋外やクルマの中で過ごさなければならない方も多く、その後に降った雨のこともあり、熊本オフィスや工場で働いている関係会社の従業員をはじめ、住民のみなさんが経験している不安と恐怖の時間、心配です。 ここまで、大きな連続地震になると、防災タウンページの限界も痛感しますが、今回の地震でわかったことや、広がるリスクをきちんと取り入れ、毎年発行時の進化、準備中のネット対応など、出来る限りのことをしていきたいと思っています。何より、少しでも連続地震が治まることを願っています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年4月11日(月)
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タウンページ話の続きです。先日、総務省が固定電話の今後についての検討を進めるという話が報道されていました。固定電話の電話番号簿としての事業を続けてきたタウンページにとって、大きな影響がありそうですが、固定電話の歴史がそろそろおしまいではと思わなければならないようです。 携帯電話の普及で、独身や単身赴任の人が、固定電話をひかなくなって10年以上経過しています。大昔は、固定電話の番号がないと信用されないという感じでしたが、最近では、予約時に聞かれるのは、携帯電話の番号が当たり前。そんな中、固定電話に頼っては、事業が持続できないと考えるのが自然だと思います。 今の4倍以上の広告売り上げがあったころの、コスト構造や、仕事のやり方のままでは、固定費がかかってたまりません。簡単ではありませんでしたが、少しづつ一緒にやっていこうと言ってくれる人もあらわれ、タウンページのイメージチェンジや、配達方法の変更など、チャレンジもできるようになりました。 固定費も着実に減少し、少しづつでも効果があらわれると、社内外での理解も徐々に得られるようにはなりました。それでも、ここ2年半の間、売り上げ、利益ともにピークだった2000年ころから、ずっと減少し続けているという、負のスパイラルは止まりませんでした。 そこで、社内に強調したのは、利用してもらっているみなさんの利便性の向上、使い勝手を良くしようということと、広告を出していただいているみなさんの商売繁盛にどう貢献するかです。大阪のオフィスで作っていた、商売繁盛のぼりを見て、着目しました。当たり前のことですが、わかりやすい言葉です。 この2大方針を前面に出し、地域とくらしのメディアとして、安心・安全のセーフティネットになりたいと言い続けています。これに、固定費削減の地道な努力、営業フロント力を高めるための、人材シフトを続けることで、今年度初めてたてることのできた、売り上げ減少、利益減少ストップの事業計画が、絵に描いた餅にならないようにと念じています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年4月4日(月)
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固定電話の電話帳として登場してから100年以上。携帯電話の普及、インターネットの普及などなどで、電話帳が使われなくなってから、だいぶ経過しています。そこで、考えたのが、行政情報やくらしの情報、防災タウンページを付録につけ、イメージチェンジをしたタウンページ。 地域とくらしのメディアとして、すべての住宅、事業所に全戸配布することにしました。NTT固定電話がなくても、配ることにしたため、固定電話を持っているというお客様情報を持ち出さず、ポスティング方式で配り、配達後に、ランダムサンプリングで配達確認とお客様満足度調査を兼ねた電話をかけることにしました。 そんななかで、わかったのは、郵便ポストのない家があることや、いろいろな会社が同居しているビルなどへのポスティングノウハウが簡単ではないことなど。毎年、すべての住戸・事業所にお届けして得られるノウハウやコネクション、貴重なビジネスチャンスになるかも知れませんね。 インターネット版のタウンページ、iタウンページも、現在地や目的地周辺検索、あいまいな通称などでの検索など、使いやすくし、4月からスタートしています。東京都港区版だけですが、英語版、外国人が困った時に役立つコンテンツのiタウンページも試行スタートしました。 自画自賛すると、そこそこに使いやすくなっているように思っていますが、そうなると、ここをもっと便利にできるのではとか、もう少し配慮すれば、とか、欲がどんどん出てきます。利用者からの要望や意見、批判を積極的にお聞きし、意外に便利なiタウンページにしたいと思っています。 大手検索エンジンには勝てませんが、地域やジャンルを絞ると、使いやすいデータベースになりたいと思っています。iタウンページはSEO、つまり、検索しやすい、検索結果で出やすくなったと言われたいと期待しています。まだまだですが、タウンページ新年度がスタートしました。よろしくお願いします。 |
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今日も思いつくまま・・2016年3月28日(月)
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去年入院してから、28日(月)でちょうど一年です。今年はうるう年でしたから、366日経過したということです。桜の咲くころに入院し、散ったころに退院したので、去年の桜満開期は、病院の窓から眺めただけでした。クスリを飲み、血圧などを定期的に図るなど、一病息災が続いています。 入院前に感じた、階段や坂道を上った時の、呼吸困難もなく、入院時に院長回診で言われたように、きちんと言うことを聞いていたので、元の生活に戻れたようです。それでも、無理をしないように心がけた一年でした。早朝出発、深夜帰宅の出張日程を取らないようにしています。 去年、入院が一週間でも遅れたら、どうなっていたかわからないと言われました。ずいぶん、粘りましたねとも言われ、本人には、そこまでの自覚はありませんでしたが、結構、やばい状況だったようです。幸い、休養、静養、節制が一番の治療法で、手術などは必要なしでした。 年齢から考えると、昔であれば、最終コーナーに差し掛かり、何があってもおかしくはないとは思いますが、この年齢の平均余命までには20年以上あり、日本人らしい考えだと、もう少し人並みにはと思います。大学も、会社も同期で亡くなった人がいないという記録も続いていますし。 それでも、はやりの終活も考えなければと思うようにはなっています。まず、最初は、就職状態ではなくなったときに何をしようかということがあります。今と同じようなペースでの仕事は、長くてもあと2年くらいかなと思っています。そのあとのことは、あまり悩まないことにしたいものです。 それと、お金や、モノの処分、パソコンやスマホのパスワードや情報など、入っている保険や、クレジットカードその他、いつかやろうと思って、放ってあることが多々あります。年賀状用の住所録もです。今のところ、老後の就活最大のイベントは身の回りの整理。いつでもできることって、なかなか、始まりません。 |
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今日も思いつくまま・・2016年3月21日(月)
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風邪をひくと、以前より治りが遅くなったように感じます。去年、入院したこともあり、このまま、治らないので、風邪ではなくて、別の病気なのではと、少しばかり不安になります。風邪ひきプロセスがいつもと同じだなと思っても、ついつい、どこか違うかなと疑ってしまうこともありです。 これから、つまり、老後の不安は、お金と健康。テレビでも、老後破たんや、介護系の話は注目率が高いらしく、これでもかこれでもかと不安をあおってくれます。いつ病気になるかという不安とセットになると、話題としては、ますます効果的、この手の記事が掲載されている雑誌や本も売れるようです。 ピンピンコロリということで、元気で暮らし、突然死をするのが理想だとは思いますが、それはそれで、準備も出来ずに、あっという間の出来事で大丈夫かなと心配にもなります。などと、考えると、当然のことながら、きりがありません。永遠に心配が続くということになります。 野村不動産の広告で、小さな家に住み替えて、余ったお金で、世界一周をというプレゼンテーションを、夫が妻にして、感激してもらうと筋書のがありますが、空き家増加の今、そんなにうまく転売できるのかとも思います。安心できる層があるのも確かですから、フィクションではありません。 保育園に落ちたということで、いろいろな話題が出ていますが、右肩上がりで経済が成長していた昔と異なり、すべての年代で、不安がいっぱいであることは確かです。貧富の格差も拡大し、世界一周クルーズみたいな高額商品が売れる反面、安さだけがマーケティングの武器になっています。 健康の面では、物理的なこともあり、ある程度仕方ありません。それでも、相応の治療はしたいと思うのが普通です。お金面での不安が減れば、貯めこむだけでなく、一番貯蓄の多い、団塊の世代より上の層が消費をし、結果として、経済活動が活性化するのではと思うのですが。不安じゃ、使いませんよね。 |
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今日も思いつくまま・・2016年3月14日(月)
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ゼロ金利が話題になっています。住宅ローン金利が低くなったことで、借り換えが増えたりなど、金銭支出や消費にとって、プラスになるような影響も出ているようですが、将来に対する不安とか、消費税、その他もろもろ、気持ちよく、財布のひもを緩めるということにはなりそうにありません。 銀行にとって、日銀に預けるためには手数料を支払わなければならないという事態は初めてでしょうが、アメリカでの経験、確か、普通預金の残高が3000ドル、つまり約30万円以下とか、一定金額以下になると、口座維持手数料がとられるというもの。 銀行に預けるということは、金利がつくというのが常識。資金需要が高く、高金利時代だと、定期預金を数年預けるだけで、倍になるということも夢ではありませんでした。それが、預金口座の種類は違うものの、手数料をとられるということで驚いた記憶があります。 それと、不思議だったのは、アカウントサマリー、取引状況を記した書類の書き方。預金と借金が合計して記されていました。つまり、銀行に取っては、単純に預けるというか、預金を維持しているだけでなく、借金として運用させてくれるのが上客。 確かめたわけではありませんが、クレジットカードも、買い物用に使い、永年、きちんと期日までに支払っていたら、ある日クレジットカード会社から、退会してくれという通知が来たという話があります。カードローンを使ってもらって、商売になるということだったみたいです。 ゼロ金利で、売れるのが自宅に現金を置いておくための金庫では、お金が回りません。銀行は手数料をさらに高くするなど、収入を増やしていかないといけないということになりそうです。住宅ローン借り換えも手数料がかかります。額面だけでなく、ネットで損得を考えた方が良さそうですが、簡単ではなさそうですね。 |
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今日も思いつくまま・・2016年3月7日(月)
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一病息災になって1年。昨年、心臓の不調で入院したのは、桜が咲き始めた3月末でした。その後、毎日、血圧と体重をはかり、降圧剤などを服用していますが、先日のエコー検査で、劇的に改善と言われ、クスリの量も減り、朝晩服用が朝だけになりました。少しづつ増えている体重をチェックですが。 体重で気づいたことですが、夜、食べ過ぎたなとか、太ったなと思っても、朝はかると1キロくらい減っているということがありました。そこで、大丈夫と安心していると、300グラムくらいしか減っていないこともあり、ウェイトオーバーを実感することもあります。 今まで、気にしていなかった基礎代謝。聞くところによると若いときは2キロくらい減ることもあるということです。ならば、1キロ減るってのは、大したものだと思い、満足しましたが、持続、継続するというわけにはいかないので、徐々に増えているという今の状態が続いています。 気がついたのは、睡眠。週末に二度寝をして、2,3時間後に再度計測をすると、数百グラムは減っているということ。休養とリラックスは、代謝を促進するようです。普段が早起きなので、前夜に宴会があると、どうしても睡眠時間が減るので、代謝しなくなってしまうようです。 ということで、長い間置いてあるだけだった、体重計が大活躍。日に何回も計測しています。途中で、デジタル体重計にしたところ、見方によって微妙に都合の良い数値となるアナログ式と異なり、数字が出てきてしまうので、500グラムほど体重が増えました。自分に甘いということを痛感しました。 血圧計も同じ、旅行用の手首計測方式との併用ですが、20年近く前に購入し、ニューヨークにも持参しながら、ほぼ使わなかった血圧計復活です。耐用年数とか考えると、血圧計としては、すでに寿命を迎えたとは思いますが、まだまだ、現役です。最近は、クスリの効果もあり、高い数値が出にくくなっています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年2月29日(月)
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政府の方針に反するような放送をしたテレビ局の免許をはく奪したいという大臣の発言がありましたが、マスコミは大騒ぎせず、というか、騒ぐと、そうなることを恐れているのか、何も起こりません。ごまめの歯ぎしりのように、聞こえないところでゴチャゴチャ批判しているだけのようです。 大昔、広報担当をしていた時、気に入らないとか、出ると困るような記事、ニュースが出ないようにしたいという幹部の話がありました。広告費をたくさん出しているのだから、圧力がかかるだろうという理屈です。傲慢な感じがしますが、そう言いたいという気持ち、わからないわけではありません。 そんな時には、抑えることは可能だと思いますが、その手のニュースは、抑えの聞かないメディアとか、あるいは、尾鰭背鰭など、おまけがついて、より悪影響になることもありますよと言うと、多くの場合、仕方ないなということになりましたが、出るところがなければ、何でもOKです。 マスコミは、社会の木鐸として、権力に媚びることなく、正しいことを報道する使命があるということ、なるほどなとは思いますが、戦前、政府の弱腰を批判し、断固戦えという論調もあったようです。つまり、読者が喜ぶ、買ってくれるような報道が出やすいということも否定できないと思います。 選挙の結果、選出された議員の中から選ばれた大臣が運営する政府ですから、国民に託されていると言えないこともありません。だから、何をしても良いということにはならないと思いますが、読者の意志と合って、次の選挙で勝てば、民意を代表すると言われても、何も反論できないのも事実です。 右肩上がりの時代が過ぎ、将来への希望があいまいになっている今、弱腰でない、強気の国が求められているのかも知れません。別の意味で、どうにもならない閉塞感を感じてしまいます。海外で批判されればされるほど、強気になり、お山の大将化が進むのではと、できるのは心配だけです。 |
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今日も思いつくまま・・2016年2月22日(月)
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2月中旬の銀座、爆買いのみなさんであふれていました。中国の旧正月休暇に合わせ、日本での買い物ツアー。外貨流出になるので、中国政府も制限したいという話でしたが、勢いは衰えていないようでした。大昔、日本人の買い物ツアーも結構盛んでしたが、人口の多さには敵いません。 品質の良さとか、ブランド品が安いとか、日本で買い物したくなる理由がたくさんあるのは、こちらとしてはありがたく、デパートも大切なお客様。通訳サービスや、銀聯の利用など、便宜をはかったところが先行しているようです。爆買いが続くことが日本経済にプラスになっています。 それでも、パリや香港にくらべ、来日数の絶対値は低く、人口当たりの来日数では比べ物にならないとのことです。グローバル化が進めば、もっと多くの外国人が街を歩き、まして、日本人の従業員が集まらない、介護や建設労働などに、移民をという話になれば、余計です。 グローバル化の話は別として、ここで注目したいのは、中国人のみなさんが、旅費をかけて、日本でブランド品や高い商品を買っていってくれるということです。安さで考えれば、たぶん、中国で売っている中国商品を買うと方が安いでしょうし、最近のメイドインチャイナの品質向上を考えれば、品物も良くなっているのではと思います。 ランチパスポートという本があります。そこに掲載されている店で、お値打ちランチがワンコインで食べられるという本で、結構いろいろなところで売られ、人気になっています。タダで配布とか、安いというと、ついつい並んでみたいという心理や、お得感、よくわかります。 が、一方で、爆買いのように、コストをかけても、買いたいものがあるということです。品質や安心、ブランド(これも品質や安心の象徴かもしれません。あわせて優越感とか誇りでしょうか。)を買いたいという気持ち、こちらもわかります。でなけば、高級レストランも成り立ちません。爆買いから学ぶマーケティングの基本ではないかと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2016年2月15日(月)
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昨年春の入院以来、毎日測っている血圧。最高血圧の理想、120以下に似ていた水準になって、びっくりしたガソリンの値段、ついに100円台になっています。クルマの燃費が劇的に改善していることもあり、大昔の石油ショックで高騰したころに比べると、物価水準なども考えると、実質的には半額以下。 こちらも大昔というか、30年以上前、当時の通産省に出向し、中東担当の仕事をしていたころ、21世紀になると、石油資源が枯渇し、代替エネルギーの時代になると言われていました。その説によれば、今頃は、まったく違う光景があったのかも知れません。 もっとも、石油掘削関連技術が進めば、見つからなかった油田が見つかるなど、需要と供給のバランスや、技術進歩で、まだまだ、地球から掘れるという話もありました。省エネ技術で、石油そのものの需要にも変化があったことなど、いろいろな事情で、今のようになっているのかも知れません。 そのころ、セブンシスターズと呼ばれた欧米の大手石油会社だけが持てた石油利権を、中東の国が取り戻したいという動きが出始め、もともと、安定していなかった中東情勢がきな臭さを増し、世界の火薬庫と言われるようになってしまいました。今でも、安定とはほど遠い状態ではあります。 明治維新から150年。遠い昔ではありません。そのころと今との変化を考えると、今の状況が永遠に続くと考える方が無理なのかもしれません。大国が植民地を持って、世界を分割してころだって、そんなに昔ではありません。中東に国家という概念が定着してるとは言えないと思います。 一回、ユニセフに寄付すると、ダイレクトメールがしょっちゅう来ます。富の偏在が強まっている今、寄付できる人は寄付すべきということ、なるほどですが、富が偏在するという事実そのものに無理があるのかも知れません。安いにこしたことはありませんが、ガソリンの値段で、こんなことを考えました。 |
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今日も思いつくまま・・2016年2月8日(月)
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マイナス金利が話題になっています。市中銀行が日銀にお金を預ける際、利息がつく代わりに、手数料をとるということです。日銀に預けるのではなく、企業や個人への貸し出しを増やすようにというのが目的だそうです。思惑通りにいくか疑問です。消費増税、老後資金を考えると、財布の紐を緩めるのは簡単ではなさそうです。 ニューヨークで、銀行から送ってきた取引状況レポート、不思議に思ったのは、預金とローンを合わせた金額が取引総額になっていること。預金とローンは真逆で、ローン総額が預金総額以内であれば、預金の一時流用、それ以上は、借金というマイナスのイメージを持っていたのですが。 銀行にとっては、預けるだけのお客では、運用先を探さなければならないことになり、ローンを借りてもらえば、利息を払ってもらうことで、資金を運用してくれることになります。預かるお金が活性化するためにも、貸すお金と合わせた総額に銀行が関心を持つことだったようです。 アメリカでローンを組んだことはありませんでしたが、クレジットカードの会員が、買い物に使うだけで、リボルビング払いやカードローンを使って、カード会社から借金をせずに、長い間、支払期限に遅れない有料会員だったところ、カード会社から、退会を求められたという話を聞きました。 銀行預金でも、ある一定限度の金額以下になると、預金保手数料を取られることにはなっていました。スイスの秘密厳守銀行など、預けらる資格も厳しく、当然のことのように手数料を取られるという話を聞いたことがあります。手数料を取られたくなかったら、株や、債券など、投資をするということなのだと思います。 リスクなしに、安全に保管してもらいながら、高い利息がつき、元本を保障してもらえるというサービスを誰でも受けられた昔の日本が、珍しい存在だったのかも知れません。それにしても、今の定期預金金利の低い利息、お金を貯めることの難しさを実感します。この先、どうなるのでしょうね。 |
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今日も思いつくまま・・2016年2月1日(月)
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先々週月曜日の東京、結構な雪でしたが、先週の日曜日、愛媛県の雪も大変なものでした。25日月曜日の朝、松山で仕事があるので、日曜日に前泊をする予定でした。最近は早朝からの出張を避けていますが、札幌、金沢、広島、松山オフィスに朝9時到着には前泊が必要です。 24日日曜日の松山地方の予報は雪、早々と飛行機も欠航などの恐れありという連絡。ということで、異例ですが、前々泊をすることにしました。幸い、飛行機も、ホテルも予約でき、雪などまるで降りそうにない土曜日、何事もなく松山着、平穏そのものでした。 日曜日には予定なし、朝起きて、松山も雪なし。予報では午後にはと言っていました。寒さは厳しく、外へ出た途端、しまったと思うくらいでしたが、午前中、雪が降りそうではありませんでした。雪が降り始めたと報道されている南予の宇和島に行ってみようかと思いました。 30年近く前、松山勤務時代何回か行った宇和島、予讃線から見える瀬戸内海のやさしい雪景色、なかなか魅力的でした。寝坊して、出かけたのは11時過ぎ。ホームの寒さもなかなか、風も強くなり、南予で雪が降っていることを実感しましたが、列車遅れの掲示もなく、特急宇和海、自由席に並びました。 そのうち、実は折り返しの列車が遅れているというアナウンス。松山からの岡山・高松行特急は宇和島からの列車到着を待たずに発車。10分以上遅れて到着し、同じように遅れて宇和島に向かい、発車しました。遅れを取り戻すかのように、勢いの良い走りで松山発、伊予市までは何もありませんでした。 トンネルを抜けた途端に雪景色。竹にぶつかって急停車したり、八幡浜以降、普通列車が運休というアナウンスがあり、途中で断念、雪景色、大雪で吹雪の八幡浜から、普通列車、遅れていた特急と乗り継ぎ、雪のない松山に無事戻りました。瀬戸内海の雪までたどり着きませんでしたが、南予の雪、静謐でなかなかでした。 |
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今日も思いつくまま・・2016年1月25日(月)
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先週月曜日の雪。東京都心で6センチほど。水気の多い雪だったので、降るそばからビチョビチョ。気をつけて歩いても、靴下がぬれてしまいました。こんな時に強い大江戸線と、雪に強い靴のおかげで、いつも通りに出勤をしました。少し、空いているなというくらいでした。 休みにした学校もあったようですが、東京23区では警報になっていないこともあり、全面休校ではなかったようです。会社からも、どうしようという話もなく、ニュースでも、電車が動いているということで、早めに出た方が良いという内容で、出勤することが前提でした。 定時になっても、出勤者が少なく、電車が遅れているのかな程度に思っていたのですが、あとで聞いたら、いろいろなところでとんでもない状況になり、雪の出勤残酷物語そのものだったようです。傾いた電車、入場制限された駅への長蛇の列、普段の何倍もかかる通勤時間などです。 駅に入れない、間引いているので電車が来ない、来ても乗れない、乗っても動かない、動いても駅ではないところで止まり、いつまで経っても着かない、という状況だったようです。本当にご苦労様でした。早めに出て、オフィスに着いたのは昼近くという人があちこちに発生していたみたいです。 そんな思いで通勤しなくても、出勤をやめたらどうかと思うのですが、自分の判断でやめるわけにもいかず、会社として、来なくても良いと指令を出していないし、ひょっとすると出す立場にある人も来ていなかったのかも知れません。危機管理とは何だったのかなと思ってしまいます。 責任者である私が、こんなことを言っては、無責任もはなはだしい感じはしますが、組織の危機管理には、平時に強く、緊急時には機能しないという特徴があるのかも知れません。何かあると、通信が集中して、命綱の携帯電話がつながりにくくなってしまいことと同じです。 延々と並んで待ち、時間をかけて出勤しようとすることが使命だと思っているわけではないと思いますが、国会に遅れた防衛省職員が処分されたという話を聞くと、あれあれという感じです。もう少し肩の力を抜いて、出来ることをやるという気持ちになった方が危機管理できるのかも知れません。ちょっと怖い思いをした、23区の雪でした。 |
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今日も思いつくまま・・2016年1月18日(月)
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今のアパートに住むようになって12年余り。アパートの理事会でも、大規模修繕をどうするかという話がスタートしました。そろそろ、いろいろなところが痛み始めています。湯沸かし器、エアコン、テレビや、ウォシュレットなどなど、一斉に取り替え時期になりそうです。 12年前、入居したころは、35世帯に24台設置された駐車場が満杯。2台目を希望しても、NGという状態が続いていましたが、いつの頃からか、空きスペースが増え、ここのところ、8台から9台空いています。駐車場料金を住宅の管理費に充当しているので、事態は深刻です。 10年ひと昔を実感します。取り替え時期が近いという信号を時折発信してくれる各機器の寿命も、7年から10年と言われています。まだまだ、そんなに傷んでいないし、デザイン的にも現行製品に近いので、たまに、調子が悪くなっても、まだまだ使えると思いたいのは山々です。 これらの機器がすべて、取り替えということになると、7ケタのお金が必要になります。順次、不調になってくれればと思いますが、なかなかそうはいきません。すでに具合が悪くなっても、今のところ、修理や調整で、なんとか生きながらえていますが、いつ何時かと思うと安心できません。 以前、このアパートに引っ越す前、引っ越し日程を相談していたころ、寒さが厳しくなった時期、エアコンが2台、一緒に動かなくなり、あわてて、電気ストーブを買ったことがあります。今のところ、引っ越す予定などありませんが、大事にしなておかないと、機器にも意思があるのかも知れません。 いつ、取り替えということになっても良いように、何を買うか、どこで買うか、予算はどのくらいかを皮算用することにしました。なるべく安く、済ませたいとは思うものの、アパートの自室内での作業にもなりますので、最安値でなくても、安心できるところにお願いしたいとは思いますが、新年早々から難問です。 |
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今日も思いつくまま・・2016年1月11日(月)
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興味深いことの多い、大阪。新大阪駅の新幹線ホームから下るエスカレーターは左側、つまり、東京と同じ。在来線に下りるエスカレーターや、地下鉄駅のは、右側に一列。ニューヨークと同じです。伊丹空港でも似たようなことがあり、空港内は左側、モノレール駅から右側です。 新大阪駅、伊丹空港が、大阪のゲートウエイ、このあたりに国境があるみたいです。同じ関西圏でも、京都駅では、左側に並んでいるのを現認することが多く、大阪ウェイではないようです。ということであれば、独自さをたくさん持っている大阪、魅力的な街です。 テレビのバラエティ番組の主役が、吉本興業の芸人になってから、しばらく経過しています。必ずしも、大阪出身ばかりではなく、吉本興業以外のバラエティ芸人もたくさんいるのだとは思いますが、イメージ的には、主役は大阪人、インパクトは抜群というイメージそのものです。 大阪オフィスでの会議で、指でピストルを撃つしぐさをしたら、本当にのけぞるようにしてくれました。いくら、仕事の場ではなく、大阪の身内同士だと、もっとリアクションをするのか、あるいは、大阪人ではない私からのアクションなので、反応してくれたのかはわかりませんが。 東京出身である私との会話ではなく、純粋な大阪弁を使っての会話、時折、電車の中や、喫茶店などで聞き耳を立てますが、リズミカルで、ポンポンと進み、中身がわからなくても、楽しめます。振り込め詐欺が大阪では、なかなか成功しないという話も、わかるような気がします。 この街でのタウンページ、全国統一規格版ではなく、大阪らしいタウンページに変身中です。全国的視野で考えた大阪らしさではないものにしたいと思い、大阪出身のみなさんに任せています。一回で大変身というわけにはいきませんが、何が起こるのか、ワクワクしています。 |
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今日も思いつくまま・・2016年1月4日(月)
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平成28年になりました。当時の小渕官房長官が、新年号「平成」を発表したのはついこの間と思っていますが、ずいぶん昔になってしまいました。21世紀になってからも15年。自分史で考えると、ニューヨークに赴任してから、今夏で20年。平均寿命の折り返し点を越えてから、だいぶ経ちました。 自分より少し年上の、団塊の世代の先頭が70歳を超え、シニア層が街の主役になっています。自分たちはまだまだと思っても、団塊世代との年齢差を保ったまま、確実に加齢しています。気分的には、若いままですが、あちこちにひずみが出ているのも事実、どっこいしょというかけ声が増えました。 最大の市場である団塊世代に向け、いろいろなアピールがされています。BSテレビでは、健康サプリの広告ばかりが目につきます。番組表や週刊誌の広告に、老後破たんとか、介護とか、身近になりつつあるテーマがあると、ついつい見たり、買ったりしてしまいます。 例外的な事例ではないかと疑いながらも、他人の不幸は蜜の味という側面もあり、興味がムクムクと湧き上がるのも事実です。毎日、出勤するという、すでに40年以上の習慣がなくなるまで、あとわずかです。同級生の中には、すでに完全リタイアした人も出ています。 確固たる信念があったり、リタイア後のビジョンがはっきりしているわけではありませんが、転換点は着実に近づいています。そんな中、迎えた2016年、最後の一花などと意気込まず、今までと同じに、普通にチャレンジしたいと思います。去年、入院したこともあり、余計にそう思います。 過去のことすべてを肥料にして、実のなる結果が出るようになればと思います。なかったことにしたい過去も多々ありますが、忘れてしまっては、次のステップに進めません。実人生は、サイコロの目で進む「すごろく」ではありません。もう少し自分の意志が効くように思えますが、どうでしょうか。 |
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今日も思いつくまま・・2015年12月28日(月)
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2015(平成27)年もあと少し。21世紀になって生まれた子供も早生まれが中学生。そのころ、何をしていたのかな、何歳だったのかなと思うと、ついこの間のよう。時間の変化がどんどん加速しているようです。23年ぶりに入院した今年、加齢をしっかり感じることになりました。 一病息災で、毎日体重をはかり、朝晩の血圧測定。いくつかのクスリを飲んでいます。食事も減塩に気をつけ、歩くのは今まで通り。一年前、緩い坂道を上がったり、階段を上ったりすると、動悸がして、しばらく休まずにいられなかった、救心というクスリの広告みたいなこともなくなりました。 徹夜で、仕事をしたり、遊んだりしても、何とも思わず、せいぜい、少し眠いなと思うだけで済んだのは20歳代。良く仕事をし、よく遊んだ時期でした。お酒を大量に飲めるわけではありませんが、それでも、12時過ぎの終電やタクシー帰り、夜明けまでということも平気でした。 30歳代中盤になって気がついたのは、何かトラブルがあって、仕事で深夜までオフィスに残った時の疲れが昔と違い、翌日に残ったり、休日に動けなかったりということでした。それでも、オフの時は別。ずいぶんと遅い時間まで、はしごをしたこともあります。ちょうど、バブルのころ、世の中もそうでした。 60歳代になっても、お酒が好きで、夜中まで飲んでいる人を見ると、うらやましいな、自分は少し弱ったのかなと思うこともありますが、宴会がなく、たまに早く帰宅したり、週末になると、ガックリと疲れを感じたりすると、年齢を意識した方が良さそうだと、体が信号を出してくれているようです。 ピンピンころりと都合良く、事が運ぶとは思いませんが、体調と上手に付き合った方が良さそうです。それと、好奇心、身だしなみ、歩くことなどの適度な運動に心がけたいと思います。無理をせず、ストレスを発散できるようにしたいと思います。来年秋には64歳になります。 |
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今日も思いつくまま・・2015年12月21日(月)
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ニューヨークに転勤してから、来年になると20年。そのあと、7年住むことになるのですが、あっという間のことのように思います。もっとも、ここのところ、毎年、里帰りということで、空気を感じるために、13時間飛行機に乗って行っているのですから、行って良かったということになります。 ニューヨークで良いなと思うのは、いろいろな人がいる、まさにダイバーシティの街だということ。知らない人同士でも、気楽にハローと笑顔であいさつをし、次の人のためにドアをおさえるということが普通だということです。気持ちよく、一日を過ごすことが可能です。 深いところでは、われわれが入ることや、見ることのできない世界があり、異人であるわれわれに対する差別があるのではと推察できることもありましたが、普通に街を歩いている限りにおいては、快適でした。お互い、知らないどうしでも、そこにある街という社会を共有していることを実感できました。 安全になったとはいえ、いつ、危険が来るかもしれないという緊張感もあり、気が抜けません。まわりは英語ばかりなので余計です。どうしても、周囲に気を配るということになり、ボーっとしていては歩けません。歩行者のプロなのかもしれません。歩きスマホも、心なし、少ないようにも思えます。 日本に戻ってくると、本当にホッとします。まわりは日本語、安心します。ニューヨークでの経験、交差点で聞こえてくる話し声が日本語かなと思って、耳をすますと、韓国語。ハングルはさっぱりわかりませんが、語感はそっくり、何回も日本語と思ったことがあります。 嫌だなと思うことは、知らない人どうしあいさつをしなかったり、ドアをおさえていると、次々とお礼もなしに通られ、ドアマンになってしまうことなど。戻って、時間が経過すると、気になることが増えます。1か0ということってないのだなと実感します。いろんなことがある、これがダイバーシティの基本かもしれませんね。 |
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今日も思いつくまま・・2015年12月14日(月)
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四国、松山で勤務したのは、25年ほど前。ちょうど、瀬戸大橋が開通した年から2年半でした。同じころに、青函トンネルも開通し、日本列島が鉄道でつながった年でした。連絡船を使わずに、岡山で新幹線に乗り継げるようになったことで、観光客も激増しました。 四国の高速道路も、まだ短く、今の四国中央市、川之江のあたりだけで、まだまだ、鉄道での移動に優位性があり、瀬戸大橋の道路通行料金が高いことや、鉄道が岡山で新幹線に直結したこともあり、民営化して間もない、JR四国も積極策を取って、輸送力増強を行っていました。 松山から、特に遠かったのは徳島。一番早いのは、大阪伊丹空港で飛行機乗り換え。クルマだとほとんど一般道路で順調に走っても5時間くらいかかったのではと思います。四国4県から集まって会議をするのは、飛行機が飛んでいる大阪か、東京だと言われたほど、四国4県はまだまだ、遠い存在でした。 あれから25年。先週、大阪から徳島に行きました。明石海峡大橋、鳴門大橋を通り、淡路島を抜けて、バスで3時間弱。すでに伊丹空港からの空の便はなく、和歌山港からの高速船もなくなっていました。飛行機のある東京の方が近いというのは、笑い話にもなりません。 四国4県も高速道路で結ばれ、鉄道の乗客も減少しているようです。予讃線が今治のところで遠回りをするため、松山高松間など、バスにかなわないようです。徳島大阪も、岡山周りの鉄道に競争力はなく、事実、使おうと思っても、乗り継ぎが良いという感じではありません。 徳島県のスローガンは、vs東京。東京が気になる存在の徳島県になろうということだそうです。地域の応援団、タウンページとして、県民の安心・安全、地域とくらしのメディアになりたいと思っています。元気な徳島をアピールするための中期計画、阿波踊りだけでない、徳島勝手連でやりたいと思っています。 |
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今日も思いつくまま・・2015年12月7日(月)
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早いもので12月。今年の年賀状、どうするかを悩む時期になってしまいました。数年前から、還暦を迎えて年賀状をやめますというハガキが届きはじめ、自分でもどうしようかなと思ったのですが、結局、還暦を3年過ぎても、止めずにいます。今年も印刷を頼みました。 それでも、最盛期というか、一番多かった時期には、600枚くらい出した記憶がありますが、ここ数年、印刷するのは300枚です。足りない分は、コンビニや郵便局で買って出しています。去年は、コンビニの品ぞろえが少なく、郵便局のキティちゃん年賀状も使いました。 メインの印刷年賀状にくらべ、返事に出すキティ年賀状の方が自筆の部分が多くなります。最近、珍しくなった私信のやりとりです。昨年は、そろそろ、書かなければという年末に風邪をひき、年内に出したのは、100枚にもなりませんでした。おまけにプリンターとの相性が悪く、宛名は手書きでした。 前年、住所録の整備をしなければと思うのですが、いつの間にか12月になってしまいます。ワープロが普及した結果、手書きでは、渡辺さんで良かったのが、渡邊さんと渡邉さんの違いに気を使うことになっています。それを手書きにすると、結構大変なことでした。 携帯電話や、ナビゲーションなどの普及で、電話番号や住所をきちんと覚えたり、書いたりすることが減っています。年賀状でも、パソコン内の住所録の印刷だけになると、あまり気にする必要はありません。手書きの時のように、住所と名前を書くときに相手をイメージするという感じではありません。 プリンターとの相性を改善し、自動印刷機能を享受し、ひとことに力を入れたいとは思っていますが、去年いただいた年賀状を見ながら、手書きで宛名を書くという、昔の方法も良いかなとは思っていますが、まだ決めていません。仕上がった印刷年賀はがきを受け取ってから、考えることにします。まだ、何日かあります。 |
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今日も思いつくまま・・2015年11月30日(月)
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意外なところで、戦争の兆候が現実になっています。シリアに向けて飛行した、ロシアの飛行機が警告なしに、トルコに撃墜されたという事件が起こりました。領空侵犯だから仕方ないと、トルコは主張しているようですが、警告をしたかどうかも論点になっています。双方の食い違いです。 トルコはシリアの隣なので、シリアを支援しようとしているロシアの立場と異なっているということもありますが、シリア内部の問題、イスラム国という存在でもめている中、このような2国間の紛争が起こるとは思えない感じがします。日本近海でも同じようなことが起こる可能性があるということかもしれません。 ロシアは、トルコとの通商や通行を制限するなど、両国は紛争状態になっているようで、心配です。占領前の日本にしたいというのが政権の方針だとすると、日本も、積極的にトルコのように、領空侵犯機を撃墜するということが現実になるかもしれず、心配です。 こんな時には、威勢の良い主張になりがちですし、政権を批判したマスコミに対する対応などを考えると、弱腰と言われないのが基本方針になりそうです。終戦から70年、自分の生きているうちには、きな臭くならないかなと安心していましたが、ひょっとすると、何が起こるかわかりません。 一方で、銀座にもっと大きな中国系家電量販店が開店したり、横浜中華街にも出来るそうですし、引き続き、外国人来日者が増えているようです。それでも、香港やパリと比較をすると、まだまだ少ないようです。いろいろな面で外国人とどう付き合うか、悩みが大きくなっています。 自宅の近所で、ガイドブックを見て迷っている外国人のほとんどが、自宅近くにある刀剣美術館を探す人たちです。切符の買い方、街の表示、住所や通りの名前の付け方、などなど、来日外国人目線ではありません。「おもてなし」以前にいろいろな問題がありそうです。片方に紛争のリスクもあり、時間に余裕はなさそうです。 |
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今日も思いつくまま・・2015年11月23日(月)
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このところ、イメージチェンジをしたタウンページの発刊、防災タウンページ別冊ふろくの件で、発刊式や贈呈式という名目で、地方自治体を訪問し、市長や幹部に会う機会が増えています。タウンページはNTT東西会社が発行しているので、ほとんどの場合、地元の支店長と一緒です。 固定電話の電話番号簿としてスタートして120年以上。20世紀から21世紀に変わるころから、携帯電話やインターネットの急成長で、固定電話が急速に減少したことにともなって、電話帳も減少しています。そこで、固定電話の電話帳という性格から、地域とくらしのメディアとしての生き残りをはかろうとしています。 地域とくらしの情報として、生活者視線で、自治体情報と民間の情報をミックスし、防災関係記事のさわりを外に出し、避難所や公衆電話マップをつけ、防災タウンページとして別冊付録につけ、固定電話のあるなしに関係なく、全住戸・全事業所にお届けすることにしました。 その関係で、地方自治体との良い関係が何より必要となっています。最初は市町村からでしたが、都道府県単位での防災協力関係協定締結や、観光振興などでの関係も深まっています。一緒にプレスリリースや記者会見を行うことで、思った以上に、マスコミに取り上げられ、お互いにびっくりしたこともあります。 そんな中、一部の自治体で、救急相談ダイヤル番号を設定しないところで、あるように記載したというミスを起こしてしまいました。現在、トーキーを入れるとか、おわび・訂正メールを全住戸・全事業所に配達するとか、ご迷惑を最小限にするよう、準備をし、作業にかかりました。 一方で、このような状況の中、かえって、自治体との関係が深まるところや、短かい間で、おわび・訂正メールを印刷、封入封緘し、全住戸・全事業所に配れることがわかりました。真摯に対応しながら、ピンチをチャンスにし、地域とくらしのメディアとして、みなさんのお役に立ちたいと思っているところです。反省しています。 |
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今日も思いつくまま・・2015年11月16日(月)
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パリで同時多発テロ。NYの9.11から14年余り、事態は良くなって、落ち着くどころか、混迷の度を深めているようです。結果的に理由のなかった戦争だったイラクへの攻撃からスタートして10年以上、安心して旅行できない場所は次々と増えているように思います。 NYの空港では、金属探知機を通り過ぎるだけでなく、検査官の前で、両手を上げて全身スキャンということになっています。もともと、日本と異なり、靴を履かず、上着を脱ぐことになっているのに加えての検査です。重層チェックが本当に役に立っているのか、安心できません。 9.11の時は、NYのオフィスにいたので、最初に旅客機がぶつかったワールドトレードセンターのツインビルから数キロ、途中にさえぎるようなビルや建物のなかった高層階だったので、ライブで体験してしまいました。幸い、その瞬間は見ていませんでしたが、ビルが崩壊するのはありのままに見えました。 それまでも、中東でのきな臭さは続いていました。何次にもわたる中東戦争、イラン革命、イランイラク戦争、湾岸戦争など、第2次世界大戦後、ベトナム戦争や東欧やロシアなどと同じ、紛争地域になっています。石油をめぐっての争いもあるので、余計です。 中東でも、ドバイのように、石油マネーをベースに、金融ビジネスの中心として、アラビアンナイトを体現したような大都市になって、繁栄を謳歌している場所もありますが、一方で、貧富の差も激しく、あるいは、政治・信条がイスラム教とその内部での対立と相まって、事情は複雑で理解は簡単ではありません。 ビジネスや、思想信条のため、平和な生活、平和は世界が一番と思わない人たちがいるということなど、子供のころには信じられないことでした。憲法の不戦解釈を変えようとしている日本も、関係のない島国ではなくなっています。9.11にNYで感じた恐怖、思い出さないで済めば良いのですが。 |
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今日も思いつくまま・・2015年11月9日(月)
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福井市に泊まりました。オフィスが金沢からクルマで30分くらいのところにあるので、金沢に泊まりたかったのですが、翌日が福井だったこと、金沢のホテルが高かったことで、19時に終わった立食の懇親会のあと、一番近いJRの駅まで送ってもらい、特急に乗って40分で福井に移動しました。 金沢は、新幹線開業以来、ホテルの値段が高騰しています。外国人観光客激増で、東京や大阪、京都のホテルが高くなったことに加え、新幹線効果もあるようで、開業前5000円程度で泊まれたレベルのホテルが、同じような部屋で2万円以上、しかも満室でした。多少は改装したかなと思いますが、ビックリです。 もともと、超高級だったり、特徴があって高い宿であれば、仕方ありませんが、同じ部屋が何倍にもなっていると、泊まる気になりません。ニューヨークでも同じような現象があり、あのホテルがということがありました。一流ホテルの値段は変わりませんが、常連でないと予約できません。 需要と供給ですから、繁忙時に高くなるのは仕方ありませんが、取れるときに取っておこうという姿勢を見ると、いかがなものかと思ってしまいます。供給が上回った時には、どんなに安くても泊まりたくないなという感じになります。先週の金沢、大きな国際会議もあって、余計にそう感じました。 新幹線や飛行機が一緒になったパック旅行のお得感がますます増しているようですが、出張の場合、うまく使えないことがあります。ということで、今回は、新幹線効果の及んでいない福井市に泊まりました。値段もまあまあ、地元資本のホテルも快適でしたが、金沢のような活気とは無縁でした。 福井駅で下車した記憶はありますが、街歩きは初めて。福井県で記憶にあるのは、永平寺拝観と、知人を訪ねて行った小浜市。点と線がつながりにくいところです。最近、タウンページの関係で、地方自治体訪問の機会が増えていますが、元気な街への応援団、地域とくらしのメディアになりたいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2015年11月2日(月)
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ハロウィーンが、日本で大人気。市場規模もバレンタインを上回るまでに成長したとニュースでやっていました。急成長だそうです。特に渋谷では大騒動。年々、盛大になり、今年は逮捕者まで出たということ。ネットで写真を見ると、大人のコスプレ大会。コミケなどと呼応してこうなったみたいです。 ニューヨークのハロウィーンパレードも結構にぎやかだと言われていました。いろいろな人が仮装して集まるので、犯罪の危険があり、近寄らない方が良いと言われました。7年もニューヨークにいましたが、この行事、テレビで見ただけ、一度も行きませんでした。ハロウィーンはこわい行事でした。 留学中の日本人高校生が、ハロィーンの時に、フリーズという単語がわからずに銃で撃たれて死んだという事件がアメリカであってから、そんなに時間が経っていないので余計だったのかも知れません。そんなハロウィーンがどうして、日本で大普及したのか、考えてみれば、不思議です。 アパートに住んでいたので、子供がお菓子をもらいに来るのではと、キャンディーを一杯買って待っていたのに誰も来ませんでした。いろいろな問題もあるのか、管理人に来ても良いと登録しておかなければ誰も来ないということに気づいたのは、しばらく経ってからでした。 ハロウィーン当日は、仮装して会社に来る人がいるのかなと思いましたが、誰もいませんでした。オレンジ色のカボチャが売られたり、デパートのウィンドディスプレイに登場することで、ハロウィーンを感じましたが、普通の大人が仮装するのではなく、子供中心のお祭りでした。 バレンタインも、女性から男性にチョコレートを贈るだけでなく、男性から女性にバラの花を送ったりすることもあって、花屋さんに男性が並ぶなど、日本とは違いました。何が正統かはわかりませんが、よく言えば、日本らしくアレンジをすることが上手なのかもしれません。 |
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今日も思いつくまま・・2015年10月26日(月)
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古代種だった人も、何かのきっかけで変わることがあります。きっかけは、あとで思えば、そんなに大変なことではなかったということが多いですが、共通するのは、かまってもらっていると実感することができたときに、一気に変種し、もともとの性能がよみがえるかもしれません。 思いがけず、誰かに感謝されたり、褒められたりということなどがあると、効果があります。従事しているときには、誰も気づかず、時に無視されていたことが、あとで花開き、本人が忘れたころに効果が見えるようになることもあります。そんなときには、うれしさも倍増します。 古代種だったときには、誰も気づかなかったということだと思います。周囲の環境に適応しようとするためには、そのままでは何も進まないので、変わろうという気持ちはあるのではと思います。が、どうしたら良いのかわからないとか、努力をしても、誰も見てくれないということかもしれません。 そんなとき、一番のクスリは、声をかけ、気にしているという信号を送ることなのではと思います。放っておいた方が面倒がないとしていると、じっと古代種のままになります。せっかくの人材ですから、古代種のままではなく、今に適合して動き出してほしいと思います。 もともとの性能が意外にあるなと感じたとき、古代種が久しぶりに花を咲かせようとしていることに気づくのは、うれしいことです。周囲に認められ始めていると思えると、自分の目も節穴ではなかったと、余計にうれしくなります。おまけに、このような変身は伝播するようです。 昨年も出た社内集会に出て、みなさんの顔や表情を見ると、一年前にくらべ、若返っていることに気づきました。少しですが、成果も出ています。平均年齢は立派な中年だったり、もう少し上ですが、若返る、輝いている言葉がピッタリしているのを見ると、生きているのも悪くはないなと実感します。変身した古代種、いろいろな花が咲きそうです。 |
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今日も思いつくまま・・2015年10月19日(月)
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タウンページは、1985年ごろ、電電公社民営化のころから、電話帳先進国アメリカ企業のコンサルタントの指導のもと、編集や広告販売体制を刷新し、成長軌道にのり、電話で予約やテレホンサービスなど、電話文化の成熟にしたがって、広告売り上げが年々順調に増加していきました。 ピークは1997年度。売り上げ総額が1853億円、もう少しで2000億円ということになりました。そこからは減少傾向、18年後の昨年度は約400億円、インターネット版iタウンページを入れても500億円弱。まだまだ、減少が止まりません。消滅間近状態です。 期待していたiタウンページも、過去10年徐々に広告媒体として成長してきましたが、機能的な問題や売り方の問題もあり、ここのところ、脱落が増え、純減状態となっています。そんな中、紙版、ネット版とも、減少ストップ、増収への可能性にチャレンジをしようと思っています。 紙版タウンページの、兵庫県淡路市版の広告売り上げが100%を超えました。その前の和歌山市版で、もう少しで1005というところまで行っていたので、期待をしていたのですが、チャレンジをスタートして1年余。対策を講じたタウンページの売り上げ減少が対策前より、少しだけ改善しています。 表紙は兵庫県淡路島大使の落語家桂文枝師匠と、淡路島のみなさんから募集した写真集。黄色地の黒というイエローページイメージをやめ、本文の紙も白くし、記事や索引なども利用者目線、地元中心で変え、避難所や公衆電話マップ付き防災タウンページを付録につけ、淡路市版タウンページを、固定電話を持たない住宅や事業所にも配達しました。 自治体、マスコミ、地元のみなさんとの距離を縮め、地域とくらしのメディアとして、販売体制も強化し、自信を持って販売することが出来た結果だとは思います。問題はこれから、10年以上も、継続して成功して来なかった、売り上げ減少ストップが来年度も続くかです。紙メディアの復活、奇跡を現実にしたいものです。 |
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今日も思いつくまま・・2015年10月12日(月)
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福岡には、中国人の団体が乗った大型クルーズ船が入港することが多く、いっぺんに3000人くらいが来ると、バスの手配や、ホテルの確保が間に合わないということになるそうです。そんなニュースが流れるということですが、東京ではわかりません。現地に来ないとわからないニュースって、意外に多いのかも知れません。 福岡に行く機会が増えています。部外の方々との会合だったり、イベントへの参加だったりですが、地元とのつながりを強くすることができると、いろいろなお付き合いも増えることになります。原則は地元の組織で対応してもらうのですが、こちらから行った方が良い場合もあり、来ることになります。 正味1時間半ほどの飛行時間ですから、大阪とそんなに変わるわけではありませんが、距離が長いたんりめ、当然のことながら、遠く感じます。これが沖縄になると、福岡東京間の倍くらいありますから、3時間近くかかります。東京からソウルに行くより、確実に遠くなります。 福岡は元気と言われますが、確かに、空港、博多駅、天神は賑やかです。空港からJR博多駅まで5分ほど、西鉄電車のターミナルがある繁華街天神まで10分ちょっと。都市の中心部から、こんなに近いところにある空港は、世界でも珍しく、便利です。移動が苦になりません。 おまけに、会社の福岡オフィスも天神駅から、ほぼ濡れずに行けるところにあり、階段が急で、具合の悪い時には、しんどいという欠点を除けば、こちらも便利です。けもの道を使えば、階段を上らずにたどり着けますが、車いすや乳母クルマの移動は簡単ではありません。この点は、東京の方が進んでいる感じがします。 元気な街、福岡のタウンページも、改装中です。今年の版はほどほどでしたが、来年は一気に大改装をし、元気な福岡にふさわしく、と思っています。まずは、古代種のような考えから、全員が無事脱出できるよう、外部刺激を注入中です。紙とネットを組み合わせ、何かをつかめるようにしたいと思っています。こうご期待と言えるように。 |
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今日も思いつくまま・・2015年10月5日(月)
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ゴルフが大好き、と言っても、グリーンに出るのではなく、フォルクスワーゲンゴルフ。ゴルフ2と言われる二代目に8年、ゴルフ3に年、ゴルフ5は2台持ちだったこともあり1年弱でしたが、人生最後のクルマはゴルフにしようと思って、試乗をしたり、ネットで評判をチェックしたりしています。 ゴルフのクリーンディーゼルエンジンの燃費、排ガス試験の不正が、アメリカ当局から指摘されてしまいました。燃費がカタログ値と実際にはかい離があるというのは常識だしと思っていたら、会社が燃費と排ガス関係の試験をごまかす目的でプログラムを用意したことを認めてしまいました。 大きな会社ですが、日本より、トップの個性が前面に出ているようにも思えます。上位下達の雰囲気の中、本当のことがどこかに行ってしまったのかも知れません。残念ながら、信用失墜の度合いは創造以上に大きく、このあと、何が起こってもという感じです。世界トップ間近からの大転落必至ということになりそうです。 上司の気に入るように、本当のことを言わないのは、どの組織にもあることだと思います。自分のことでも、上司に内緒にしたままのことが皆無ではありません。上司の役目のひとつには、本当のことを聞き出す、というか、言った方が良いという雰囲気をどう作るかということと、言った人間をきちんと処遇することだと思います。他人事ではありません。 昔、部下のみなさんと誠意を持って付き合い、当たり前のことですが、割り勘を支払い続けたら、半年ほど経過したあと、同じポストで仕事をした先輩の中には、割り勘を支払わないで、部下に負担させ続けた人が複数いると具体的な名前を教えてくれました。違う話ではありますが、上司にはなかなか本当のことを言いません。 フォルクスワーゲンだけでなく、どこでも起こりうる危機だと思います。生き残るためには、正確な情報をどれだけ把握することが重要です。でないと、判断することなど不可能になってしまいます。ですが、最後に乗りたいクルマはゴルフ、これは変わりません。こんな気持ちでいる多くのファンのためにも、良いクルマを作り続けてほしいと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2015年9月28日(月)
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音楽やスポーツが得意という人がうらやましいです。音楽にしても、スポーツにしても、いろいろなことを頭で処理し、耳や五感のセンサーを働かし、手足を動かすということを同時に行わないといけません。たとえば、ドラマーの手足、どうしてこんなことができるのかと感心します。もともとの才能と訓練の賜物だと思います。 文書を書くということも、いろいろなことに気配りをしなければなりません。起承転結、ストーリーのつじつま合わせ、盗作にならないような配慮などなど、文字を書くだけではありません。多元方程式をきちんと解かないと、それぞれの分野に参加することができません。何事も簡単ではないと思います。 仕事でも、役に立つと思われる人は、変化に強いとか、弾力的だとか、感が良いとか、同時にいくつかのことを処理できるとか、音楽やスポーツと同じことが求められることがあります。変化なく、同じことをやっていれば良いという時間に浸っていると、どうしても固まってしまうことになります。右肩上がりの時代には、それで良かったのかも知れません。 むしろ、余計なことをせず、前に転がってきた球を次に渡すとか、決められた役割を淡々と果たすことの方が求められていたのかも知れません。急に、変化の時代だから、自分で考えて行動しろと言われても、どうにもなりません。中学高校で6年のところ、就職してその何倍も変わらない時代を経験していれば当たり前です。頭も固くなっているはずです。 それでも、変化に対応してもらわないといけません。いらないから解雇という具合に簡単ではないし、100%変化したわけでなく、土台はそのままに、上物だけが変化しているケースが多いと思います。土台がそのままなので、当事者が変化を感じないことが往々にしてあります。残念ながら、変化を感じるセンサーが一番退化しやすいと思います。 特効薬はありませんが、外部との風通しを良くすることが大事だと思います。能動的に風に当たろうとはしないので、感じることのできそうな場を用意したり、根気よく、手を変え、品を変え、納得してもらうようにしないといけません。面倒だからと投げてしまうと、死重ばかりが増え、航行できるはずの船が沈んでしまいます。スイッチさえ見つかれば、活躍してくれるはずと信じています。 |
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今日も思いつくまま・・2015年9月21日(月)
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うれしいのは、意外なところで、活躍する人材が登場すること。管理職では問題があり、これじゃという具合だったのが、ある仕事を任せると、管理職になる前の実力が復活したのではないかと思うことがあります。正直なところ、本人もびっくりしているのかもしれません。 もう一つ、問題管理職の間は、誰も構ってくれなかったのかも知れません。久しぶりに仕事ぶりを認められることで、気持ちやしぐさに余裕が出てきて、昔の名前で出られるようになれるのだと思います。いずれにしろ、終わりよければすべて良し、成果と実績を上げることで、組織の中で認められることになります。 構ってあげないとダメというのでは、幼児のままかもしれませんし、政治家の任命責任ではありませんが、どうして管理職にしてしまったのかという問題もあります。有能な事務員を高く評価した結果、管理職にするとダメということは往々にしてあります。求められる資質が違うことに気づくのは簡単ではありません。 どこの会社でも、部下を持って仕事をしてもらう前には、管理職登用試験とか、研修とかをやりますが、理論と実践を一致させるのは簡単ではありません。部下との相性、感情的な課題や、自分を誇示するために無理をするとか、いろいろなことも積み重ねや組み合わせの結果なのだと思います。 ミッションを明確にし、定期的に話を聞いて、成果を示す場を用意することで、徐々に変化というか、化学反応が起こったことがあります。そのうち、暗かった表情が少しづつ緩んでくれば、効果ありです。久しぶりにヒットを打ったり、勝ち星先行になるかもしれません。実績を認める場を設け、構ってあげるのが一番です。 自分がどうかなと思うと、不遜な感じはしますが、組織のパワーアップには、構成をしているみなさんの力が少しでもプラスになることが一番。再生できる力を持っている人材を発掘することができれば、全体としてのパワーは確実にアップすることになります。人材復活の喜びを感じられるよう、地道な努力、続けたいと思っています。 |
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今日も思いつくまま・・2015年9月14日(月)
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今回はまとめて、流し型、待ち受け型、それと勘違い型を説明したいと思います。流し型管理職は、古代種の一種ですが、単純に事務処理を行い、たとえば、コストがかかっても、仕方ないというだけ。どうにかしようという気持ちがゼロ。このようなタイプから説明を聞くと、心臓に悪いことおびただしいです。 もちろん、計算尺でしかない人物の周辺に、そのような流し型の存在を許す上司などがいるので、まとめて腹が立つときと、本人にだけ、怒りが向くときがあります。そんな時、やっちゃいけないと思うものの、好き嫌いが出てしまいます。このような症状の場合、丹念に問題を除去していうしかありません。 このような人は、勘違い型である可能性があります。たとえば、仕事は流すだけですが、上司の荷物を持とうとしたり、必死になって先回りしてドアを開けようとすることや、食堂になど一緒に行こうものなら、大張り切り。そういう気配りを評価する上司もいるとは思いますが、いくら評価しないと信号を出し、はっきり言っても聞かないとたまりません。 もっとも、現場を見に行く時は、事前に部下が行って、いろいろな準備をするということが普通に行われていた会社では、こちらの方が当たり前。確かに、訪問しようと思うと、こちらの略歴その他、事前の勉強が尋常ではない会社もありますから、至るところに勘違いの仕事があるのかも知れません。 今回の最後が待ち受け型。流し型と似たとこともあります。要は自分で考えず、今までのことを変えないことや、誰かに言われるまで何もしないというタイプです。命令以外、やっては困る軍隊の場合、下士官など、待ち受け型でなければいけませんが、ビジネスをしている組織では、迷惑な存在になってしまいます。 流し型、待ち受け型、勘違い型、高度成長時代で、目的が単純だったころには、求められたタイプかも知れません。変化が必要で、しかも、工夫や知恵が要求される今、古代種のみなさんにも、現実を正しく理解してもらうことが必要になります。まずは、わからないとき、理解できないときには、気軽に質問できる環境が必要だと思います。簡単ではありませんが。 |
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今日も思いつくまま・・2015年9月7日(月)
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再適合というタイプもありました。長い間、同じことの繰り返しをしていると、違う環境を受け入れることが難しくなります。とりわけ、責任者やリーダーの役割を担っていると余計です。理屈できちんと説明を受け、なるほどと納得はしますが、体がそうなっていないので、いつまで経っても、形状記憶ということになりがちです。 部下がいたりすると、さらに頑なになることがあります。自分だけだったら、現実を許容することができても、部下や同僚の前では、これまでのスタンスをひたすら守ることになります。どこかで方向転換をしなければと思っても、動くことができないということになってしまいます。世の中の変化に追い付かないどころか、変化をしていることを認識しないことになってしまいます。 一旦、始めた戦争を終えるきっかけをつかめず、終戦までの間に、犠牲者を次々に増やすことになった、70年前の戦争の時もそうだったのかも知れません。オリンピック・パラリンピックのエンブレム騒動でも感じたことです。やめるとか、変えるとか、方向転換は簡単ではありません。まして、責任問題がからむと余計に難しくなります。 ところが、このような人に特徴的なのは、一旦、変ってしまうと、今度は、ガラッと変わるということです。終戦後、鬼畜米英と敵視していたアメリカに対する態度が、一気に親近感へと変わったことを理屈で説明できません。今の組織内でも、同じように、実は前からこうだったということで、すっかり変身をしてしまう人がいます。 要は、適合能力が高いということかも知れません。とりわけ、場の雰囲気に左右されやすいのではと思える、日本人の場合、勝てば官軍、流れにのる、そこに主義主張とか、理屈が希薄な場合があるのではと思います。もともと、能力が低くない人であれば、そこで、組織のニーズにあった行動様式にかわり、能力を発揮することになります。 組織の中には、いろいろなタイプの人がいますが、信念を持って、組織の変化に適合しない人より、流れに沿って、再適合する人たちの方が役に立つことになります。このような人たちをその気にさせ続けるということも、マネジメント能力の一種かも知れません。変化する組織の中で、再適合者を増やすことも大切だと思います。 |
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今日も思いつくまま・・2015年8月31日(月)
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ヒラメ型、自動督促装置に加え、結構生息しているのが、古代種。むかしのままが一番という人たちです。世の中の変化を知らないわけではなく、素直に受け入れるのですが、変らないところに特徴があります。言い換えれば、どんな変化があっても、自分の理解できることだけを受け入れるということかも知れません。 確かに、長い間、成功体験として、変化するより、型にはまったことを繰り返すことに重きをおいていれば、変化に対する感受性が鈍るには当たり前。余計なことを考えて、工夫をしてもらうより、うまくいっているプロセスをそのままに受け入れてもらうことの方が重要であれば、結果としては考えないでほしいという話になります。 特に、作る人と、売る人の役割分担がはっきりしていれば、当然のことです。作る人も、創造するのではなく、決められた手順、決められた方法でトレースをするだけです。そこに異質なことが入ると、時間がかかったり、成果物に問題が生じるということになります。つまり、変ってはいけない、古代種のまま、保存しなければいけないということになります。 ビジネスモデルを変える必要が生じた時には、古代種は困ったことになります。感受性がゼロではないので、変化をしなければいけないのではと感じはするのですが、長い間、変化をしない、変化を受け入れずに生息をしていると、どうしたら良いのか、皆目見当がつかないということになるのではと思います。 感受性がゼロではないので、古代種を早期に発見するのは簡単ではありません。特に上司の言うことには盲目的に従う組織では、肯定的な反応についつい安心してしまいます。結果はあっと驚くことになりますが、多くの場合、具体的にこうしてほしい、これまでの価値観ではと詳細に上司から指示されなかった古代種の人は何が問題か気づきません。 上司が怒ったりすると、なぜという思いで反発することになるのだと思います。必要なのは、古代種の人が正しいと感じたままに、知らないうちに変化できるようにしてあげることなのだと思いますが、簡単ではありません。誇り高い古代種のみなさんにとっては、何も意味がないということです。抽象的な言い方ではありますが、古代種退治、特効薬はなさそうです。 |
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今日も思いつくまま・・2015年8月24日(月)
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30年近く前、地方勤務をしていたころ、料金自動督促装置(ADAC)と呼ばれている部長がいました。料金自動督促装置とは、文字通り、支払日までに料金支払いをしなかったお客様に、納期の数日後から順次督促をしていくために開発された装置です。人手が不要ということで、合理化、効率化の秘密兵器でした。 今は、自動アンケートなど、選挙予測などでも広く使われるようになっていますが、当時では最新の機器。印象が良いわけはなく、効果があったかどうかは疑問ですが、支払うまで執拗に何度もかかってくるということが威圧的であったことも事実です。その後の、自動音声の走りでした。 その部長がそう呼ばれるのは、自分の主張を曲げず、言い続けたところが、似ていたからです。その上に上司はいたのですが、一切主張を曲げないことを否定するのは案外、簡単ではありません。理屈の世界ではなく、嫌なものは嫌と同じように、反論を許さない、どんなに正当な意見でも受け入れないという強い決意になってしまいます。 それでも、最後は上司が説得し、他のスタッフの意見も取り入れて、決着をするということが出来ました。思い込みでの主張が、決して、すべて間違っていたわけではありませんが、ともすると、エキセントリックな話になり、嫌だとか、許さないというような、感情的な話になってしまいがちでした。 どちらかと言うと、幼児が欲しいもの、やりたいことをねだるときに、ダダをこねるのと同じような感じです。上司や親、先生など、諭したり、説得したりする人がいれば良いのですが、組織のトップがそうなってしまうと、手が付けられないことになってしまいます。幸い、その部長が大きな組織のトップにはなりませんでした。 ヒラメ型で、上に合わせることが行動様式になっている取り巻きの上級スタッフと、思い込みで主張し、異論は嫌だというトップがいると、組織がとんでもない方向に向ってしまうことも考えられます。歴史と伝統のある組織でも、意外にもろいところがあるように思います。会社がそうならないように、自重しなければと思っています。 |
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今日も思いつくまま・・2015年8月17日(月)
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終戦後70年、ニューヨークタイムズにも戦後70年談話の記事が掲載されていました。淡々としたトーンで、高く評価という印象は受けませんでしたが、決して、否定的でもない感じです。70年、長いのか短いのか、とらえ方によって区々ではありますが、同時代性は確実に低下しているようです。 毎年、恒例のニューヨーク。知り合いにお願いして、安くホテルを予約してもらっています。どちらかと言えば、里帰り、街歩きと食事がメイン。外に出ればニューヨークを味わっています。勤務でこちらに来てからすでに19年余。一見、変化がないようですが、そうでもありません。 一番、大きいのは、滞在中に起こった9.11の結果、マンハッタンのいたるところから見えたランドマーク、ワールドトレードセンターのツインタワーがなくなったことです。跡地には、高層ビルも建てられたようですが、あの時を思い出すと、見物に行く気にはなりません。 駐在が始まった、1900年代の終わりは、ジャパンアズナンバーワンの残り香があった時代。日本人駐在員も多く、商社や銀行、大手メーカーでは、経営トップに近い層が現地法人のトップでした。日本人ソサエティも華やかで、バブルの雰囲気があったように思います。アメリカは絶頂期でした。 9.11から、少しづつ変化がみられ、帰国後に起こったリーマンショック、中国経済の台頭や、東日本大震災や中東での戦争など、未来、将来への光を見つけにくい時代になっているようです。懐かしい、日系のレストランも来るたびに、閉店しています。日系以外でも、栄枯盛衰があちらこちらにあります。 それでも、ニューヨークの街全体は活気があり、観光客だけでなく、ビジネス最前線を肌で感じることができます。日本ほど、中国人観光客が目立たないのは、遠いことと、全世界から観光客が集まっているからだと思います。街を歩き、ホテルの窓から見るだけで、元気になるのがニューヨークです。来るたび、来て良かったと思います。
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今日も思いつくまま・・2015年8月10日(月)
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東京都港区、世田谷区、新潟市、名古屋市のタウンページから、防災タウンページという冊子を付録で付けました。これまでも掲載していた防災関係の基礎知識を充実し、専門家に監修してもらって、本誌と別冊にわけて記載したほか、避難所と公衆電話の地図をつけました。東京では、東京消防庁と提携し、危険地域表示をつけました。 そこで、気がついたのが、公衆電話。あちこちに、緑、黄色、赤の公衆電話があり、行列が出来ていたりしていた時代にくらべ、ずいぶん減った感じがしていましたが、地図にプロットすると、公衆電話ボックスを中心に結構な数があります。災害時に避難所に設置する特設公衆電話も表示してあります。 公衆電話が大幅に減ったのは事実ですが、それ以上に、減ったと感じるのは、携帯電話の普及で、公衆電話を使うことがなくなったからのように思います。興味がない、意識がないと、前を通り過ぎても、店や街の変化に気づかないということと同じではないかと気づきました。防災タウンページは、それだけでも意味があったのかも知れません。 日常の仕事の中でも、そんなことがあるのかも知れません。きちんとした職場で、きちんとマニュアル化された仕事をしていると、周辺の変化に気づかなくなってしまうとか、とっさのことに対応できなくなるということかも知れません。マジメに職務を遂行している人であればあるほど、陥ってしまうことになります。 ヒラメ型が多い職場だと余計です。大学を卒業し、社会人になって40年、歴史に残る仕事をしてきたわけではありませんが、経験則から言って、きちんとした組織であればあるほど、変化をしなければならないというタイミングを逸してしまうことになります。民営化の前の電電公社で実際に起こったことです。 普段は必要ないことですが、組織を構成してる従業員に、変化しなければいけないという事実をきちんと説明し、理解してもらわない限り、前に進みません。きちんとしている組織であればあるほど、抵抗力も大きく、公衆電話同様、関心のないことには気づかないということになります。こんなことを考えました。どんなものでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2015年8月3日(月)
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ニューヨークで見たびっくり。マンハッタンの高層ビルのまわりにバスが何台も停まって、ビルから出て来る人たちを乗せている風景。聞いてみると、ビルに入居している会社の社員旅行。日本ではほぼ絶滅している社員旅行がニューヨークで行われているということに驚きました。 バブルの時代、日本でも、会社丸抱えとか、海外への社員旅行とか、あちこちで聞きました。あのころは、会社の一体感を高めるためにも、そんなイベントがあちこちで行われていたようです。昔は、熱海や水上など、団体旅行ご用達の温泉地があちこちにあり、社員旅行をテーマにした映画もあったくらいです。 あのあとに、リーマンショックとかあり、アメリカを代表する企業の名前にも変化はありますが、アメリカの会社って、結構、家庭的なところがあります。誕生日をみんなでお祝いしたり、クリスマスなどには、上司や上司の奥さんがホストやホステスになって、社員を接待する形でのパーティを経験しました。NTTアメリカでもそんなパーティをやりました。 ニューヨークの社員旅行の典型は、家族ともども、リゾート地に向かい、そこで優秀社員表彰を行ったあとに、パーティかディナー。ブラックタイがドレスコードで、男性はタキシード、女性はイブニングドレスで着飾って出席します。こちらのパーティやディナーはカップルで出席が基本。恥ずかしながら、私もタキシードを持っていました。 奥様は魔女というテレビ番組の中で、隣に住むラリーという上司に対し、ダーリンと奥様は魔女のサマンサも、やたらと気を使っているストーリーがしょっちゅうでした。終身雇用だった日本と異なり、上司は部下を解雇することができるので、どうしても、上司の言うことが絶対というヒラメ型になってしまいます。日本でも似たようなものかも知れませんが。 まわりがイエスしか言えないスタッフではダメということを自覚し、耳に痛いことをきちんと言ってくれるスタッフを重用することが自分にとって、会社や組織にとって何より大切だということがわからないとリーダーとしては合格にはなりません。自分に自信がないと、まわりはヒラメ型ばかりになってしまいますよね。気をつけているつもりですが、簡単ではありません。
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今日も思いつくまま・・2015年7月27日(月)
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東芝決算のニュースや、国立競技場をめぐるドタバタ、どちらも、わかりにくいことがあります。前者は、チャレンジという標語がどうして不正経理になってしまったのか、後者は、いつの間に建設費が倍以上になってしまったのか。いずれにしろ、真相はやぶの中。外から見ているとわかりません。 封建領主の時代ではありませんが、上司の言うことは絶対という組織はたくさんあります。社長が何をしたいのか、何を考えているのか、ヒラメのように視線が上を向いている部下ばかりになりがちです。雇われ社長であっても、代々、お気に入りだけを後継にしていけば、同じようなタイプが続き、ヒラメ度が高くなるのだと思います。 そんな中での決定があとで、まずいということになると、ヒラメ型で原因追及すると、タブーがあちことにあらわれ、外部から見るとわかりにくいことになるのではと思います。そうなると、失敗の教訓は生かされず、反省しない、ヒラメ型体質は世代を超えて温存されるということになってしまいます。このような話、何度もあったような気がします。 社会党がある程度の議席を占め、同一政党の人が複数当選した中選挙区制の時代は、与党の中でも、異論を持っている人が当選し、党首をめぐる権力闘争も日常茶飯事だったように思います。小選挙区制になり、与党が圧倒的になると、異論を持つことのリスクが高くなり、どうしてもヒラメになってしまいがちなのかも知れません。 社長が異論OKだというサインを出しても、ほとんど信用されません。社長に直接話をした結果、上司に怒られたとか、社長に真実を見せないようにするため、いろいろな細工をするなどということを根絶するのは大変です。こうしたいと主張しても、耳を傾けるのは格好だけということも多々あります。 組織の中で、異論を持っている人、組織に批判的な人を見つけ、お客様と直にふれあい、それも悪い印象を持っているお客様の声を大事にするということを繰り返すことで、ちょっとづつ見えてくることがあります。そうなると、口を開いてくれるのは、契約社員の人や、女性従業員の人からということになりがちです。 会社の中でのダイバーシティ、多様化活動は、どうしても、女性登用と同義にとらえられていますが、異論に耳を傾ける、受け入れる、という側面にハイライトをあてることが何より大切なのではないでしょうか。言うのは簡単、実行は容易ではありませんが。多様性のある組織が生き残れる力を持っているのではと確信しています。どんなものでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2015年7月20日(月)
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政権に好ましくない内容の報道をする放送局には、コマーシャルを出さないよう、企業が団結をすることで、放送局を困らせるという話が、自民党の議員が集まった場で話題になったという報道がありました。反対する意見を聞きたくない、心地よい意見だけを聞きたいという気持ち、わからないわけではありませんが。 反対する意見や、否定する意見に耳を傾け、必要なら意見を述べ、自論にも取り入れることが出来るということは、自信がなければできません。絶対にやるぞと思っていても、日々、批判をされ続けるということに対しては、精神衛生上持たないということでしょう。でも、聞きたくないと言って、圧力をかけるのはどうでしょうか。 もっとも、まわりすべてが味方ではないという状況だと、わく闘志が、徐々に賛同者が増えていくと、その中で理解をしないで、何もしないという人がいる、こちらもストレスに変っていきます。今回のような、国の大事ではなくても、組織であれば、どこにでも起こることかも知れません。 決められたことは変えにくいということです。別の角度から見るとマジメとか、頑固とか言われ、決して悪いことばかりではないのですが、状況の変化や、お客様のために何をすれば良いか、何が求められているかという点も見ようとしません。ひたすら、自分の理解の範囲内で行動します。その範囲が狭いということでしょうか。 このようなみなさんに、何をしたら良いか、きちんと説明し、理解をしてもらうことが何より必要です。現場第一線の人はお客様からの声や批判を聞き、何か変わっているということを体感していますので、中間の管理職にこのタイプが多く、お客様の声とか、社内情報のダムになり、上に悪い話を上げないことが目的になってしまいます。 国の大事に関するニュースに触れながら、自分の周辺のことを考えてしまいます。過去の施策の悪いことを隠したり、反省しないことで、良いところも見えなくなってしまうことが大問題です。先人の苦労を尊び、学ぶためにも、お客様の声、悪いことに耳を傾けるようにしたいと思っています。配られた日のゴミ箱がタウンページで埋まらないように。
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今日も思いつくまま・・2015年7月13日(月)
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永年、ひとつのモデルで通用しているビジネスをめぐる環境が変化したとき、どうするかというのは簡単ではありません。タウンページも職業別電話帳として、2000年前後までは、固定電話の増加、テレホンサービスや電話予約など、電話文化の進化と連動し、成長してきました。 携帯電話や、インターネット普及、電話文化のかげりなど、周辺の状況が急激に変化したとき、減少する固定電話の電話帳、タウンページの性質も変化を迫られることになるのですが、なかなか気がつきません。そのうちに、手遅れになってしまいます。変化に対応することが難しいということを身を持って示すことになります。 どの業界でも同じようなことが言えます。右肩上がりが続き、成長をし続けていれば良いのですが、ある程度の段階まで到達すると、状況が激変することになります。高速道路の建設や地下鉄の建設などがあげられます。海外に技術移転するなどの方法がありますが、全世界にライバルがいるので、簡単ではありません。 それでも、要らない公共投資や、経済的に疑問が生じるような大型設備投資や建設が皆無というわけではありません。技術継承や、技術保存という意味もあり、すべてやめてしまえという乱暴な議論が成り立つわけではありませんが、要らないものを作り続けていると、社会そのものが成り立たなくなってしまいます。心配なニュースもあとを絶ちません。 タウンページの資産は、ノウハウと人材ですから、極端な話、人員整理をすれば大丈夫とは言えます。雇用確保のために、必要とされないビジネスを持続するわけにはいきません。今、こだわっているのは、減ったとはいえ、約500億円の広告を出してくれている広告主の存在と、困ったときには役立っているという事実です。 固定電話の電話帳ということで、安定していたビジネスだったのが、予想以上に固定電話減少スピードが速かったこと、電話文化そのものに大きな変化があったことです。それでも、100年の歴史の中で、生活や仕事をサポートし、地域情報を掲載してきたことがミッションの変化に対応できる可能性あり、そこに賭ける価値があると思っています。いかがでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2015年7月6日(月)
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終戦後に生まれた団塊の世代が、いよいよ老境に入り、先頭集団が70才になるということ、未婚者増や少子化で、街は老人ばかりになっています。自分も60才を過ぎたのは少し前、孫のいる世代。隠居、おじいちゃん、平均寿命の短かった時代では、すでに長寿の部類。時間の経過は早いものです。 栄養を取れていたり、医療の進化で、着実に老化のスピードがゆっくりになっています。90才近くになっても、高い山に挑戦したり、海外に一人で旅行したり、など、生活そのものが老化していません。連れ合いが亡くなったり、3世代同居が少なくなったことで、元気で一人暮らしをしている老人が増えています。 そんな時に気になることが生活上のトラブル。アメリカにはアンジーズリスト(アンジーおばさんのリスト)という団体があり、会員になると、安心して頼める修理屋さんや電気屋さんを紹介してくれるという仕組みだそうです。大草原の小さな家のような一戸建てでも、安心して一人暮らしができるということになります。 何も問題がないときは、元気に楽しく過ごすことができても、病気になったりしたときだけでなく、電球が切れたとか、水道の配管がつまったとか、生活上困ったことが発生し、困ることがあります。昔だったら、何でもなかったことが大変なことに。暑いとき、寒いときにエアコンが故障したら、生命の危険に直結してしまいます。 かつては、子供のころから知っているような、街の電気屋さんがアチコチにあり、何があっても安心して頼める環境がありましたが、後継者がいないとか、大型量販店にノックアウトされて、どんどん消えています。インターネットの普及で、顧客の高齢化が進んだのも一因だと思います。 年長の方ほど、使うのに慣れ、信頼されているタウンページがかわりに、業者を探し、トラブルと解決できないかと考えています。どうやって使う人、会員を集めるか、信頼できる業者を選べるか、トラブルシューティングをどうするかなど、課題も多々ありますが。安心・安全のセーフティネットとして、付加価値になるのではと思って、検討中です。
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今日も思いつくまま・・2015年6月29日(月)
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パソコンがオフィスに登場したのは30年近く前。それまで、時間がかかっていた計算があっという間にできるようになりました。大型コンピューターでプログラムを作って行ったようなことが出来るので、いろいろなケースを想定して、事業計画を予測するのが劇的に簡単になりました。 上司から、この想定で試算してというオーダーが出た際にも、以前だったら、機械式計算機や電卓を駆使して半日必要だったのが、即座に計算結果が出ることを内緒にして、明日の朝にはと回答し、まずは、上司に帰ってもらい、あとは自分たちの時間を謳歌した記憶があります。まさに仕事の革命でした。 そのころのパソコンには、計算ソフトが組み込まれているわけではなく、自分たちでプログラミングをしました。最初に、フローチャートを作り、それに従って、パソコンの文法通りにプログラムを作ると、パソコンはしっかりと仕事をしてくれました。そのうち、既製品のソフトが登場し、一気に普及します。 計算機だったパソコンで通信をする、今はなきパソコン通信という言葉を知ったのは25年ほど前のことでした。電話回線を使って、エクスプローラーの前、モザイクというブラウザも登場しないころ、ドイツ鉄道のサイトまでたどり着いた時には、感激しました。もちろん、チラと閲覧しただけで何もできませんでした。 今は、スマホ、タブレット、アップルウォッチのような携帯端末が昔の超大型コンピューター以上の処理能力を持ち、いろんなことができるようになっています。長い間、パソコンで慣れた、ブラウザーを開いて、さて、何をするかということではなく、外国人がよくやっているように、端末にしたいことを話しかけるだけでOKです。 一度、検索したり、買い物をすると、あなたの知りたいのは、欲しいのはと次から次へと、端末がアプローチしてきます。思ったこと、したいことを想定して、アクションをとってくれるようになるまでには、あと少し。いわゆるパソコンもそろそろバトンタッチの時期かもしれません。年をとったこともあり、変化の速さに戸惑っています。
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今日も思いつくまま・・2015年6月22日(月)
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職場にパソコンが入り、電子メールが普及して、すでに10年以上経過しています。それまで、段階的に指示がおりたり、上司への報告がされていたのが、全員に知らせたり、CCという方法を使って、一通の電子メールで、上司や関係者をふくむ、多くの人に報告することも可能になっています。 すでに、LINEやツイッタ―など、SNSと呼ばれるようなコミュニケーション手段を使うところも出ているようですが、昔からの会社ではマダマダです。というか、会議中心、上意下達方式を変えるのは簡単ではありません。それでも、今どき、別のやり方があるのではと気づくことも多く、その時には目からうろこ状態になります。 トーナメント方式で、軍隊のような組織で仕事をしていたころ、係長はえらい存在でした。部下を数人持ち、課の仕事の一部分の責任を分担していました。新入社員にとっては、最初の壁というか、あこがれの存在でした。まして、課長となると雲の上、今思えば、40才になるかならないかでしたが、十分、落ち着きのあるおじさんに見えました。 今でも、係長や課長という職位はありますが、部下を持っている係長は、オペレーターとか、作業員が大勢いる現場を除き、どの業界でも少なくなっているのではと思います。課長にしたって、チームリーダーというより、資格をあらわす職位となり、部下のいない課長や、いても、昔の係長より少ないケースが主流になっているみたいです。 ところが、課長の仕事が、現状に合っていないケースが多いように思うことがあります。管理職の仕事は、チームリーダーとして、文字通り、部隊を管理するという側面と、経験やノウハウを活かして仕事上の判断をするということだと思います。その中で、決裁をしたり、仕事に付加価値をつける仕事があります。 現状、実質的な仕事は現場のリーダー、時には正社員ではない場合もありますが、形式的な管理職ではない中堅層が担い、課長が意思決定のダムのようになっているケースが見られます。電子メールで情報共有が出来る今、軍隊のようなトーナメント型組織がふさわしくないと言われて、ずいぶん経過していますが、マダマダ、変えなければです。
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今日も思いつくまま・・2015年6月15日(月)
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東京都港区版、世田谷区版のタウンページでふろくでつけた、真っ赤な冊子(公衆電話・避難所マップ付防災タウンページ)は予想以上に反響があり、配達後にこちらからかけた配達状況確認の電話で好評だっただけでなく、お客様から電話をいただいたり、エリア外の方から欲しいとか、自分のエリアはいつになるのかというお問い合わせがありました。 子供と一緒に避難所や公衆電話の場所を確認したり、家で話し合いをした、教材で使いたい、警察で参考にしたいなど、思いがけないことになりました。ビギナーズラックにならないよう、また、別冊付録だけをとっておいて、本誌を捨てるということにならないよう、新たな発想のタウンページを育てていきたいものです。 東京都港区版、世田谷区版をはじめ、自治体が発行する市民便利帳的なコンテンツを電話帳をミックスした版は、NTT東西会社の固定電話を持っていない住宅や事務所に配っています。別冊防災タウンページは、港区、世田谷区のほか、新潟市だけですが、自治体とのミックスは、全体のタウンページの3割にになります。 1990年に電話100年を記念して作ったコマーシャルでの曲が、薬師丸ひろ子の「あなたをもっと知りたくて」、ある程度ヒットしたし、コマーシャルで流したので、覚えている方も多いと思いますが、そのころから10年くらいが、固定電話にとっても、電話帳にとっても、毎年成長する黄金時代でした。 電話帳のスタートは、125年前、東京横浜間で、鉄道に遅れること20年弱、最初の番号簿には、明治の元勲の名前などもあるものの、ほんのわずかの官庁や会社、個人名が記載されていました。当時は逓信省という役所が提供した固定電話の電話番号簿が、電話帳のルーツということになります。 その後、仕事やくらしに関係のある電話番号や説明を掲載し、固定電話の電話番号簿から、少しづつ性格を変えて今に至っていますが、固定電話の減少、インターネットの普及など、電話で話をする文化が劇的に変化している今、固定電話の電話帳から、安心・安全のセーフティネットに。今回のような、幸先の良い反応が続けば良いのですが。
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今日も思いつくまま・・2015年6月8日(月)
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東京都港区版、世田谷区版のタウンページから、防災タウンページ別冊をふろくにしました。A5版で、バックに入る大きさで表紙は赤。結構目立つ装丁です。中身は、専門家の先生に監修してもらった防災の基礎知識と公衆電話と避難所の地図。東京消防庁に監修してもらった火災危険マーク付きです。 最初、黄色の表紙でB5版で考えていましたが、プロデューサーである編集長がどうしても赤でA5版を主張し、結局意見が通りました。出来上がりはこっちの方が良いかなという感じでした。防災タウンページを活用してもらうため、目立つようにするためには、どちらが良いか、いろいろとやってみたいと思っています。 別冊防災タウンページを発想した原因は、昨年発行した甲府版でふろくにつけた、避難所マップ。昨年の大雪の結果、甲府市と熱心に取り組んだ冊子が、地元のみなさんに喜んでいただけたこと。何もなければ開封もされない置物になってしまう、困ったときに役立つタウンページを開封してもらうため秘密兵器です。 港区、世田谷区を皮切りに、できれば、3年後の2018年度末までに、全国主要地区で順次ふろくとしてタウンページの別冊とし、同時にネット版を用意していくことにしています。さらには、英語はじめ、多言語にも対応した、音声対応ネット版タウンページのコンテンツとしていきたいと考えています。 港区版、世田谷区版タウンページを全家庭、全事業所に配達していますが、同時に街頭でキャンペーンを行いました。結果として、防災タウンページというと、いらないと言われても、避難所・公衆電話マップですよというと、受け取ってもらうという現象があったようです。開封してもらう、使ってもらうための工夫、まだまだ足りないようです。 2011年3月11日の東日本大震災から4年あまり、火山噴火、首都直下地震、南海トラフ、ゲリラ豪雨、土砂災害などなど、大惨事がいつ起こっても不思議のないと言われている日本列島。タウンページの中にあった防災コンテンツをまとめ、避難所・公衆電話地図をつけた防災タウンページ、防災に役立ってほしいと思っています。
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今日も思いつくまま・・2015年6月1日(月)
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銀座のおそば屋さん、確か年末に行ったのが最後。久しぶりに前を通ったら、囲いが出来て入れないようになっていました。耐震のため、閉店ということですが、いつ再開するのか、どこかに移転しているかなど何もなし。4ヶ月以上、銀座の裏通りを歩かなかったのに気づいただけでした。 常連というほどではありませんが、たまに顔を出し、少しは認知されていたので、さびしく感じます。夕方から、同伴出勤らしいカップルが飲んでいたり、出勤前の女性が華やかな姿でおそばをすすったりと、銀座のおそば屋らしい風情。時にエッというお客が来るものの、いわゆる客ダネはよく、ゆったりとした気分になれます。 近くのうなぎ屋さんが閉店。小田急開通前に、工事の人が食べに来たという話なので、80年以上経っているお店。店主体調不良ということ、後継ぎがいなかったようです。賑わっている店ではありませんが、出前をしてくれるのが便利。味もよく、有名店に遜色がなく、時々、ぜいたくをしていたのが残念。 次も近所のおそば屋さん。こちらは閉店ではなかったのですが、出前をやめたということ。同じく、店主高齢化が理由らしい。後継ぎがいなければ、次に来るのが閉店。ひさしぶりに店に行ってみようかとも思う。近くのとんかつ屋、ここは出前をしていませんでしたが、数年前に閉店。跡形もなくなってしまいました。 何代目まで、後継ぎが続いている店がそんなにたくさんあるわけではありません。自分の生きてきた年数よりだいぶ少なくても、十分老舗とテレビで紹介されているようなので、続けるということが簡単ではないことがわかります。少子高齢化の中、お年寄りのご夫婦でやっている店も多く、仕方ないことかも知れません。 それでも、そこにあるのが当たり前になった店がなくなると、一気に時間が経過するような気がします。竜宮城から戻った浦島太郎と同じような感覚なのかも知れません。などと難しいことを考えなくても、あの店のあの味を二度と食べられないと思うと、味の如何にかかわらず、寂しいものです。銀座のおそば屋、後継ぎはいるはずなので、再開できるのでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2015年5月25日(月)
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今が散歩には一番良い季節。梅雨入り前で、雨も続かず、ほとんど降りません。この間、明け方の雷雨でびっくりしましたが、夜明けにはすっきり。そのあと、湿度が下がったので、気温は高くてもさわやかな日でした。多少汗ばむくらいですが、梅雨入り後や真夏に比べれば、極楽のようです。 またまた、病気談義ですが、入院前は、ゆるくても長い勾配を上がったり、階段をのぼると、息切れがしました。同じくらいの年齢の人もそうだと聞くと、ホッとしたりもしましたが、退院後、そんなこともなく、途中で休んだり、息切れしなくなって、普通にできることのありがたさを痛感しています。 つとめて歩くようにしています。エスカレーターではなく、時々は地下鉄の階段も歩いてのぼるようにしています。無理してはいけませんが、ある程度負荷をかけることも必要みたいです。エスカレーターは絶対に使わないというほどではありませんが、息切れせずに階段をのぼりきるとホッと一息です。 会社の最寄駅は、銀座線の虎ノ門と、日比谷線の神谷町。厳しいのは、どちらも基本は階段しかないということ。今、神谷町ではエレベーターの工事中ですが、出来るまでには時間がかかるようです。昔の地下鉄は大江戸線のように、とんでもない地下ではありませんが、階段中心にできています。 バリアフリーで、エスカレーター、エレベーターの整備が進んでいるのは確かですが、普通に歩けたときには気にならなかったのが、少し具合がという状態になると、意外に使いにくいことがあるのに気づきます。すべての方向にあるわけではないので、外に出てから交差点をわたらなければならないとか、エレベーターがとんでもない遠方にあるとか。 階段は上るときだけでなく、降りるときにも結構負荷がかかります。下山する時が厳しいのと同じです。自分の身にふりかかる前には何も気にしていなかったのですが、最近は気になります。せっかくなので、この神経や気持ちを大事にすることで、何かの役に立てることが出来るかも知れません。以前より疲れやすくなるということも貴重な経験かも知れません。
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今日も思いつくまま・・2015年5月18日(月)
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先週は、退院後初めての宿泊出張をしました。週明けに大阪、週末に札幌。年度初めに予定していた出張を延期したことものです。以前のように、前日宴会で3時半起床、一番の飛行機に乗るということはせず、午前中仕事をして、午後の便で目的地、深夜に戻る日帰りにせず、宿泊という日程です。 朝一番で予定があるときには、夕方に移動し、余裕を持って前泊しようと思っています。まずは、無理せず、体調を管理しながらの出張をするよう心がけることにしました。新幹線や飛行機での高速移動、同じ1時間でも、動かずにボーっとしていることにくらべ、疲労がたまります。純健康だったときとくらべ、疲れを実感します。 塩分控えめの食事を心がけているので、たまに塩分が強い食べ物を口にすると、塩味が以前より強く、甘く感じることがあるように、久しぶりの高速移動のインパクトも大きく感じるのかも知れません。慣れちゃいけないことってあるのでしょう。疲れや塩分の感覚を研ぎ澄ませないといけないのかも知れません。 宿泊出張復活の週に、2回まとめてはやり過ぎだったのかも知れません。金曜日にはどっと疲れが出て、夕方早めに帰宅し、休むことにしました。幸い、良く眠ったことで回復しました。若いころと異なって、運動して筋肉の痛みを感じるのが、すぐではなく、数日経ってからと言われるので、まだまだ油断禁物ですが。 退院して一ヶ月あまり、リハビリが続きます。先日、テレビで歩き方の番組をやっていました。ダラダラと歩くのではなく、みぞおちに神経を集中し、お腹をひっこめ、腕を後ろに降って、さっさと歩くのが効果的という話でした。確かに実践すると、適度に負荷がかかり、歩いたなという実感がありました。 調子に乗って、入院前の生活そのままに戻さず、ペースを落とし、ゆったりしなければと思います。具合の悪くなった原因が入院前の生活にあったことは確かなので。適度に負荷がかかるように歩くなど、リハビリをしたり、無理をせず、仕事や出張の機会を使って、毎日の生活を楽しむようにしたいと思います。会社の近所散歩も結構楽しいです。
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今日も思いつくまま・・2015年5月11日(月)
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退院してから一ヶ月、2回目の診察を受けました。幸い、悪くはなっていないということで、次は2か月後。クスリとお友達になり、一病息災ということです。先月中ごろから職場復帰し、もともと酒量が多いわけではありませんが、宴会も復活し、今週からは宿泊出張も再開します。 食事に気をつけると同時に、つとめて歩くようにしています。最初は、足がついていかない感じでしたが、徐々に元通りになり、結構速足で歩けるようになりました。もっとも、持久力は落ちているようで、夕方になると、スピードもゆるみ、どっと疲れてしまいます。こちらもボチボチ、無理をしてはいけませんね。 自分では、やり過ぎという意識もなく、毎日、宴会を設定し、宴会の翌朝の早朝から出張したり、移動距離が多くなったり、平気にしていました。自分では平気だと思っていても、年令を重ねることで、確実に負荷が高くなっていたのでしょう。すぐに回復できていると思っても、限度があったということだと思います。 さすがに疲れていたのだと思いますが、那覇に日帰りした翌日に入院した翌日から、何もしないことが平気になり、終日、テレビを見て、ボーっとしていました。何冊か持ち込んだ本も大して読まず、ネット環境をつくることのできる個室での入院でしたが、最低限のことだけしか、スマホ、PCも使いませんでした。 毎日の楽しみは、ちょうど始まった、NHKの朝ドラ、「まれ」を見ることと、病院の食事でした。外から食べるものを持ち込むこともせず、食べたのは病院食だけ。塩分控えめ、うす味でしたが、十二分に美味しく食べることができました。おかげで、退院後も、うす味のまま、酢やポン酢のお世話になっています。 全速力で仕事していると、退職したあと、虚脱症状になるという話を聞きます。確かに何も予定がない、何もすることがない、誰とも会わないとなったとき、さて、どうなるかのか、心配ではありますが、今回、会社から離れた場所にある病院だったこともあり、静かに毎日を過ごすという練習にはなったのかも知れません。 戻る仕事があるから、平気だったのだとは思いますが、どこかに座って、街や人をながめたり、電車やバスに乗って車窓を見たりすることは大好きで、意外や意外、公園で2時間何もせずに過ごすことはあります。いろいろな意味で、良い経験だったように思います。まずは、一病息災で自分と付き合うようにします。
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今日も思いつくまま・・2015年5月4日(月)
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2日(土)の夜、NHKで明治神宮の森についての番組をやっていました。以前、読んだ本に、150年かけて、雑木林を作るという遠大な計画で設計されたという話を読み、歩くたびに自然を感じていたのですが、予定より早く、100年経過した今、すでに雑木林になっているという内容でした。 針葉樹から始まった植林も、徐々に中身を変え、生息している鳥の種類にも変化が見られ、ついに、オオタカが巣を作り、繁殖を始めたそうです。人工的な計画から始まった明治神宮の森ですが、100年かけ、自然に戻り、雑木林、鎮守の森完成だそうです。都会の中で作り上げた自然より自然らしい空間です。 退院後も、一回、明治神宮の中を歩きました。お詣りをしたので、本殿経由の玉砂利の道でしたが、裏道を通ると、都会の中にいることなどまったく忘れることができるような、山道を歩くことができます。コースによっては、雑木林の真ん中だったり、池のほとりだったり、空気もきれいです。 新宿、渋谷、青山、表参道と、にぎやかな場所のそばですが、明治神宮の森、代々木公園と新宿御苑、新宿中央公園から、神宮外苑と、緑の集積のおかげで、空気が澄んでいるように思えます。高速道路の音も減衰され、良い風も吹いているように思います。リハビリウォーキングにはベストです。 入院前、時に、勾配のある道を歩くと、息切れがしたり、途中でお休みをしないと、前に進めないことがありました。幸い、症状は治まり、クスリとお友達の一病息災で過ごしていることもあり、今は大丈夫。少し早目に歩いても大丈夫です。普通に生活することのありがたさを痛感しています。 先週から、少しづつですが、元の生活に戻り、岐阜までの日帰り出張や、宴会を再開しています。ゆったりとした日程、早めに切り上げることや、インターバルを開けるなど、心がけています。復調したと調子に乗らず、つらかった時を忘れずにと謙虚に反省しながら、ゆったりと。連休には、明治神宮の森をゆったりと散歩し、風を感じたいと思っています。
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今日も思いつくまま・・2015年4月27日(月)
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入院話の続き、11日土曜日に退院できました。数日、リハビリをして、水木と2日間職場復帰をしました。今週はフルで出勤になります。徐々に宴会なども復活しようと思っています。もっとも、調子に乗ると元の木阿弥、病院でも、具合が悪くなる前の生活パターンを繰り替えし、戻ってくる人も多いですよと、釘をさされました。 退院して1週間余、今のところ、節制をした生活、クスリをきちんと飲み、いろいろな測定も定められたように守っています。病院嫌いでしたが、仕方ないとなると、意外に従順だと自分でも感心します。入院前の具合には戻りたくないとの思いも強く、ここは守っていた方が得だという打算ですが。 可能な限り、歩いています。さすがに退院当日は、足腰が弱ったなと実感し。息切れや動悸はなくなったものの足がついてこない感じでした。それでも、息切れせずに歩けるありがたさを痛感しました。何度も感じたことですが、これまで何も考えずに出来た自分にとっての普通を出来なくなって初めて、ありがたさを感じました。 20年ぶりの入院でしたが、40才になったばかりの前回と、60才になってからの今回、ずいぶんと違っています。それでも、前回の経験を活かし、可能な限りリハビリし、退院後の生活を少しでも早く元に戻せるようにつとめています。少しづつかも知れませんが、日々、体力が戻っているという実感はあります。 退院して1週間後、検査と診察のため、再度、病院を訪ねました。入院中の院内移動は、トイレなどを除き、すべて車いすだったのが、退院後はどこでも自由。歩くのも、自分で運転してもOKになるので、ずいぶん違います。二度と入院したくないという気持ちを持たせるためには、良いことかも知れません。 今年前半、たぶん、最大のイベントになるはずの緊急入院。2週間で退院できたこと、早めの入院、手当で良かったと言われたことなど、良い機会だったと思った方が良さそうです。自重を基本に、スピードをゆるめ、今の従順さを持続していきたいと今は思っています。というか、思い続けたいものです。
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今日も思いつくまま・・2015年4月20日(月)
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入院話の続き、11日土曜日に退院できました。数日、リハビリをして、水木と2日間職場復帰をしました。今週はフルで出勤になります。徐々に宴会なども復活しようと思っています。もっとも、調子に乗ると元の木阿弥、病院でも、具合が悪くなる前の生活パターンを繰り替えし、戻ってくる人も多いですよと、釘をさされました。 退院して1週間余、今のところ、節制をした生活、クスリをきちんと飲み、いろいろな測定も定められたように守っています。病院嫌いでしたが、仕方ないとなると、意外に従順だと自分でも感心します。入院前の具合には戻りたくないとの思いも強く、ここは守っていた方が得だという打算ですが。 可能な限り、歩いています。さすがに退院当日は、足腰が弱ったなと実感し。息切れや動悸はなくなったものの足がついてこない感じでした。それでも、息切れせずに歩けるありがたさを痛感しました。何度も感じたことですが、これまで何も考えずに出来た自分にとっての普通を出来なくなって初めて、ありがたさを感じました。 20年ぶりの入院でしたが、40才になったばかりの前回と、60才になってからの今回、ずいぶんと違っています。それでも、前回の経験を活かし、可能な限りリハビリし、退院後の生活を少しでも早く元に戻せるようにつとめています。少しづつかも知れませんが、日々、体力が戻っているという実感はあります。 退院して1週間後、検査と診察のため、再度、病院を訪ねました。入院中の院内移動は、トイレなどを除き、すべて車いすだったのが、退院後はどこでも自由。歩くのも、自分で運転してもOKになるので、ずいぶん違います。二度と入院したくないという気持ちを持たせるためには、良いことかも知れません。 今年前半、たぶん、最大のイベントになるはずの緊急入院。2週間で退院できたこと、早めの入院、手当で良かったと言われたことなど、良い機会だったと思った方が良さそうです。自重を基本に、スピードをゆるめ、今の従順さを持続していきたいと今は思っています。というか、思い続けたいものです。
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今日も思いつくまま・・2015年4月13日(月)
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20年ぶりの入院、幸い、2週間で症状はおさまり、原因究明の検査でも、特段の難題は見つからず、一病息災でクスリと仲良くし、生活上注意することをきちんと励行すれば、再入院を避けることは可能で、長寿も夢ではないという話でした。実践は簡単ではないと思いますが、2週間で退院できて、ホッとはしました。 入院中は負荷をかけないようにということで、歩いて良いのは、トイレまでというのが1週間、病室のあるフロア内というのが1週間でした。別の階の検査室などに行く場合には、車椅子利用でした。最後の日になって、先生にお願いし、退院後のためにもということで、全フロア自由にしてもらいました。 昔、職域病院に、十二指腸潰瘍で入院した時には、検査のたびに外来の待合室の前を通ったり、検査室が外来と一緒だったので、元気そうな知り合いにあちこちで会うことになり、そのたびにどうしたのですかと聞かれ、好奇の目で見られましたが、今回の病院は入院患者用の裏導線があり、職域病院でもなかったので、ラクでした。 医者嫌い、健康診断嫌いで、久しぶりの病院でしたが、最初に来院する際には抵抗したものの、入ってしまえば、仕方ないということで、食事も病院食だけ、ルールもきちんと守り、優良患者として過ごしました。また、日頃は落ち着きなく、動き回っていたのが、2週間、ほぼジッとしていました。 後半になって、症状がおさまってからは、多少ストレッチや、ラジオ体操のまねごとなどをして、体力回復につとめようとしましたが、ほとんど動かない2週間を過ごしたこともあり、退院して歩き始めた途端、足の衰えを実感し、無理のない範囲で、早くリハビリしなければと思いました。 前回の十二指腸潰瘍入院でも、同じことを経験し、短い入院でも、また、年齢が高齢ではなくても、筋力が落ちるということを実感しました。怖いものです。幸い、無事退院できたので、感じる悩みで、ありがたいことですが、健康で、普通に生活できることのありがたさ、今回も強く感じました。
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今日も思いつくまま・・2015年4月6日(月)
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約20年ぶりに入院しました。健康診断大嫌いで避けていましたが、ここしばらく、体調が今一つで、坂や階段を上ると息切れがすることもあり、加齢なので仕方ないのではと思っていました。考えてみれば、高齢の方でもハイキング、確かに変調をきたしていたようです。 幸い、症状もおさまり、これから先、どんな治療、薬と付き合うか、原因を究明する検査をしています。良く言えば、一病息災、食事時に薬を一杯飲んで大変だなというみなさんに仲間入りをするということになります。いずれにしろ、大事に至らなくてよかったと痛感しています。 入院する前日まで、那覇に日帰り出張をしていました。自分では、そんなに厳しいスケジュールではないと思っていましたが、徐々に徐々に負荷がたまっていたのだと思います。もう少しできたのではという我慢をしなくてよかったと感じたのは入院後です。 忙しいスケジュールの中で、毎日を過ごしていたので、時間を持て余し、退屈をするのではと思ったのですが、これまでの疲れを取るためか、よく眠りました。大好きな本を読もうとしても、すぐに眠くなり、一冊目の文庫本を読み終わったのは、入院して7日目でした。 毎日の楽しみは、薄味の食事。以前の入院では、外で買ってきてもらった食べ物を楽しみにしていましたが、今回は、食事、飲み物ともに、病院指示通りに守っています。間食もしないので、空腹で毎回の食事を迎えます。レシピも工夫され、味もよく、楽しみになっています。 それと、テレビ、最初は眠ってばかりでしたが、少し経ってからは、結構見るようになりました。先週月曜日に始まった、NHKの朝のドラマ、「まれ」はちょうど朝食時間なので、最初からみています。これって、退院しても見そうな感じ、2週目どうなるか、楽しみです。
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今日も思いつくまま・・2015年3月30日(月)
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初めて、沖縄に行きました。これで、全国都道府県すべてに足跡を残したことになります。もっとも、佐賀県は鳥栖駅の乗換えでホームの上、宮崎県は列車で通っただけですので、完全足跡ではありません。春休みの観光シーズン、満席の飛行機で日帰りしました。もったいな気がします。 那覇空港に降り立った時、感じたのは、空港の造りが日本風ではないということ。羽田空港も、伊丹空港も、建物が長く続き、ゲートは片側だけというのが普通ですが、那覇空港は、両側にゲートがあり、建物の端が円形になっています。外国の空港でよく見られる形です。 現在の建物ができたのは、沖縄が日本に返還されてからだいぶ経ったころだったようですが、造りはアメリカでも見たことのある形。ひょっとすると、こちらの方がグローバルスタンダードで、日本の方が特殊なのかもしれません。ゲートを降り立った瞬間、異国情緒でした。 仕事だったので、観光地には行きませんでしたが、国際通りだけはクルマで通り抜け、途中のブルーシールアイスクリームでアイスクリームを買い、クルマの中で食べました。サトウキビのアイスクリーム、さっぱりして美味しく食べました。次回はソフトクリームを食べたいものです。 昼には、沖縄そば、ソーキそばを食べました。観光客にも有名になりつつあるということですが、地元客が多く、みなさん、手慣れた雰囲気で注文し、美味しそうに食べていました。コラーゲンたっぷりの豚肉と、さっぱりしたスープ、こしのある麺、人気の秘密がよくわかりました。また、来たいです。 仕事での日帰りでしたので、あとは帰るだけ。東京行きも満席、機材の到着遅れ、未搭乗客の捜索、羽田空港の混雑という3重苦で、約1時間遅れで羽田空港着。2時間以上かかるフライト、遠さを実感しました。ホンの少しの沖縄体験、また、行きたいと思いました。
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今日も思いつくまま・・2015年3月23日(月)
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札幌から大阪への飛行機に乗りました。一旦、東京に戻らない出張、直行便はラクです。もっとも、便数が少ないのと、春休みのピーク料金で割引料金も高く、便数の多い、札幌東京便、東京大阪便で乗り換えの方が安い割引料金ありでした。たぶん、乗り換え便の半分程度の2時間で到着する直行便は魅力的です。 JALの機材は737、大型機材の多い、東京便とは異なり、ローカル線という感じでしたが、一番雰囲気が異なったのは、お客さんのほとんどが大阪の人ではないかということ。東京大阪便や新幹線のように、東京と大阪の人が混在しているのと異なり、札幌大阪便は大阪の人が主流みたいでした。 ニューヨークで感じた、日本の人口の3割強、つまり、ニューヨーク在住の日本人の3分の1は大阪を中心とした、関西弁文化圏の人だということ、そして、東京にいるより、自然に地元言葉をしゃべっているということと同じだったのかも知れません。東京と異なる個性を肌で感じました。 関西弁文化圏の中心、大阪が好きです。新大阪駅の新幹線ホームからのエスカレーターは時に東京と同じ左のりなのが、在来線や地下鉄へのエスカレターは大阪方式の右のり。そこから、大阪の始まり。伊丹空港でも、同じことを感じることができます。新大阪駅、伊丹空港は大阪ワールドへの入り口です。 一時は、閑古鳥が鳴き、寂れて、怖さだけが残っていた通天閣周辺、ジャンジャン横丁も、NHKの朝ドラがきっかけだったのか、串カツブームもあり、すっかり健全な観光地になっています。ハリーポッターのおかげで、USJも、最悪の時期を脱し、話題性でディズニーランドに迫りつつある感じです。 それでも、残念ながら、経済力では東京に大きく遅れ、大坂夏の陣以来400年ぶりに話題となった維新の会、大阪都構想も、最初の勢いがあるとは言えません。それでも、大阪独自の文化はまだまだ強力。地下鉄御堂筋線の中で、地元正調大阪弁でしゃべっている若い女性を見ると、やはり大阪はすごいと気づきます。大事にしたい文化です。
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今日も思いつくまま・・2015年3月16日(月)
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北陸新幹線開通の3月14日(土)、上野東京間の上野東京ラインが開通し、東海道線の列車のほとんどが東北線、高崎線と直通し、常磐線の特急や、中距離列車、取手までの快速電車の一部が品川まで乗り入れることになり、すべてが始発駅だった上野、東京が途中駅になってしまいました。 東北、上越新幹線が東京駅に乗り入れる前は東海道線列車の折り返しに使っていた線路と秋葉原駅がつながり、上野発の特急列車の一部が東京駅まで乗り入れていました。グリーン車がなかったころの高崎線の列車が、グリーン車のつながった東海道線に乗り入れていたのは、そんなに大昔のことではなかったように記憶しています。 新宿経由の湘南新宿ラインと間違わないように、上野東京ライン経由をPRしています。乗り換えが不要になり、便利になる反面、乗り間違いや、湘南新宿ラインで経験した広範囲なダイヤ乱れ、さらには、上野駅、東京駅で始発電車の席を取っていた人にとっては、座れないという問題が発生します。 昔の緑とオレンジだったころの電車は、3ドア車。座席数は1両当たり70席程度だったのが、今走っているような4ドア車の1両当たり座席数は50席から60席。グリーン車を2両連結した15両編成で、普通車の座席が200席ほど減ったことになります。待てば座れる始発駅ではなくなったので、余計です。 確かに、保土ヶ谷から都心に通っていたころ、3ドア車時代は、21時半以降だったら、新橋駅で座れたのが、4ドア車になってからは座れなかった記憶があります。座りたかったら、グリーン車に乗ってということで、東海道、横須賀線だけだったグリーン車連結が、総武線、東北線、高崎線、常磐線と広がり、2020年には中央線快速にも連結するのだそうです。 スイカによる自動改札システム導入で、グリーン車での検札が不要になったこともあり、定期券でもグリーン券を買えば乗れるようになり、グリーン車の敷居が低くはなっていますが、それでも、普通車に座席を増やす工夫をしてほしいとは思います。今はたまにしか、ラッシュに乗りませんが、60才を過ぎて、余計にそう思います。ちょっぴり、寂しいですが。
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今日も思いつくまま・・2015年3月9日(月)
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山手トンネルが高速湾岸線の大井ジャンクションまで、7日土曜日夕方から開通。数十分しか経っていない時に、走ってみました。いつも混んでいる大橋ジャンクション手前もガラガラ、渋滞皆無で走ることができました。開通直後で混んでいるかなと心配したのが、拍子抜け。景色なしのトンネルでしたが、気持ちよく走れました。 これで、首都高速は、いつも混んでいる都心環状線の外側に、中央環状線が開通。新宿から羽田空港が近くなるはずです。もっとも、順調になるはずだった大橋ジャンクションの渋滞が出来ただけだった、途中までの開通の例にあるように、実際はどうなるかは、しばらく経ってみないとわかりません。 ディズニーランドへの観光客や、スカイツリー完成で増えた観光客に、1000円高速での需要喚起が相まって、観光地東京へ、地方からのクルマの流入が劇的に増えたようです。これらのクルマが東京都心部を通過するために、都心環状線を利用するので、土日渋滞が慢性的になってしまいました。昔の土日は空いていたように思います。 首都高だけでなく、一般道でも、他府県ナンバーが増えたことを痛感します。コンビニに駐車場が完備している地域と異なり、東京都心には無料駐車場は皆無、有料でも、あちこちにあるということにはならないので、一様に困っているような感じで、混雑がますますひどくなっているみたいです。 東京湾アクアラインも、800円に値下げになる前は、通行料金が高かったこともあり、土日でもガラガラ、海ほたるの駐車場もたっぷり空いていました。1000円高速と800円の値下げの効果満点。土日にどこかにドライブにという気にならないくらい、混んでいる日が増えました。それはそれで良いのだとは思いますが。 渋滞解消を目的に便利になると、今度は利用車が増え、どこかにあらたな渋滞発生ということにもなってしまいます。2020年の、東京オリンピック・パラリンピックで、ニューヨークやロンドン、パリなど、世界的な大都市以上に東京が観光地になりそうです。山手トンネル全通、便利に使われそうです。空いている開通日に走れて良かったです。
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今日も思いつくまま・・2015年3月2日(月)
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昔、電話番号案内、104の仕事をしていたことがあります。すでに30年以上前のことなので、携帯電話はなく、固定電話も電電公社の独占で、やっと、積滞という受注残がなくなり、一週間くらい待てば開通するという時代でした。固定電話はこのあと20年近く成長が続き、減少へと転じたのは20世紀の終わりになってからでした。 当時の104、コンピューターで調べるのではなく、かかってきたエリアの電話番号案内用の電話帳を使って調べました。エリア外の時には、該当のエリアの電話局に転送し、そこで調べてもらいました。やっと、市外局番+104でエリアの電話番号案内にかけられるようになったのがこのころだったと思います。 住所がわからないと調べることは出来ません。目標になる建物は施設を言ってもらった時には、オペレーターの頭の中で住所に変換し、電話帳で調べるか、あるいは、良く聞かれるところであれば別途書き抜き帳を見て答えるという仕組みでした。そのころ、電話番号も、住所も、主役でした。 今はどうかというと、携帯の返信や電話帳を参照するなどということが主流になり、電話番号を見て、電話を掛けるという機会が少なくなってしまっただけでなく、目的地をスマホで調べ、ナビ機能でそこへ向かうということになると、住所そのものを目にすることも少なくなってしまいました。 古い映画を見ると、アポイントなしに知り合いの家を訪ねるというシーンが出てきます。そのためには、住所をきちんと知っているということが必要だということが理解できます。電話番号案内でも、住所がわからないとお調べ出来ませんと回答した記憶があります。今は、目的地がわかれば詳しい住所は不要です。 パソコンから、携帯、スマホになって、電話番号や住所という、不要になることなどありえないと思っていたことにも変化がありました。品川区にある目黒駅、港区にある品川駅を住所から調べるのは簡単ではありませんし、ランドマークではありますが、大阪道頓堀が大阪市の何区にあるか、余程のことがない限り知らないと思います。 104は調べられないことのないように、ランドマークや旧地名、通称などをデータベース化し、どんなことでも調べるぞという仕組みにしています。紙版のタウンページ、ネット版のiタウンページも、時代の変化にあわせ、掲載方法や、検索方法、ガイドなどを工夫していく必要ありです。変化をチャンスにしたいものです。
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今日も思いつくまま・・2015年2月23日(月)
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2月22日は、ニャン、ニャン、ニャンと読んで猫の日だと、テレビでやっていました。少し無理のある感じですが、ま、そんなものかなと納得、猫はかわいいです。その2月22日で思い出すのは、ニューヨークで開店したカラオケボックス。すでに15年以上前、マンハッタンのアパートのそばの店でした。 カラオケの歌える日本人向けスナックやクラブなどは、あったのだと思いますが、たぶん、本格的なカラオケボックスは初めて。その開店が確か、2月22日土曜日の2時22分という2並び。事前に、日本語新聞で宣伝してあったのと、近所たったので、その時間に行ってみました。 ところが、まだ、チューニングが出来ていないということで、せっかくの2並び開店は出来ず、夜になったら開けると思うので、また来てほしいということで、開店ノベルティをもらって引き揚げました。日本だったら、こんなことはないなと思って、外国で商売をするのは大変なんだと思った次第です。 夜に行っても、他にお客がいるわけではなく、祝開店という雰囲気ではありませんでした。それでも、カラオケボックスに入り、カラオケスタート。すでにレーザーではなかったのですが、選曲をすると、お店でセットするという方法だったように思いますが、それが、どういう理由かわからなかったのですが、うまくいきません。 同じ曲が何回もスタートしたり、いつまで経っても曲が始まらなかったりと、祝開店ではなく、開店前の予行演習につきあった感じでした。もっとも、次に何の曲が流れるか、本当に流れるかなど、ミステリーカラオケみたいでしたが、さすがに料金はマケてくれて、再度、ノベルティをもらいました。 そのあと、オペレーションも順調になり、そのうちに通信カラオケとなって、新曲など曲目も増え、大声を出して歌ってストレス解消、ということで何回も行って、カラオケボックスの中で日本を感じました。残念なのは、数年前、再開発のために閉店してしまったこと。2月22日になると思いだします。店の名前はデュエット、お世話になりました。
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今日も思いつくまま・・2015年2月16日(月)
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毎年3月、JRグループが一斉にダイヤ改正。今年は、北陸新幹線が長野から金沢まで開業するという大イベントと、上野東京ラインの開通、そして、北海道新幹線開業準備での青函トンネル内の作業もあり、寝台列車、「北斗星」、「トワイライトエクスプレス」が定期運転終了となります。 ニュースでは、ダイヤ改正ひと月前の指定券発売で、最後の「北斗星」、「トワイライトエクスプレス」の切符と、北陸新幹線一番列車の切符があっという間に売り切れたと報道されていました。すでに、プラチナチケットとして、オークションでは100万円以上という話を聞きました。すごいですね。 北陸新幹線開通で気になるのは、これまでメインルートのひとつだったほくほく線。越後湯沢から、新幹線以外では日本最高速の160キロで走った「はくたか」がドル箱だったのが、これからは純粋ローカル線として生き残っていけるかということ。豪雪で有名な地域を走り、沿線人口も多くありません。 集客力のある観光地があるということでもないので、大丈夫かなとかねがね思っていました。東京と北陸をショートカットするために開通したほくほく線の使命は終わり、あとはどうなるのだろうかと心配していました。確かに、これまでのような特急一時間に1本走る幹線としての存続は無理。自社保有の「はくたか」車両も売却するようです。 もっとも、最初から、いつかは、この時が来るということがわかっていたので、特急が線内を通るというメリットを最大限に活かし、通過料をしっかりため込んでいたようです。しばらくは、この蓄積で会社は安泰と報道されています。もっとも、それでは、受け身というか、守りというか、会社の存続が目的になってしまいます。 ということで、北陸新幹線の駅が出来なかった直江津などの街と東京の最短ルートとしては、まだまだ存在価値があるという点に着目した高速列車を設定するという話です。これまでの新幹線にくらべ、北陸新幹線が長野から北陸までの間、大きく曲がっていることも追い風かも知れません。ほくほく線のチャレンジ、乗りに行くつもりです。
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今日も思いつくまま・・2015年2月9日(月)
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NTT固定電話の電話帳、長く安泰だと思っていたのが、まさかの固定電話減少。携帯電話があらわれ、インターネットになっても、固定電話は家庭や事務所の必需品として減らないと思っていたのが、21世紀になったころを境に減少が続いています。最初はNTTから、ケーブルTVの電話や他社、IP電話への移行でしたが、それだけではありませんでした。 一人暮らしの固定電話なしが、徐々に増え、固定電話の電話番号を書かなくても、信用度が落ちないというか、むしろ、お店の予約の際には、携帯電話の番号を聞かれるようになって、家電から個電になったことを実感します。いつの間にか、自分の家の固定電話を使う回数も激減していました。 固定電話の電話帳、それも広告によってすべての費用を賄っているビジネスモデルが成り立たなくなってしまいます。最盛期の広告収入が15年以上かけ、3分の1以下に減少してしまいました。それでも、広告収入が500億円以上あるということが不思議なのかも知れません。まだまだ、捨てたものではない部分もあります。 電話帳の性格は、NTT固定電話の電話番号簿というものと、自治体やくらし関係の情報や企業の電話番号が掲載されているという生活やビジネスのガイドブックという二つの側面を持っています。2番目の性格、ライバルもありますが、網羅性やフレッシュ性、永年の歴史やブランドイメージなど、有利な点もありそうです。 3月からスタートする、NTT東西会社の光ファイバーサービス卸売りで、ドコモも携帯電話おtわせて、ドコモ光というブランドで、光ファイバー回線を販売することになり、固定電話の減少スピードが加速することになります。ということで、いよいよ、タウンページは地域とくらしのタウンページ色を強めることが求められることになります。 固定電話加入者を探して配達するという仕組みも、徐々に高コスト化し、時間もかかります。むしろ、固定電話のあるなしに関わらず、全戸に配布するポスティングの方が全体として安くなるケースが多いこともあります。ずっと変わらないと思っていた電話帳ビジネス、大きな変化を求める波が来襲。厳しさを楽しさにしたいものです。
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今日も思いつくまま・・2015年2月2日(月)
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観光地の老舗甘味。席に着く前に食券を買えというルールでしたが、レジで待っていても、誰も振り向いてくれませんでした。目の前を何人もの店員が忙しそうに動いているのですが、目を合わせようとしていません。店の中には空席も多く、空いている時間帯でした。 少しボリュームを上げてすいませんと声を出したところ、その中の一人がいやいや目を合わせ、お待ちくださいと一言。やっと食券を買えて、席についてからも同じ。誰も気がついてくれません。呼びに行ってもダメ、こちらの方も時間がかかりました。もっとも、品物が出て来るのはやたらと早く、オーダーが入らないので厨房も暇だったみたいです。 やっとオーダーを取りに来たおばさん。壁に貼ってある、来店した芸能人と映った写真のおかみさんと似ていたような気がしました。20年以上前の写真なので、イメージが違いますが、そんな気がしました。確かにオーダーが来てからのプロセスは普通の店以上に早かったので。 この店、老舗ですが、観光客が多く、有名店なので、バスツアーが寄る店にもなっています。お客を見ても、方言が聞こえ、リピーターという感じではありませんでした。ことわざにある、旅の恥はかき捨て、と同じかも知れません。二度と来ない客にサービスはいらないということなのでしょう。 おもてなしの国、日本を売り込もうとしていますが、この点では、チップを貰いたいため、一元のお客にも笑みをたたえた応対をするニューヨークのレストランの方が、おもてなしそのもののような気がします。この店のような応対のない、感じの良い店もいっぱいありますが、もう一度行きたいとは思いません。 おもてなしって、特別のことではなく、電車やバスの中で、優先席に座ってスマホに熱中する若者や、立派な紳士が老人に席を譲らないという国では、単なるキャッチコピーに過ぎないのではないかと思ってしまいます。人のふり見て、我がふり直せ、自分から実行しなければと思いました。
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今日も思いつくまま・・2015年1月26日(月)
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数年前、近所の駐車場はいつも満車でした。特に、雨に濡れない高速道路下は、月額4万円くらいだったと思いますが、常に満車。アパートの駐車場も2台目はダメということで、こちらの満車状態が続いていました。駐車場難民も多かったのではと思います。 ところが、今、アパートの駐車場、24台のうち、8台空いています。高速道路下も、空有り。新宿まで歩いて20分弱という立地を考えると、クルマなしでも十分生活していけます。というか、正直なところ、バッテリーが上がらないように、2週か3週に一度エンジンをかけ、一回りをするのが、マイカーです。 昔は、18才になると、免許を取って、一日も早くクルマを持ちたいというのが男子の希望でしたが、今はそうでもないようです。そのころ、石油ショックで、戦後ずっと続いていた右肩上がりが一旦休止の時期もありましたが、団塊の世代が市場をけん引し、再び成長軌道に戻りました。 クルマを保有することがステイタスだったということもあったと思います。昭和30年代に言われた最初の三種の神器、テレビ、洗濯機、冷蔵庫から、次の3種の神器、クルマ(カー)、クーラー、カラーテレビの3Cになったこともあり、クルマ保有はひとつの到達点。年々、販売数が増えていった時代でした。 今のクルマ、大事で、気にいっています。たまに、ディーラーで新車に試乗しても、やっぱり、今のクルマが良いと実感するだけなので、まだまだ売ろうとは思いません。次に欲しいのはクルマはクルマでも、自転車です。気にいっているのですが、少し高いこともあり、買うという決断には至っていません。 クルマが元気だったころって、世の中も元気だったと記憶しています。石油ショックで高度成長が一旦お休みをしたあと、再度ジャパンアズナンバーワンと言われるまでになったころ、懐かしく思い出します。が、年令によって食べ物が変わるように、考え方、行動もアジャストした方が良いのかも知れません。
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今日も思いつくまま・・2015年1月19日(月)
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朝7時の飛行機で女満別。午後からは雪という予報でしたが、すでに朝から雪が降っているようでした。引き返すこともあるという条件付きで運航。実際、昼の便は引き返しになり、そのあとは欠航。千歳空港は一部の便だけが運航し、千歳空港で夜明かし人もたくさんいたようです。 目的地は北見、女満別空港からクルマで30分強。電話帳の配達現場を視察。一番厳しい時期に北見や網走など、オホーツク地区の配達をしています。届けた先から、なんでこの時期に発行するのと言われることもあるようです。毎年発行なのですから、確かに、時期は考えた方が良いかも知れません。 前日までは、おだやかだったのが、今日は、外に出ているだけで体に積もるくらいの雪。クルマで走っていると地面と空の栄目が見えなくなる、ホワイトアウト現象も経験。山奥ではないので、少し走れば、建物や樹木があり、方向感覚を失うということはありませんでしたが、確かに一番厳しい季節です。 固定電話を使っていただいている住宅や事務所に配達をしてもらっていますが、目印の少なく、建物も点在しているので、探すだけで一苦労、端末を立ち上げて、シミュレーションをしましたが、聞く人が歩いているわけではなく、探すことがいかに大変かを実感できました。 探して、確認し、端末に入力するというアクションがなくなるというだけで、全戸に配達する方が手間がかかりません。一部地域では、自治体と連携し、電話帳から一歩進んだ、地域とくらしのメディアとして発行し、ポスティング方式で全戸に配布しています。あらためて、地域にあった方法で、全国に拡大しなければと痛感しました。 帰りは、旭川まで列車。女満別空港が欠航のために利用した人もいたようですが、途中はほぼ無人で、風景は雪と樹木。一日1本しか停まらない上白滝駅も通過し、旭川まで。幸い、千歳、女満別と違って、旭川空港は無事。少し遅れましたが、羽田空港に到着。長い長い一日でした。
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今日も思いつくまま・・2015年1月12日(月)
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夕張市の財政破たんのニュース、ビックリした記憶があります。考えてみれば、費用にくらべ税収の少ないところへ、国からの援助である地方交付税交付金で赤字が埋められず、借金もできないということになれば、支払いもできず、倒産ということになります。地方自治体でも倒産ということがあるのだと、あのころはまだまだ甘かったという気がします。 少子高齢化で人口がどんどん減っている中で、ダウンサイジングがうまくいかなければ、支出が収入を大きく、上回り、成り立ちません。補助や借金でなんとかなっていればですが、夕張市の場合、他の自治体に先駆けて、破たんしてしまったということです。理屈ではダウンサイジングと言っても、実際には簡単ではありません。 地下鉄の建設をしないことになったあと、建設技術者をどうするかという具合の問題があちこちに出てくることになります。高層道路や一般道路、住宅などのインフラも同じです。右肩上がりを前提に必要だった仕組みや人材が、いらなくなったと言って、すべてやめるというわけにはいきません。 アメリカ、フィラデルフィアの荒れ果てた旧市街と、明るい新市街のコントラストを見て、日本だったらどうなるのかと思ったのが10年以上前のことですが、シャッター商店街や、空き家の多い街、など、あちこちにあり、地方だけではなく、都市の近郊、東京でも、場所によっては同じような状態を見ることになるまで、そんなに時間はかかりませんでした。 ニューヨークのハーレムや、ウエストサイド地区のように、一旦は捨てられたような場所が再開発で活気を取り戻していますが、観光客を呼べる力があり、人口そのものも減っていない富の象徴のような大都市だから可能なのかもしれません。夕張市が再生できるかどうか、楽観的な見方が出来るとは到底思えません。 そんな中、タウンページは、固定電話の電話帳からの大変身をしようとしています。少子高齢化、独居高齢者増、3世代同居減や社会インフラ、生活インフラの減少などの中、困ったとき、イザというときや防災に役立つ、地域とくらしのメディアとして、使ってもらえることをめざし、全住居、全事業所に配達することにしています。今は40%程度ですが、2016年ころには100%にしたいと思っています。
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今日も思いつくまま・・2015年1月5日(月)
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新しい年が始まりました。早いもので、21世紀になってから10年以上経ちました。あのころはまだ40才台だったのが、年金受給年齢に達し、今年の9月で63才。長かったサラリーマン生活も終盤戦、大学を卒業して40年になります。元気で毎日出勤できるのはありがたいこと、今年もよろしくお願いします。 昨年末、風邪をひきました。毎シーズン1,2回は風邪をひくので珍しいことではありません。高熱も出ないので、インフルエンザではなさそうなので、毎度自然治癒力に頼り、みなさんには迷惑をかけることにはなりますが、いつものように、休まず、出張にも行って、宴会を何度かキャンセルをして、早帰りしただけでした。 おかげ様で、12月最終週にはなんとか復活して年末年始を迎えることができました。が、ひとつ異変が。というか、単に怠け心だったとも思うのですが、年賀状を書く気が全くしなくなったということでした。12月中盤の土日が、風邪の治りかけだったということもあり、ひたすら休息でした。 今年、プリンターを買って、無線LANで印刷をできるようにしたつもりが、パソコンから印刷をしようと思うとエラーになってしまうという事象が発生。iPadからだと問題ないので、取扱説明書や、Webサイトで調べたものの、決定的な解決にはならず、ヘルプデスクに電話しなくてはと思いつつ、そのままにしてしまいました。 次に、筆ぐるめ。年一回しか使わないので、毎度、使い方で迷子になるのですが、年賀状に取りかかる前、住所を調べようと思ったところ、一覧表がどうしても表示されず、住所さがしで困ってしまいました。もっとも、そのあと、この問題は簡単に解決したのですが。 それと、年賀状印刷で、トラブル発生。まずは、文章を削除しようと思ったら、今年から有料になり、さらには一旦完成したら、文章削除忘れということで、もう一度刷り直し。お店の方も困りますが、新宿ITOYAに3回行くことになりました。最混雑時より前だったのが幸い。 などなど、意欲を削ぐようなことが起こっていたところに、風邪で休息。すっかりやる気なしが続き、31日になって少し書き始め、1日から返信スタート。結局、2日までに300枚刷った、印刷分は終了し、追加で購入。年令のせいだけではないと思いますが、やる気の完全喪失、初めての経験でした。老化の予告編だったのかもしれません。
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今日も思いつくまま・・2014年12月29日(月)
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今年は26日が金曜日だったので、この日が仕事納めの会社が多く、1月4日(日)までの9日間連休。クリスマスが終わったという実感が薄いままに、休みに突入。ということで、余計にあっという間という感じがしてしまうのかも知れませんが、あと、ほんのわずかで2015年。 15年ほど前、ブログを開始した時には、ニューヨーク住まい。2003年に帰国して以来、ほぼ毎年、行っていることもあり、ニューヨークに住んでいた記憶はついこの間。年令を加えるほど、時間を速く感じると言われていることを考えると、次の15年もたぶん、あっという間。毎日を大事に過ごしたいものです。 昔のミステリードラマの再放送。筋書や俳優だけでなく、面白いのはクルマや電車、ビルその他もろもろ、時代を感じさせるもの。携帯電話を使っているか、その形は、などなど。それと興味深いのはタバコ。昔の刑事ドラマでは、嫌煙権という概念はゼロ、スパスパと吸っています。 大昔かなと思ってみていると、気がつけば、すでに国鉄がJRになったり、公衆電話もテレホンカードが使える緑になったり、など、そんなに昔ではないと気づくこともあります。あとは、ファッション、肩パッドが入った服と髪型、バブル真っ盛りをあらわすものが出て来ると、今ではないと実感。 早朝とかにBSでよく放送している音楽のある風景という番組。要は和洋楽の懐メロCDやDVDセット通販の番組ですが、結構良く出来ていて、ヒットした当時の映像や、本人が出演している画像が流れると、自分は何をしていたのかと思ってしまいます。実は1セット買ってしまいました。 江戸や明治はすでに歴史ですが、まだまだ違和感のある昭和時代というフレーズもだんだんと慣れてきたホンの少し前。リアルの記憶と懐かしさ、時間の速さ、いろいろな思いが交錯します。そんなことを思って迎える2015年、今年同様、あとで良かったなと言えるようになりたいものです。来年もよろしくお願いします。
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今日も思いつくまま・・2014年12月22日(月)
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今年の来日客が1200万を超える勢いだどそうです。1000万をめざしてというスローガンだったのが、ずいぶんと増えたものです。確かに、街で外国人を見かけることが多くなっていると実感。日本人と区別の難しいアジア系もいるので、もっと多いのかも知れません。 アパートの近所にあり、ニューヨークで発行された東京のガイドブックには掲載されている刀剣博物館を訪ねる外国人もしょっちゅう見ることができます。近所でガイドブックやスマホを手に迷っている外国人のほとんどは刀剣博物館を探している人です。確かに、わかりやすい場所ではありません。声をかけて教えてあげると喜んでくれます。 知り合いの台湾人に聞いた話、空のスーツケースを二つ持って日本に来るそうです。理由はショッピング。メイドインジャパンだけでなく、ブランド製品をいっぱい買って帰るということ。確かに、欧米からの距離は、台湾より近く、これまでは販売数量も多かったので、値段が安いということでしょう。 昔、1ドル360円から、変動相場制になり、あれよあれよという間に、1ドル100円を切るくらいになったころ、日本の給与水準、生活水準も上がったので、外国製品が安いということを実感したのと同じなのだと思います。少なくとも、ニューヨークではワンコインでは昼ごはんを食べることは不可能です。 アジアの国で、ローカルフードを食べると、まだまだ、安いと思える値段ではありますが、スターバックスコーヒーや、マクドナルドの値段はそんなに変わりません。そう考えると、日本の物価の安さと、多様さが大歓迎されているのではと思います。成長国のバトンタッチなのかも知れません。 おもてなしの国とは言っても、歩道上の植え込みがゴミ箱になっていたり、イベントのあとはゴミだらけ、改築のため閉鎖した国立競技場周辺も、ゴミが目立つようになっています。箱ものを作ったり、無駄な投資をするのではなく、ゴミの捨てにくいきれいな街にするのはどうでしょうか。お手本はシンガポールかも知れませんね。
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今日も思いつくまま・・2014年12月15日(月)
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クリスマスツリーもあと10日、そのあとにはお正月。待ち遠しかった子供のころは、なかなか進まなかった時間が、今はあっという間。1才の時から、年を経るごとに、年令分の1の速さで一年が過ぎるという感覚になるという話、なるほどと思います。それくらい短く感じた一年でした。 石油ショックが大学生のころ、40年前でした。ものごころついたというか、記憶のあるのは4才か5才から、1957(昭和32)年から1958(昭和33)年のこと。そのころから、石油ショックまでの間、15年ほどは戦後復興が成長につながり、右肩上がりが続いていました。 テレビが家に現れたのは、確か4才の頃、近所でも早い方だったので、近くの大きな家のお手伝いさんが、家で紅白歌合戦を見ていた記憶があります。大きな家でも、テレビがなく、まだまだ珍しい、新しいもの好きだったのかも知れません。もっとも、洗濯機、冷蔵庫、扇風機の登場はそんなに早くなかった記憶があります。 電話の登場は、6才の頃。クルマは10才。そのころ、やたらと放送されていた、アメリカのホームドラマにはとても及びませんが、年々歳々、家に電化製品が増えていきました。働く人の給料、国の富も年々増えるのが当たり前。もはや戦後ではないという言葉はその頃を正しくあらわしているのでしょう。 1964(昭和39)年の東京オリンピック、1970(昭和45)年の大阪万博で、日本も一流国の一員になれたという実感、あのころ持ったかどうか記憶にありませんが、欧米に追いつくというのが夢から現実になったことは感じた記憶があります。石油ショックまでは成長一直線でした。 石油ショックのあとも、休憩はありましたが、バブル崩壊までは成長を信じていました。小松左京の小説、「日本沈没」も物語でした。いろいろな意味で、年令的に逃げ切れるようには思います。年金も、強くなる自衛隊も、貧富の格差も。それでも、老化や自然災害、あのころの夢が、今は不安です。
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今日も思いつくまま・・2014年12月8日(月)
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日本時間で、太平洋戦争が始まってから73年。9月11日の直後、当時のブッシュ大統領の口から、9.11のワールドトレードセンターへの攻撃は、真珠湾攻撃以来初めてのアメリカ領土への攻撃というフレーズが出てきました。正直なところ、エッと思いましたが、間違いのない事実です。 ブルックリンで、日本人だということで、襲われるという事件もあり、怖い思いもしました。会社やマンハッタンのアメリカ人から、そんな雰囲気は少なくとも表面的には何も感じませんでしたが、根底にはそんな思いがあるんだろうなという気もしました。忘れませんよね。広島の原爆と一緒です。 早慶戦で盛り上がる早稲田大学と慶応大学の関係にたとえるのも妙ですが、親友同士であっても、早慶戦では自分の大学を応援し、ゲームに一喜一憂することになります。集団の気持ちと違っても、誰かが何かをすることで、一気に流れが変わり、それ以外の選択が難しくなるのかも知れません。 アメリカ国旗の模様のリボンをつけたり、アメリカ国旗模様のTシャツを買ったりしました。それぞれ活躍することはありませんでしたし、今となれば笑い話になってしまいますが、テロ集団の中に日本人がいたり、日本人と判別のつきにくい国の人が混じっていないかと心配しました。 演説で真珠湾を引用したブッシュ大統領が、激励に来たイギリスのブレア首相と肩を組んだワシントンでのイベントに、当時の小泉首相が来てくれれば良かったのにと思いました。初めての経験だったこともあり、必要以上に怖かったのかも知れませんが、パレスチナ紛争でもわかるように、真珠湾の恨みはまだまだ消えていません。 自衛隊が海外に派遣され、友軍であるアメリカに変って、紛争に関与することになった場合、日本人、日本にターゲットをあてた攻撃やテロがいつ起こっても仕方ないということになると思います。戦争が終わって70年。日本がなぜ成長できたかを考えると、最近の動き、正直なところ、不安だらけになります。戦争は理屈ではなく、はずみかもしれません。
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今日も思いつくまま・・2014年12月1日(月)
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電車やバスの中の風景。ベビーカー問題が論争になっていましたが、まわりに迷惑をかけないようにという気持ちが見えれば、誰も文句を言わないのでは、ベビーカーを武器に入りこむという感じだったり、ドアをブロックして、車内ダムになってしまうのでは、単なる邪魔です。 以前、閉まりかけたドアに、ベビーカーを突っ込み、閉まらないようにして乗り込むという人がいたという報道がありました。事故にでもなったらという想像力ゼロ。事故になると回転ドアで遊んでいた子供事故と同じ、ビルや鉄道会社が非難されるのは、おかしいと思います。アメリカだと、親が罰せられるはずです。 駅に着いても何もせず、スマホをいじっていて、降りる人がすんで、乗り始めてから降りはじめる人も結構見ることができます。車内に入った途端、後ろに人がいることをまったく考えずに、ドアの前で障害物になってしまう人とも同じで、乗降の流れを妨害してしまう、これも迷惑ですが、徐々に増えているような気がします。 バスでは、車内事故防止のため、バスが停まってから、立ってくださいと放送しているので、仕方ない面もありますが、それにしても、まったく立ち上がる準備をしていないで、発車を遅らせるというケースはよく見る光景です。乗車時にスローモーションのように、財布を取り出す人も同じです。準備しておけば良いのに。 毎度、毎度、イライラしていると、精神衛生上良いことではなさそうなので、なるべく気にしないようにしていますが、近ごろの若い者はだけでなく、立派な大人でも同じです。まずは、自分が邪魔になったり、車内ダムにならないよう、気づかいをしなければと思ってはいます。時々、自信喪失する時もありますが。 あれこれと乗車マナーを放送している国は、たぶん、日本が一番多いとは思いますが、あまりにもしょっちゅう放送されると単なる音になってしまいそうです。自分だけの空間ではないとみんなが思って、お互いに譲り合い、車内で快適に過ごすのは簡単ではありません。まずは、自分のセンサー力を高めるようにしなければと思っています。
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今日も思いつくまま・・2014年11月24日(月)
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電車の中の光景。83才の母親と一緒に乗った、小田急の急行。途中駅からだったので、座れませんでした。ドアの横の立って、つかまり棒につかまっていました。横の座席には中年のご夫婦。奥さんの方は気にして、聞こえませんでしたが、「あなた、立った方が良いんじゃないの」って話をしているようでした。 電車やバスの中で、席を譲って良いのか、結構難しい時もありますが、一方で、くたびれてやっと座った直後に、お年寄りが乗ってきたとき、前に来ないようにと願うこともあります。どうにも立って譲る気にならず、黙って座っていたこともないわけではありません。厳しい選択です。 これまで、譲られたことは一回だけ。というより、大阪のモノレールの中で、空港へ向かうお年寄りのご夫婦が乗って来たので、立ったら、向こう側に座っていた学生らしい人に背中をたたかれ、どうぞと言われました。エッと思いましたが、ありがたく座りました。ちょっぴり複雑な気分でしたが。 優先席に堂々と座り、スマホをいじって、前に誰が来ても気がつかない若者や、30代、40代のみなさん。ラッシュの満員電車では、観察をする余裕などなく、無事目的地に着くことだけを考えていますが、立っている人もいるという車内には、結構興味深いドラマがあります。 面白いなと思うのは、サラリーマンなどに比べ、茶髪の若者が譲っているシーンを見ることが多いような気がします。スマホをいじって、無視という若者も少なくはありませんが、サラリーマンが席を譲っているのを見ることはほとんどありません。くたびれているのでしょう。 結局、ご夫婦は立ちませんでした。ご主人の方が、優先席の方に行けばと言っているようでした。15分間くらい、じっと本を読んでいました。シンガポールのように、全部のドアの横が優先席ってのは、なかなか良いアイディアだと思いました。先に降りたわれわれを見たときのご夫婦のホッとした表情、お疲れ様でした。
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今日も思いつくまま・・2014年11月17日(月)
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先週の日曜日、11月9日に高崎へ行ってきました。キングオブパスタ、パスタの祭典です。今年発行したタウンページの表紙はパスタ。タウンページなら黄色という結構浸透していたイメージを捨ててまで、パスタを表紙にしました。同時に発行した甲府のピンク、ともども、イメージチェンジをしました。 昨年のキングオブパスタ、会場は賑わっていましたが、駅から歩いて10分ほどの間に、会場に向かって歩いている感じの人は皆無。今年は、女子2人連れやグループなど、そのまま、会場まで一緒だった人たちが多く、あれっという感じでした。時間が早かったこともあるのでしょうが。 1時間早く、10時半に入場しましたが、会場は大混雑。15店舗あるブースも大行列でした。昨年は大行列店とほぼ行列なしの店があり、上手に組み合わせることで、効率よく試食が出来る状態でした。1000円で3回試食から、1500円で5回試食にした影響もあるかも知れません。 テレビ局の取材も目立ちました。タウンページ発行前にパスタの街高崎を取り上げ15分以上もかけてニュースで放映したTBSも来ていました。先週の放送では、前回同様、あのタウンページでも表紙で採りあげたパスタの街高崎というフレーズで、タウンページまで話題にしてくれました。 30分や1時間並ばなければいけないとなると、なかなか食べられませんでした。ということで、途中でギブアップ。雨の降りそうな天候でなかったら、もっと混雑をしたのではと思うくらいです。隣で、スィーツのイベントも開催されていたので、相乗効果で来場者が増えたのかも知れません。 12時前に会場を出たところ、100人以上の人が入場制限で行列を作っていたほど。タウンページが表紙をパスタにしたあと、取材が増えたという話なので、パスタの街高崎を多少盛り上げることが出来たのではと思ったりもしました。それにしても、地元イベントの力、痛感しました。
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今日も思いつくまま・・2014年11月10日(月)
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前回も書いたように、初めてのバンコク。空港からホテルへどうやっていくか、ガイドブックを読んだら、メーターを倒さなかったり、遠回りをされたりと、タクシーにボラれる危険があるとか、書いているので、不安でした。油断しないように、厳しく書くのはわかりますが、どうしたら良いか迷ってしまいます。 結果は明るいうちに、空港に到着したこともあり、思い切ってシティラインという電車に乗り、一回乗り換えで、中心部にあるホテルへ約40分。料金は61バーツ、200円強でした。駅からも、そのままビルに入れたので、結果OKでした。夕方の渋滞にあわなかった分、早く到着。 タクシーは350バーツ(1000円強、リムジンは1200バーツ(4000円強)だったので、思い切り安く済んだということになります。もっとも、ビジネスクラスに乗っているような人より、空港で働いている人や、バッグパッカーが中心でした。きれいな電車で不安もなし、快適でした。 急速にインフラが整備されたり、グローバルチェーンのホテルでの快適な環境の中にいると、混沌としたバンコクの街とは無縁ですが、大きなショッピングセンターからほど近い歩道や、路地に入ると、アジアそのものの街が同居しています。屋台がまとまっているシンガポールとは若干違います。 唯一覚えた、タイ語がカオマンガイ。シンガポールでは海南鶏飯と呼ばれているチキンライスです。ガイドブックでみた小さな専門店で、英語が通じない中、カオマンガイを注文しました。おかげ様で予想通りの味で、美味しく食べました。値段は飲み物込で50バーツ強、200円以下でした。 一方で、きれいなショッピングセンターのレストランで食べたチャーハン、こちらは飲み物込で400バーツほど、ずいぶんと値段が違っています。これが社会を表しているのかも知れません。お金持ちはびっくりするほどですが、日常の生活はまだまだ安いようです。また、行きたい街です。感じたいもの、まだまだ山ほどあります。
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今日も思いつくまま・・2014年10月27日(月)
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初めて、タイのバンコクに来ました。アジアでの滞在はシンガポールがほとんど、あとは香港、ソウル、北京に滞在をしただけでした。バンコクのイ メージは、クルマの大渋滞や、いろいろと事件が起こるとか、人はやさしいという話と、裏腹に、何か怖いという印象でした。空港からホテルまでどう やっていくか、無事にタクシーを使えるか、心配でした。 タクシーも、以前に比べれば、問題が少なく、よほどのことがない限り、事件にはならないとのことです。考えてみれば、初めてのニューヨークでも、 心配だったことが、あとになれば杞憂だったのと同じだったみたいです。結局は、電車を使いました。夕方のラッシュだったので、一回乗換えでした が、タクシーより早かったようです。 渋滞の方はまだまだらしく、会議を行ったホテルから、バスでレストランに移動して夕食をとったのですが、わずか5キロ程度のところ、一日目は約1 時間、二日目も似たような距離の別の店まで、1時間半かかりました。歩いたほうが速いのですが、60人余を確実に移動させるためには、バスが一 番、もっと近いレストランにしてほしかったとつくづく思いました。 電車の方は、そんな昔にできたわけではないのですが、地下鉄ではなく、道路の上の高架。ゆりかもめみたいな感じです。外が見えるのはありがたく、 下の高速道路や普通の道路の渋滞を横目に、街を見物することが出来ます。ラッシュの混雑は結構なものらしいですが、たぶん、東京のラッシュよりは マシだと思います。 電車は、ドイツのシーメンス社製。海外の地下鉄など都市交通の電車やバスの特色は、シートがプラスチック製だということ。最初に、海外でプラス チックのシートを見たときはびっくりでしたが、どうも日本以外はプラスチックが主流みたいです。こんなところに、日本だけ違うということがあるよ うです。ニューヨーク、シンガポールも同じでした。 バンコクの電車が日本と似ているのは、社内の路線図。日本では当たり前の、進行方向に合わせた路線図です。ニューヨーク、シンガポールは、一方向 しか路線図はないので、反対側ではどうしても、路線図と進行方向が合いません。人にやさしいと言われる、タイの人々、この面では、日本人と同じ、 おもてなしなのかも知れません。ということで、バンコクの話は来週に続きます。
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今日も思いつくまま・・2014年10月27日(月)
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電車の中で愉快ではなかったこと。たまたま、乗った在来線特急の自由席。新幹線のように、特急券を持っていないと改札口を通れないのと異なり、車内検札がなければ、特急料金を支払わず、そのまま降りることが可能になります。不愉快な感じがしたのは、内房線から来る新宿さざなみ号に秋葉原から乗った若者。 そこまでには、何回か検札が来ていたので、津田沼から乗った乗客が、座れないとわかって、次の船橋で降りようとしても、自由席特急券510円を支払っていました。こちらの方は気の毒に思いましたが、秋葉原から次の停車駅終点新宿までの間に検札は回って来ませんでした。 と思って、昔のことを思い出しました。都内から埼玉県の久喜へ通っていたとき。新幹線が出来る前だったので、特急や急行が頻繁に走り、今ほど、近郊列車が多くはありませんでした。夜になると、大宮止まりになって乗り換えなければいけないこともあり、どうしても、新潟や仙台から来る急行に乗ってしまうことがありました。 当時の急行はほとんどの場合、大宮では立っている人がいる状態。そこに旅行客ではない格好で乗り込んだときの、先客のみなさんの愉快ではない表情。ひとつは、すでに混んでいて、デッキも一杯なので、乗って来るなということ。それと、こいつは、急行券を支払う気があるのかということだったと思います。 考えてみれば、今回感じたのと同じ。結果として、検札は来ずに上野到着。握りしめていた500円はそのまま、財布に逆戻りでした。得をしたという気持ちと、やってはいけないという気持ち。そして、検札が来なかったので仕方ないという気持ちだったのかも知れません。こんなことを思い出しました。 人のふり見て、我がふり直せとはよく言ったものだと思います。立場が変わると、見方や行動が変わることは仕方ないのかも知れませんが、客観的に見ることの大切さを感じることになりました。昔からの経験を踏まえ、複眼で物事を見るようにすると、不愉快なことからもいろいろと学べるようです。ということで、どうでも良いことですが、良い経験でした。
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今日も思いつくまま・・2014年10月20日(月)
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人のふり見て我がふり直せと思うことがたびたびあります。気をつけているのは、デイパックを背負っている時、電車に乗ると手で持つようにしています。大きな旅行用にもなるデイパックやショルダーバックをそのまま、背負ったり、肩にかけているとその分、車内で体積を取り、邪魔になります。 女性の大きめのハンドバックや、柔らかいトートバックが限度だと思います。大きな旅行用にもなるデイパックやショルダーバックは形もしっかりしているため、一人で下手をすると3人分くらいの体積を取ることになってしまいます。デイパックやリュックについて注意している放送は聞いたことがありますが、大きな旅行用にもなるショルダーバックへの注意は聞いたことがありません。 携帯電話で話をしている人も、なかなか皆無にはなりません。かかってきたとき、申し訳なさそうに、電車に乗っているからと小声でしゃべるシーンは、自分でもやってしまったこともあり、大きなことは言えませんが、親子連れのきちんとした感じの親が、自分から発信してしゃべっているのを見ると、考え込んでしまいます。 服装も、態度も、携帯電話での通話以外はきちんとしている親子で、しつけも良さそうでしたが、子供の前での堂々とした動作を見ると、子供が車内では通話禁止だよと言ったらどう説明するのだろうかと思ってしまいました。子供の方も何も言いませんでしたから、別に気にすることではなかったのでしょう。 最近、飛行機の中での、携帯電話利用規制が緩和され、着陸した途端、音声以外の利用は可ということになりました。ペースメーカーへの影響も小さいということで、優先席付近では電源を切ってほしいということも強く言わないようになっていますが、音声通話はいかがなものだという感じではあります。 もうひとつ、気になるのは、優先席や携帯電話使用に対する車内での放送が協力をお願いするというトーンだと言うこと。きちんと禁止だと言ってほしいと思います。優先席に座っているのが健常者で、お年寄りが立っているというシーンをよく見ます。シンガポールの地下鉄の中では、そんなシーンはほとんど見ませんでした。
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今日も思いつくまま・・2014年10月13日(月)
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しばらく前、小田原から夜新幹線で東京に戻る機会がありました。少し早いので、ホームのベンチに座ってわかったのは、のぞみの速いこと。あっとい う間に、右から左、左から右に疾走していきます。あとで調べたのですが、同じことを考える人がいるようで、ユーチューブでスピードガンで速度をは かる動画が複数アップされていました。 東海道新幹線の最高速度は270キロ、ユーチューブの動画によれば、小田原駅通過速度の最高は260キロ程度。東北新幹線の320キロにくらべれ ばと思いますが、待っていた時間帯は夜、お盆や年末年始の最盛期ほどではありませんが、のぞみの本数が上下線とも多く、ひっきりなしに通過風景 が、右に左に見られました。 熱海のように、追い越し線がなく、目の前を走るほうがとは思いましたが、ホームドアがなく、柵だけの小田原の方が迫力がありそうですし、300キ ロで走る山陽新幹線の姫路駅は、九州新幹線の車両も走るので、新幹線通過見学のメッカだという話もあるようですが、本数を考えると東海道、東京か ら手軽に行けるのは便利です。 最繁忙期は、一時間あたりのぞみが片道10本、ひかりが2本、こだまが2本の計14本走ります。上下線合わせると一時間に28本。通過するのぞみ とひかり(2時間の1本は小田原停車)で22本、つまり3分ごとに通過していくことになります。東京近郊の私鉄でも、昼間は本数が減るので、新幹 線の最繁忙時間帯ほどには、電車が走っていません。 最初に見たときが夜だったので、昼はどうかと思い、二回目はわざわざ昼間に出かけました。結論から行くと、朝早く、本数の多い時間だったら違った のでしょうが、昼間は本数も少なく、明るいライトが速さに彩りを添える夜ほどには迫力がありませんでした。少しガックリしましたが。それでも十分 に見ごたえありでした。 通過するのぞみやひかりに追い越されるこどまに乗っていると、16両編成で全長400メートルの電車の通過時には、車両が揺れ、通過電車の速さを 実感できますが、目の前を疾走する迫力にはかないません。もっとも、いつもは、迫力のある速度で小田原を通過するのぞみに乗っているのだと思う と、それはそれで、不安にはなりますが。小田原通過新幹線、見る価値ありです。
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今日も思いつくまま・・2014年10月6日(月)
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新潟に行ってきました。新潟のオフィスで従業員のみなさんといろいろな話をしたあと、最初はワンコインパーティと称し、500円会費で、かわきもの中心、なるべくおおぜいの人に参加してもらうような宴会です。あるいは、業績表彰の副賞金を使って開催となります。今日は副賞金でのパーティでした。 二次会は、何人かで古町通りへ。いつもは、ワンコインで帰るのですが、年一回くらいの割で、二次会に付き合うことにしています。新潟では初めての二次会参加。古町通りは、新潟一番の繁華街、料亭やクラブの多い場所、行ったことはありませんが、新潟ブルースの歌詞にもなっています。 古町通り、月曜日だったこともあるのでしょうが、閑散として、人も少なく、寂しい感じでした。10時ごろになって帰る時も、賑わっているという感じではありませんでした。タクシーの運転手さんによれば、リーマンショックまではこんなじゃなかったということ。地方中核都市、いずこも同じかも知れません。 駅前の方がまだ賑わっているそうです。タクシーに乗ったり、代行を呼ばず、終電車や終バスに間に合うように宴会を切り上げる人が増えたことが理由だということで、確かに、駅なかの宿に戻るため、駅の中を歩きましたが、結構人がいました。地方都市の繁華街、商売は郊外のショッピングセンター、宴会は駅前にということかも知れません。 その駅前も、順風ではありません。今のところ、繁華街口の反対側、かつての裏口側に、家電量販店などが出来、少しづつにぎわい始めていることもありますが、北陸新幹線開通後、金沢への最短ルートだった、越後湯沢でのほくほく線乗り換えがなくなったあと、上越新幹線減便の可能性もあると言われています。 新潟のような、政令指定都市になっている地方の中核都市でも、賑わったまま、生き残ることは簡単ではありません。昔のような右肩上がりの時代での地方振興策や、ハコものなど、役に立たなくなった時代、地域とくらしを守るため、発想の転換が必要だと思います。くらしやすさのための試行錯誤が続きそうです。
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今日も思いつくまま・・2014年9月29日(月)
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会社のそばにそびえ立った虎ノ門ヒルズと、その下を通るトンネル、日本のシャンゼリゼをめざすというトンネルの上の環状2号線、通称マッカーサー道路が出来て、虎ノ門、愛宕地区が変わってしまいました。スカイツリーと同じに、観光スポットになり、ひっそりしていた休日にも観光客が来るようになりました。 トンネルは、溜池から新橋まで、JRの線路の手前で地上に出ますが、いずれは汐留から、晴海の方に伸びる計画だそうです。マッカーサー道路というくらいですから、占領時代に計画され、60年以上もそのままだったのが、今になって日の目を見て、大変化ということになっています。 数年前、道路敷地にかかった日比谷神社が、第一京浜を挟んでJRの線路よりに引っ越し。神社の引っ越しなど、珍しいことです。そのころ、近くに行くことが何回かあったので、新神社の落成、引っ越しをほぼ同時進行で見ることが出来ました。計画だけだった時代が長かったので、神様もびっくりだったと思います。 トンネルの上、地上を通る道は、新橋と虎ノ門を結ぶので、新虎通りと言うそうですが、歩道が広く、自転車と人との分離も出来ているので、歩きやすく、以前はタクシーに乗ろうか悩んだことのある、虎ノ門から汐留までの移動で歩くのがラクになりました。これで、街路樹が出来ればと思っています。 この通り、日本のシャンゼリゼにしたいという話で、街路樹も植えられ始めています。何年か経つとシャンゼリゼはともかく、盛夏にも日陰のある散歩道になるのではと期待しています。すでに虎ノ門近くにあるキーコーヒーのオフィスがオープンテラスのあるカフェとして開業しています。 真夏の猛暑時や、真冬に木枯らしの吹く時期はオープンテラスどころではありませんが、これからの季節、気持ちよさそうです。街路樹が繁ってくれば、気持ち良い季節も伸び、広い歩道と相まって、良い場所になるのかも知れません。しばらく、時間がかかりそうではありますが。 残念なのは、新橋のごちゃごちゃした街、愛宕下付近のしもた家や路地が消えてしまうこと。古い町が絶滅寸前、気がつかないうちに、空地がつながり、再開発へのカウントダウンになっていることがあります。昔から、お寺の多く、浅草などと異なり、普通の昔が残っていたこのあたり、少しさびしいです。
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今日も思いつくまま・・2014年9月22日(月)
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デング熱騒ぎは収まるより、拡散しているようですが、不思議と感染する人の数が激増することもなく、昨年の感染者250人弱に比べれば、まだ半分くらいみたいです。公園を閉鎖したから、蚊を閉じ込めることができたので、大丈夫だったからかもしれませんが、一時の勢いでは、激増し、パニック状態になりそうでした。 今までも、新型インフルエンザ、O157など、感染するぞ、パンデミックだということで大騒ぎをしましたが、結果としては、幸い、そこまで広がらず、時間の経過で、忘れてしまいました。一時、ほとんどの人がマスクとしているという異常な状態でしたが、最近は冬になっても、そんなにマスクばかりということではありません。 確かに、大騒ぎをしたので、みんなが予防し、結果として、感染が広がらずに済んだともいえますし、大昔のペストだとか、結核を考えると、予防行動が無駄だとは思いませんが、新型の感染症で少し騒ぎすぎみたいな気もします。近隣の公園が閉鎖されているところに住んでいると、こんなにお騒ぎすることなのかなと思ったりもします。 それにしても、のど元過ぎると暑さ忘れるという言葉を実感することがあります。終戦記念日、広島、長崎の原爆の日、関東大震災、阪神大震災、東日本大震災と、年に一回思い出すことに意義があるのかもしれませんが、大きな出来事が記念日になり、忘れてしまうことも確かです。閑散とした新宿ビックカメラの防災用品売り場を見ても、そう感じました。8月31日のことです。 感傷を込めて、語り継ぐとか、思い出すということではなく、経験を活かして準備することが必要だと思います。もっとも、感染症が怖いばかりに、殺菌、減菌ばかりし、無菌状態がベストだとしていくと、抵抗力がなくなり、かえって、ひ弱になりそうです。危険な目、怖い目にあうことで、危険予知能力が磨かれるのかもしれません。 たぶん、デング熱騒ぎは、本当に秋らしくなったころまでは収まり、来年は忘れてしまうということになると思います。過剰反応をして、過度にビクビクする必要はないと思いますが、気をつけておくことは何か、これは残さないといけないことだと思います。蚊がいろいろな菌やウィルスを媒介するのは確かですから。デング熱で有名になった代々木に住んで、思いました。
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今日も思いつくまま・・2014年9月15日(月)
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ゲリラ豪雨があちこちで発生しています。範囲が狭い代わりに、とんでもない量の雨が一気に降るため、排水能力が間に合わず、道路冠水や川の氾濫、土砂崩れなどが起こっています。近所でも、小田急線の線路の下、代々木駅から西参道の間の道路の一番低いところに水がたまり、クルマ3台が動けなくなりました。 都内では高いところにある代々木あたりですが、その中でもゲリラ豪雨の雨が低いところに集まり、浸水ということになります。どうして、水の中に突っ込むのかと疑問に思いますが、運転していると、道路が濡れているくらいに見え、大丈夫、走り抜けられると思ってしまうようです。 非常時に点灯する警告灯や、注意喚起する表示もあるのですが、ゲリラ豪雨のように、一気に降ると、ほんの少しの間で、状況が変わるようです。水の勢いを甘く見てはいけないということでしょう。昭和初期に小田急が開通したことで、道路を掘り下げないと向こう側にいけなかったということでしょう。 30年以上前に経験した、飯田橋、大曲と言われている場所にあった社宅周辺を流れている神田川が氾濫し、当時、社宅にしてはモダンな14階建ての建物が、フランスのモンサンミッシェルのように、水の中に浮かんでいるような状態だったことがあります。飯田橋駅から、なんとか歩いて見た光景。ビックリしました。 今、思えば、無謀なことをしました。川からの水が濁流にでもなったら、大変なことでしたが、見たところ流れていない、たまっている状態だったので、水の中、腰まで水に浸かって歩きました。当然、腰から下はびしょ濡れ、靴はサヨナラ、ズボンは確か、クリーニングで復活でした。 その時かどうか忘れましたが、豪雨のせいでの停電もあり、7階まで真っ暗闇の中、階段をのぼり、部屋までたどり着いた記憶があります。日頃便利なだけに、自然災害のため、少しでも、普通のことが出来なくなっただけで、どうにもなりません。何が起こるかわからないと痛感した経験でした。少しでも準備をしておきたいものですね。
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今日も思いつくまま・・2014年9月8日(月)
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デング熱は治まりません。代々木公園から始まり、隣接をしている明治神宮でも蚊の駆除が始まったと思ったら、新宿御苑が駆除のために閉園になり、神宮外苑と外濠公園で蚊に刺されたという人が発症したりと、どんどん広がっています。人から人にはうつらないということなので、蚊が移動しているか、うつった人がそこにいる蚊にうつしているのかも知れません。 ゲリラ豪雨といい、今回のデング熱といい、大地震だけではなく、東京が安心できません。数年前のインフルエンザ騒ぎ、パンデミックと呼ばれた時には、街中にマスク姿の人があふれ、全員がマスクをして会議するなどの奇妙な光景もあったようですが、今回も心配が先行しているようです。 閉鎖される前でも、代々木公園に人は少なく、明治神宮も閑散としていました。もっとも、昨日の神宮外苑、ヤクルト巨人戦の前の神宮球場には、大勢の人があふれ、危機感はどこにいったのという感じでしたし、中心に位置するとも言える原宿、神宮前あたりはいつもと同じ。少し安心したくらいです。 しょっちゅう、ヘリコプターが上空を飛び、うるさいくらいでした。この調子でいくと、代々木に住んでいるというだけで、蚊を連れてきたのではないか言われそうな感じです。それにしても、災害は突然、忘れたころにやってくるとはよく言ったものです。新宿ビックカメラの閑散とした防災用品売り場と、不十分な品ぞろえを見ると不安になりました。 同じ代々木で、しばらく前に起こった小田急線ガード下の道路水没、クルマが3台巻き込まれて立ち往生。なぜ、水がたまっているところまで走るのか、止まれば良いのにと思いますが、道路が水にぬれているくらいにしか見えないようで、なかなか止まれるものではないようです。用心してもしきれません。 普通に生活する、普通に生きるって大変なことだと思います。歯がシクシクしただけで、普通に生活することができなくなります。今回のデング熱、冬になって蚊がいなくなるまで安心ができません。ひょっとすると、暖房の効いた部屋だとそうはいかないかも知れません。しばらくはビクビク。安心して、安全な生活を送れることを大事にしたいと思います。
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今日も思いつくまま・・2014年9月1日(月)
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代々木公園で蚊にさされた人がデング熱に、というニュース。びっくりしました。歩いて10分くらいかかるとは言うものの、近くであることには違いありません。この間も日比谷から戻る際に、千代田線を使い、代々木公園駅で降りて、代々木公園西門のバス停で、しばらく待ってバスに乗りました。 蚊と言っても、やぶ蚊と呼ばれる普通の蚊が、デング熱にかかっている人を刺したあと、次に刺した人にうつすという具合に広がるようです。人から人への感染にはならないようですが、突然デング熱が発生したのではなく、今回、感染した人の元になった人が、日本のどこかにいるということでしょうか。 アフリカで発生し、そこで治療にあたった人を媒介にして、アメリカでも発生というニュースが流れたのがひと月ほど前。他人ごとと思っていたのがびっくり。一週間ほど高熱や痛みで苦しむとはいうものの、死ぬほどのことはないということですが、このような外来種の新しい病気、治療の方法や薬もなく、体力の弱った人には不安です。 蚊が、アフリカから飛んでくるわけではないので、多くの場合人が、あるいは輸入された何かにくっついてということが考えられます。空港には、熱が出たり、症状のある人は名乗り出てくださいということになっていますが、該当する人がすべて申告することはなさそうです。帰国した時に熱っぽいことがありましたが、そのまま通過したことがあります。単なる風邪でしたが。 外国から来日する人を1000万人にするキャンペーンをしても、なかなか増えなかった時代もありましたが、最近はラクラク1000万人をクリア、確かに増えた感じがします。特に、世界遺産宮島に来る人は外国人の方が多いのではというくらいです。これはこれで良いことですが。 日本と外国との往来が活発になると、今度のようなことが起こりやすくなります。極度に大騒ぎするのも何ですが、グローバル化ということには、こんなこともあるなと思った次第。とりわけ、近所が原因だということで余計に気になりました。広島の土砂崩れも大変でしたし、防災対策メニューが増えています。
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今日も思いつくまま・・2014年8月25日(月)
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ALS(筋萎縮症)の存在をアピールするということを目的にしたアイスバケットキャンペーンが話題になっています。有名人が氷水をかぶった映像がいろいろと流れ、日本にも上陸しています。チェーンメールのように、誰かに指名され、誰かを指名するという方法のようです。24時間に氷水をかぶるか、100ドルの寄付をするか、その両方かということだそうです。 こういうやり方については何という感じもありますが、世の中にはALSだけでなく、難病に指定され、原因も治療方法もわからない病気がたくさんあり、指定もされていないというケースもあるようです。風邪をひいても治るか不安なのが、難病になったらと思うと。知識を持っている人を増やすには良い方法かも知れません。 身近にALSになった人がいました。7,8年前、職場に転勤してきた30才過ぎの男性。経営企画担当だったので、接触する機会が多かったのですが、今一つ覇気がなく、大丈夫かなという感じでした。つまり、満足できるレベルではなく、もう少し元気にやってほしいと思っていたところ、ALS発症という報告がありました。 その後、休みがちになり、結果としてはご両親が住む仙台の職場に家族ともども移動することになりました。その後、しばらくは接触もなかったのですが、その時の彼の上司から、会ったという話を聞きました。そのころは、車いすでの移動も可能だったので、東京で会う機会があったようです。 気になっていたので、連絡先を教えてもらい、メールで連絡をとり、仙台駅そばのレストランで食事をしました。ヘルパーさんが同行し、車いすでしたが、それでも、話をすることができ、自由にならない自分にイライラしている感じがヒシヒシと伝わってきました。それから、また、少し間が空いた時に起こったのが、東日本大震災。 どうしているかなと思っただけだったところ、彼から東京も大変だったでしょうが、大丈夫ですかというメールをもらいました。この話、そのあとで、彼のお父様に話をしたところ、人を気遣う気持ちが残っていたと言って、大変喜んでいたのが、印象的でした。停電の中、生命維持装置をクルマの電源につないで凌いだことを聞き、余計にそう思いました。 何回か、お見舞いに行きました。二世代住宅で、ヘルパーさんと家族とでチームを組んでの対応。大学病院のお医者さんから、病院ではとてもできないと言われたそうです。本人の生きる熱意を感じ、またご両親から、発症前の活発な様子について話を聞きました。同じ職場に転勤してきた時には、すでに病魔に襲われていたようです。 最初は、言葉を聞き取るという状態だったのが、年1,2回行くたびに、ヘルパーさんの通訳、目で文字を書いた紙を追うという具合になりましたが、それでも、技術者らしく、いろいろな工夫やシステムを考え、家族やヘルパーさんの力を借りて、ALS患者のため、実現させていたようです。そんな工夫がひと段落した去年の年末、亡くなったという知らせを受け取りました。
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今日も思いつくまま・・2014年8月18日(月)
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いつ来るかわからない、時刻表がない、汚いとか怖いというイメージだったニューヨークの地下鉄。10年ほど前に日本製の車両に代わり、ドア開閉の時に注意放送が流れ、日本ぽくなったのがスタートで、徐々に変化がありました。最初に気がついたのは、グーグルマップで、経路検索をした時でした。 JFK空港から、マンハッタンへ空港内のシャトルと地下鉄で向かう際、グーグルマップの経路検索に表示される時刻で電車がやってきたということに驚きました。以前、同じルートを使った際、シャトルと乗り換えるAラインのハワードビーチ駅で1時間近く待った記憶があります。グーグルマップの経路検索で、20分毎に運転されているということも判明しました。 次は、グランドセントラル駅のホーム上に次の電車の行先とあと何分で来るかという表示を発見し、表示通りに電車がやってきたことも驚きでした。昔、ロンドンの地下鉄でみたあと何分が、まったくあてにならなかったことを思うと、4分毎に運転されている電車が表示通りやってくるのは、奇跡のようでした。 さらに、車内でのアナウンスの内容が充実し、乗り換え案内なども加わりました。また、今年気がついたことは、ホームでも次の電車の案内放送があり、その上、グランドセントラル駅では、効果はともかく、空調装置が導入され、蒸し風呂のような暑さが若干は軽減し、空調ダクトの下にいれば、少しホッとすることが出来ます。 昼はともかく、夜など、危なくてとても乗れないと言われたニューヨークの地下鉄ですが、電車がきれいになり、名物だった落書きもなくなったこともあって、マンハッタンを走るメインラインでは、普通に利用できるようになっています。20年以上前に恐々乗ったころに比べると、大きな違いです。 それでも、何も考えずに爆睡できる東京の地下鉄に比べれば、緊張して乗っています。時々、車内でパフォーマンスを行ってお金を集める人たちもいますし、周辺に気をつけておく必要はなくなっていません。のんびりと乗れる日本の電車は安心ですが、差は確実に縮まっているようには思います。これも街歩きの楽しみです。
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今日も思いつくまま・・2014年8月25日(月)
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ALS(筋萎縮症)の存在をアピールするということを目的にしたアイスバケットキャンペーンが話題になっています。有名人が氷水をかぶった映像がいろいろと流れ、日本にも上陸しています。チェーンメールのように、誰かに指名され、誰かを指名するという方法のようです。24時間に氷水をかぶるか、100ドルの寄付をするか、その両方かということだそうです。 こういうやり方については何という感じもありますが、世の中にはALSだけでなく、難病に指定され、原因も治療方法もわからない病気がたくさんあり、指定もされていないというケースもあるようです。風邪をひいても治るか不安なのが、難病になったらと思うと。知識を持っている人を増やすには良い方法かも知れません。 身近にALSになった人がいました。7,8年前、職場に転勤してきた30才過ぎの男性。経営企画担当だったので、接触する機会が多かったのですが、今一つ覇気がなく、大丈夫かなという感じでした。つまり、満足できるレベルではなく、もう少し元気にやってほしいと思っていたところ、ALS発症という報告がありました。 その後、休みがちになり、結果としてはご両親が住む仙台の職場に家族ともども移動することになりました。その後、しばらくは接触もなかったのですが、その時の彼の上司から、会ったという話を聞きました。そのころは、車いすでの移動も可能だったので、東京で会う機会があったようです。 気になっていたので、連絡先を教えてもらい、メールで連絡をとり、仙台駅そばのレストランで食事をしました。ヘルパーさんが同行し、車いすでしたが、それでも、話をすることができ、自由にならない自分にイライラしている感じがヒシヒシと伝わってきました。それから、また、少し間が空いた時に起こったのが、東日本大震災。 どうしているかなと思っただけだったところ、彼から東京も大変だったでしょうが、大丈夫ですかというメールをもらいました。この話、そのあとで、彼のお父様に話をしたところ、人を気遣う気持ちが残っていたと言って、大変喜んでいたのが、印象的でした。停電の中、生命維持装置をクルマの電源につないで凌いだことを聞き、余計にそう思いました。 何回か、お見舞いに行きました。二世代住宅で、ヘルパーさんと家族とでチームを組んでの対応。大学病院のお医者さんから、病院ではとてもできないと言われたそうです。本人の生きる熱意を感じ、またご両親から、発症前の活発な様子について話を聞きました。同じ職場に転勤してきた時には、すでに病魔に襲われていたようです。 最初は、言葉を聞き取るという状態だったのが、年1,2回行くたびに、ヘルパーさんの通訳、目で文字を書いた紙を追うという具合になりましたが、それでも、技術者らしく、いろいろな工夫やシステムを考え、家族やヘルパーさんの力を借りて、ALS患者のため、実現させていたようです。そんな工夫がひと段落した去年の年末、亡くなったという知らせを受け取りました。
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今日も思いつくまま・・2014年8月11日(月)
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2020年の東京オリンピック開催を前に、無料Wi-Fiを整備しなければという声が大きくなっています。確かに、確実に無料でつながるところは少なく、一回登録をしたあとは無料で使えるスターバックスでコーヒーを頼んで、パソコンを開く人が多く、なかなか席が取れない時もあります。滞在時間が長いのは、お店にとってどうかなと心配。 さて、夏休みでニューヨークに来ています。確かに無料でWi-Fiを使えるところが多く、スターバックスを探さなくても、Wi-Fiチェックをすると、多くの場所で、そのまま使えることになります。公園でチェックしたところ、近くの病院や大学の無料Wi-Fiに接続することができました。はてなとは思いますが、便利です。 セキュリティは大丈夫なのかという不安がゼロというわけではありませんが、メールをチェックしたり、Webを見たりするくらいなら良いかなと自己判断。根拠のない安心ですが、クレジットカード番号や、個人情報をというわけでないので、と思っています。確かに犯罪はパソコンを乗っ取られて発生するなどと聞くと不安にはなりますが。 もっとも、デパートで接続した際、一部のHPに接続できませんでした。フェイスブックやグーグルマップなどは問題なく見ることが出来たので、純粋日本のアドレスだとダメなのかなと思いましたが、わかりません。海外パケホーダイで、最大一日3000円払うのはもったいないかなと思うので、そんな時はホテルに帰るか、無料Wi-Fiを求めて移動します。 ホテルの部屋Wi-Fiは有料で、一日1000円程度で、パソコン、スマホ、タブレットと同時に何台も使えます。日本のビジネスホテルに慣れていると有料なのと文句を言いたくなりますが、不思議なことに、一流と言われるホテルはすべて有料だそうで、中には、低層階を指定し、ロビーの無料Wi-Fiを使おうとする人もいるそうです。(日本でも広島のシェラトンや大阪のリッツカールトンは有料でした。) それと、どういうわけか、滞在しているロビー、部屋のWi-Fiだと、OCNメールが受信OK,発信NGという状態になっています。スマホをルーターにしたテザリング(キャリアの通信回線利用)だとOKなので、相性の問題かなと思っていますが、理由は不明です。安心して使える安全なWi-Fiスポット、一旦便利を満喫すると、戻れませんね。
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今日も思いつくまま・・2014年8月4日(月)
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20年以上使った200リットルの冷蔵庫を買い替え、400リットルの冷蔵庫にしたのが数年前。冷凍庫や野菜庫が大きく、便利に感じたのも数日。あっという間にいっぱいになり、もう少し大きくても良かったかなと感じるほどになってしまいました。おまけは電気代、省エネ技術の進歩は大したものでした。 なかなか、省エネにならないのが、本や雑誌を始めとする家の中の荷物。これはとっておきたい、いつか読むかなと、どんどん増えて行きます。本だなに並べられているうちは良いのですが、そのうちに床への平積み。ギリギリの間取りであれば、どうにもなりませんが、納戸代わりの部屋などあると大変です。 とってあるものの中には、多少値打ちがあるものもあり、古書店に売るという方法もあるのですが、決断できません。ブックオフでも良いかなと思っても、運ぶのが面倒なのでなど、適当な理由をつけ、そのままです。一般ごみに出して捨てることもありますが、収集車が来るまでの間、雨が降ったりしたらと思うとたまりません。 平積みで平気なのだから、とりたてて大事にしているわけではありません。本を粗末にしてはいけませんと言われて育ったこともあり、ゴミとして捨てることに大抵抗。残さず食べるというしつけを守って、なかなかダイエットできないのと同じです。文庫本や新書は、読んだらすぐに人にあげるようにしています。受け取っていただいたみなさん、ありがとうございます。 パソコンをどうするかにも困ってしまいます。リサイクル家電となっているので、粗大ごみには出せません。プリンターやファックスは出せるのに変ではありますが、そうなっているので仕方ありません。おまけにハードディスクの中にあるメモリーをどうするかという難題もあります。写真や文書の類です。 パソコン引き取り、廃棄をしてくれる会社は、送ってもらえば、メモリー廃棄証明を出しますとうたっていますが、なんとなく不安です。かと言って、持ち込みということになると、面倒なだけでなく、大丈夫かなという気になってしまいますし、簡単には行けないケースもあります。安心して頼めるところがあればと思いながら、数台が納戸代わりの部屋で眠ったままです。
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今日も思いつくまま・・2014年7月28日(月)
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昔、飯田橋の社宅に住んでいたときのことです。場所は、目白通りで通称大曲といわれるところ。上を首都高5号線が走っていて、当然ながら、そこでカーブしているので、アパートから見ると、飯田橋方面へのクルマがカーブを通過して、エンジンをふかす場所が目の前にあるということになり、決して良いところではありませんでした。 今よりも、排気ガスがクリーンではないので余計です。夏にベランダ側の戸を開けて眠ると、朝、排気ガスの息苦しさで目を覚ますなどということもあり、今から30年以上前でしたが、クーラーが常備していました。窓が開けられないで有名なアパートだったということです。それでも、山手線のループの真ん中だったので便利な住まいでした。 目白通りと並行して流れているのが神田川。思い切り掘り下げられている深い、コンクリートで固められた川。自然の風情など何もありませんでしたが、昔は情緒があったのではと思うような店が川沿いにチラホラ。もっとも、小石川の高台の下にあるこのあたり、住所も文京区水道、印刷会社や出版関係の会社が多く、大昔、太陽のない街と言われたところ。 その神田川、普段は良いのですが、そのころ、いろいろなところで氾濫をし、水害が起こっていました。常連で名前が上がるのが、中野富士見町のあたり、京王バスの中野車庫のそばでした。そこにも社宅があったので、住んでいる社員から、水害の話をよく聞きました。その後、氾濫対策でバイパスなどを作った結果、最近は水害地帯ではなくなったようです。 35年前の台風のころ、大曲が水没したことがありました。その時は、渋谷のガード下が水没したりと大変でしたが、飯田橋から先の目白通りが通行止めになっていました。警備をしている人から、川に近づかないように、道路の高いところを歩いてくださいという話でしたが、なんとか、アパート近くの白鳥橋まで歩いたところの景色はすごいものでした。 当時珍しかった14階建ての社宅が、まるでフランスのモンサンミッシェルのお城のように、夜の水の中に浮かんでいました。幸い、腰まで水につかりながら、流されずにたどり着き、停電をしていなかったので、なんとか部屋までエレベーターで上がることが出来ましたが、靴を一足ダメにし、スーツのズボンはクリーニングへ直行。 水害を想定していたため、一階が高床式だったので、部屋は全部無事でしたが、駐車場のクルマは水没し、あとが大変だったみたいでした。廃車もあったと思います。身近に経験した災害、飯田橋からアパートまでの間、大変な被害でした。水のひいたあとの掃除、消毒やその他、こんな時に、役立つタウンページ、頼もしい知恵袋になれたら良いなと思っています。
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今日も思いつくまま・・2014年7月21日(月)
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タウンページの仕事をしていると、絶望的になるときがあります。NTT固定電話の電話番号簿を固定電話に加入しているところに配って成り立っているビジネス。すべての費用、編集して、印刷、製本、配達にかかるお金は、電話番号簿に掲載している広告の代金でまかなっています。 NTT固定電話は、全盛期にくらべ、大幅に減少しています。電話で話をする機会も減り、スカイプやLINEのような手段を使うため、携帯電話キャリアを通しての通話さえ、減少に向かっています。固定電話の減少にともない、タウンページ発行数も減少しています。そんな中、タウンページに広告を出していただいているお客様には、ただただ感謝するばかりです。 自治体情報やくらしの情報を充実し、固定電話の加入者だけでなく、全戸配布により、リーチ率を上げることで、電話番号簿から、地域とくらしの情報へと、タウンページは変身をはかろうとしています。タウンページの基本機能の使い勝手を上げることとあわせ、役に立つタウンページにしたいと思っています。 タウンページを使ってもらっているのは、困ったときです。街頭アンケートでどんな時に使いますか、と聞くと、歯が痛いとか、家庭での設備トラブルなど、準備をしておくのが難しいことが起こったときに、使ったことがあるという回答が多く見られます。グーグルやぐるナビ、その他いろいろなサイトがある中、グルメや旅行などには使われていません。 紙版のタウンページでも、ネット版タウンページ(iタウンページ)でも同じです。調べて、電話をかけ、問題解決となれば、また使ってもらえることになります。広告を出して目立つお客様にかけてもらえれば、お客様の商売繁盛にも貢献したことになり、次にも広告を出してもらえます。 口コミや評価、ランキングは掲載していないので、広告で判断してもらうことになります。嘘や誇大広告にならないよう、審査をしていますので、実在しない会社や、危ない会社の広告は掲載していませんが、腕の良い、評判の良い歯医者さんはどこかということまではわかりません。 掲載を見て、使っていただいたお客様からの苦情やご意見を積極的に受けることで、利用していただいているお客様、広告主さまとの間での良い意味での緊張関係が生じるのではと思います。簡単ではありませんが、絶望状態から脱し、希望を持つことができるよう、いろいろな工夫や改善、やってみるしかないと思っています。
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今日も思いつくまま・・2014年7月14日(月)
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就職後、生命保険に入りました。選んだのは掛け捨て型、死亡保険金が高い代わりに、毎月の掛け金が安く、死なない限り、貯蓄としては残らないタイプでした。年令制限があり、支払いを受けられる可能性が高くなる年令になると、引き受けてもらえません。生命保険会社も、慈善事業ではないので、仕方ないことです。 生命保険の主力は、掛け捨て型ではなく、貯蓄型。ライフステージに沿って、いろいろなイベントごとに、出産祝い、入学祝いなどという形で払い戻しが行われる積立貯金みたいな機能と、損害保険的な事故や入院時、生命保険そのものの死亡保険金などが組み合わされているタイプです。 生命保険会社は商売ですから、すべての契約者が払い込んだ掛け金以上にリターンを受けるということのないようにしています。年齢制限とか、掛け金が増えていく仕組みとかです。また、生命保険営業員にとっては、新タイプへ移行してもらわないと実績にならないので、新商品を勧誘し続けなければならないことになります。 ここでしたいのは、生命保険の話ではなく、ライフステージ。つまり、出生から、幼稚園や保育園入園から始まる教育、就職、結婚、出産、というライフサイクルの話。標準家庭が子供二人というイメージで作られる、あなたのライフステージ。マンションを買う、家を建てるなどのイベントも、組み込まれています。 すべてが予定通り進めば問題ないのですが、なかなかそうはいきません。生命保険がカバーしてくれる事故や病気以外にもいろいろなトラブルが発生することになります。簡単なことでは、歯が痛いとか。健康保険で費用の大部分を賄ってもらうことは可能ですが、歯医者さんで治療を受けなければなりません。出来れば、良い歯医者さんを選びたいということになります。 昔の、コマーシャルの文句、こんな時にタウンページ。選ぶための、歯医者さんの電話番号、住所、広告が掲載されています。電話をかけることで、予約出来たり、感じが良いかどうか、診療時間や駐車場の有無などがわかります。広告を出していれば、電話をかけなくても、ある程度のことがわかりますし、アピールポイントが何かを知ることが可能です。 まずは、タウンページ基本機能の宣伝。もっとも、その歯医者さんが本当に腕が良いか、保険診療で間に合うのかなどまではタウンページではわかりません。選ぶためのサポートにはなりますが、クチコミとか評価が出ているわけではありません。それでも、永年広告を出し続けるということは、それだけ繁盛している、つまり、満足度が高いとも言えます。というところで次回に続きます。
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今日も思いつくまま・・2014年7月7日(月)
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飛行機はマイレージの関係もあってJAL。なるべくクラスJを予約するようにしています。1000円プラスで普通席より、足元と座席の幅がやや広く、座りやすいのがメリット。もともとは、合併前の日本エアシステムのレインボーシートが残ったもの。プラス1000円では申し訳ないと思うくらい差があり、慣れたら、なかなか戻れません。 1000円のクラスJ料金も、マイレージのグレードが上がると付いてくるポイントで支払えるので、実質負担ゼロ。と、良いところだらけですが、機材によっては、運不運もあります。座席は同じですが、小さな飛行機737だと、右側は3人がけ、真ん中に座り、両側が大柄な人だと窮屈。普通席の一番前のシートや非常口シートの方が足元が広く、座席の幅は狭いものの快適です。 また、クラスJは足元が多少広いと言っても、多少という程度なので、前のシートをリクライニングされるとそんなに余裕があるわけではありません。そのためか、最近の機種では、最初から、背もたれの角度が倒れていて、リクライニングをしなくても良いかなという具合になっています。このタイプで、さらに倒されると結構圧迫感があります。 最初に乗ったときは、リクライニングさせ、フットレストも上げていましたが、最近は何もせず、着陸態勢に入っても、何もせず、眠っていられるようにしています。何回か、着陸したショックで目が覚めたことがありました。そうなると、前の人がシートを倒したりするとあまりいい気持がしません。勝手なものです。 荷物の収納の仕方や、ひじ掛けの争奪戦、着陸した途端にシートベルトを外したり、携帯電話のスイッチオンにする人、少しよければ良いものを通路を塞いで、渋滞を発生させる人など、いろいろな人がいます。電車には電車で、クルマにはクルマで。人が迷惑をするかどうかという想像力が足りないなと思うことが多々あります。 もっとも、自分がどうかと言うと、当然のことながら、100点などと言うことはありませんが。それでも、こんなことって、一度も考えたことがないだろうなと感じさせるような人を見ると、多少ましかなと、甘い自己採点をしてしまいます。この間利用した広島発JAL、737の機内、周りに座ったみなさんのほとんど全員が反面教師でした。わがふり直せです。
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今日も思いつくまま・・2014年6月30日(月)
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あったら便利を現実にするというキャッチフレーズ、どこかにあったような気がします。固定電話の電話番号簿から、地域とくらしの情報メディアへと変身したいタウンページも、このキャッチフレーズを使えれば。タウンページ、誰でも知っている、不用品、そのまま捨てるという負のサイクルから、どうやって脱出するかです。 不安を減らす、安心して暮らすためには、何が必要か。人間、生きているといろいろなトラブルや、不幸に遭遇することになります。何もなく、幸せに暮らしたいのはヤマヤマですが、そうはいきません。挫折とか、悲しみとかの感情なしに生き続けるわけにはいきません。そんなとき、あったら便利になりたいというのが、これからのタウンページです。 たとえば、歯が痛い。今まで何の意識もなかったのが、急に痛くなると、どうにもなりません。実際には徐々に、そこに至っているのですが、ある段階を超えると、痛みを感じることになります。歯を磨き、ケアをしていると思っていても、仕方ないこともあります。そんなとき、あわてて、見るのがタウンページ。 ネットや、歯医者さんサイトに浸食されても、たぶん、シェアはかなりあると思っています。昔ながらのブランド力と言えたら良いのですが。このように、トラブルに対処するだけでなく、応急処置が記事になっていれば、受診できるまでのトラブルを軽減することになります。助かったと思っていただける方、今でもたくさんいると信じています。 さらに、定期検診のすすめや、案内が記事になっていることで、準備や予防になります。半年に一回、歯医者さんに行って、歯石を取ってもらったり、虫歯チェックをしてもらうことで、80才で20本以上、自分の歯が残る確率が上がります。80才過ぎて、固いものが食べられる、うらやましい限りです。 もちろん、準備や予防できないことがあるとは思いますが、トラブルに見舞われて、大変なのは自分だけではないということがわかることで、トラブルへの対処や軽減が出来るかも知れません。そんな役割をタウンページが担うことができれば。保存、一覧に強い紙版、フレッシュな情報、場所を選ばないネット版、両方役に立つのでは。 固定電話がどんどん増えた時代、電話帳も成長をし続けていましたが、固定電話が大きく減少をしている今、電話帳のもうひとつの機能である、地域とくらしの情報メディアという点を強化することで、あったら便利を現実にし、安心、安全なくらしの役に立つとみなさんから、評価していただくことが何より必要です。 利用していただくお客様、広告を出していただいているお客様に認めてもらうことだけが、タウンページの生きる道。改善をしたとこちらがいくら叫んでも、CMを放映しても、みなさんから認めてもらい、評価してもらわなけらば、何も始まりません。負のサイクルから脱出できるかどうか、まだまだ、険しい道ですが、可能性ありと思いたいものです。
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今日も思いつくまま・・2014年6月23日(月)
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高崎市版のタウンページ、表紙はパスタです。今回から、編集長を決め、編集、企画、営業、収支など、すべてをマネジメントしてもらうようにしました。高崎市版の編集長は、高崎のだるま屋の息子。地元に強いということに期待しました。高崎市ということで、頭に浮かぶのは、だるま、高崎観音かなという感じ。からっ風は上州全部だし、世界遺産富岡も別だし。 編集長が選んだ、表紙のデザインは何のためらいもなく、パスタでした。今までのタウンページは、黄色をイメージカラーにして、表紙のレイアウトも全国同じ。長年慣れ親しんだパターンを変えるのには、多少抵抗がありましたが、編集長の上司が、変えましょうということで、一緒に発行した甲府版ともども、イメージチェンジをしました。 知名度の高い、タウンページではありますが、一方で、いらないとか、邪魔だという声も多く、事実、私のアパートでも、配ばられた翌日は、回収箱に、封を切っていないまま、昨年の版が積み重ねられ、中には昨日配った版もあるというくらいです。イエローページのイメージが、いらないもの、不要に直結してしまっていることからも、イメージチェンジの意味ありではないかと思いました。 さて、高崎市のパスタ。編集長は、高崎はパスタの街、宇都宮の餃子のように、高崎と言ったらパスタです、と力説を繰り返し、とうとう、最後まで持論を押し通しました。発行直前には、TBS系の夕方のニュース番組の中で、パスタの街高崎が15分くらいの長さで取り上げられ、3秒ほどですが、高崎市版のタウンページも登場し、盛り上げてくれました。 昨年秋に行われた、パスタの街高崎のメインイベント、キングオブパスタ。編集長に言われ、開催された日曜日に行きました。駅前に案内デスクがありましたが、スタッフがチラシを配っているだけで、閑散としていました。歩いて、会場まで10分強、誰も歩いていません。行くのかなと思っても、途中で違う方向に曲がってしまいました。 ところが、会場に近づくと、クルマ社会の高崎、少しづつ賑わいが見え、会場は開始後、そんなに経っていないのに大繁盛。この地域の人以外、ほとんど無名だけど、地域の人にとっては、誰でも知っている重要なイベントってあるんだと痛感。15店出店しているパスタ店も、試食して、投票しようと並んでいる入場者も、小雨の中、ワクワク感があふれている感じでした。 NTTの固定電話の電話番号簿から、地域とくらしの情報誌として、ネットとも連動し、地方自治体と組んで、地元PRを担いたいと変身スタートのタウンページ。1年保存の情報誌という特色を生かした編集をしていきたいと思っています。地元の応援団と言ってもらえるよう、知恵と工夫でチャレンジです。
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今日も思いつくまま・・2014年6月16日(月)
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ここのところ、タウンページの話ばかりですが、最盛期から下がり続けているタウンページの価値、それでもアンケート調査などをすると、困った時、たとえば、歯が痛くなった時とか、水道の具合が悪くなった時とかには、まだまだ、役立ててもらっているようです。準備が出来ず、起こってしまうと困ることです。 年令的に言うと、電話をかけることの少なくなった若い人たちではなく、中高年層で使っている人がいます。それでも、この年齢層でも、ネットで調べることが増えているので、最盛期にくらべれば激減をしていますが、それでも、他の年齢層にくらべて、使っている人は少なくありません。 残念ながら、食事に行く、ショッピングをする、旅行に行ったりするという時には、専門のサイトや雑誌も多く、タウンページを見て何かするというのは考え付いてもらえません。それでも、じゃらんや一休さんなど、宿泊予約サイトにない商人宿的なビジネスホテルなど、タウンページにしか掲載されていない宿もあります。 それでも、タウンページでは名前と電話番号、住所が基本情報で、広告を出していない場合、それ以上の情報は電話をかけないとわかりません。営業時間、休業日、駐車場はあるか、特徴や売り物などなど、ネットの世界では一般情報になっている情報がないという弱点はありますが、網羅性ではまだまだ負けていません。 困ったときに使われるなら、困ったとき、ライフステージの中でのトラブルや不幸な出来事、タウンページ掲載情報で出来ること、予防や回避のための方法など、シミュレーションをしてみる価値があると気がつきました。あまり作りたくはありませんが、予防、回避をするためにも、悲観的に想定することが必要でしょう。 紙版での掲載情報を補完する意味で、ネット版タウンページでは、ネットの世界での必須情報を掲載し、さらに広告という形で、付加価値情報や写真、動画を加え、紙版でもインデックス機能を便利にしていくことで、関連のページにたどり着きやすくすることで、使い勝手をよくすることは可能です。 このような改善が、世の中で受け入れてもらえるかどうか。このほかにも、フォントやレイアウトを変えること、くらしに必要な情報を掲載すること、固定電話のない世帯や企業にも届けることなど、広告プラットフォームとして認めてもらえるような、あらゆることを行っても、受け入れてもらえるかどうかはわかりません。 忘れられた存在になっているタウンページが、役に立つ地域とくらしの情報を掲載することで、捨てられず、困ったときだけでなく、使ってもらえるようになればと思っています。紙版、ネット版が相互に特色を活かし、地域とくらしのことなら、タウンページと言ってもらえるようになることを夢に見ています。さて、どうなることか。甲府、高崎版からスタートです。
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今日も思いつくまま・・2014年6月9日(月)
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タウンページ甲府版、高崎版が完成し、それぞれ、甲府市役所、高崎市役所で、市長も同席して発刊式を行いました。甲府版は葡萄と桃をイメージした桃色と紫、高崎版はおいしそうなパスタ、スパゲティナポリタンと、表紙を黄色から大幅にイメージチェンジ、一目で変わったことがわかります。 数年前から、自治体の暮らしの便利帳を合冊したタウンページを発行していましたが、あくまでも合冊、つまりファイルで綴じたものでした。今回から、市民のみなさんのくらしに必要な事項や、知りたいことを、生活シーン別インデックスや記事に並べたり、カレンダーという形で表示し、わかりやすく整理しました。 レイアウトも変更し、以前より、見やすくなっています。文字の大きさは7ポイントで、以前と同じですが、少し見やすくなったような気がします。今後の課題は、フォントのゴシック化、レイアウトのさらなる見直し、職業分類の整理など、文字サイズを変更する前に出来ることをすべてやってみたいと思っています。 甲府版には、避難所マップやインデックスシール、高崎版にもマップを付録につけています。自治体など地元のみなさんとも相談しながら考えたものです。特に避難所マップなど防災に関する情報は、イザという時に、市民のみなさんに知っていてほしいこと。タウンページと一緒に保存していてほしいということです。 さらに、タウンページの広告や記事に、スマホをかざすと、インターネット版タウンページの画面が出現するという仕掛けを用意し、情報メディアとしての幅を広げました。アプリをダウンロードし、さらにスマホを起動するという手間が必要なのが難点ですが、使えば便利。紙とネット、それぞれのメリットを活かせます。 タウンページはいらない、そのまま捨てるという負のサイクルが定着し始めてすでに時間が経過しています。固定電話の電話帳として長い間地域発行していたタウンページが、地域とくらしの情報誌として活用してもらえるよう、甲府、高崎版からスタートです。利用、活用してもらえるかどうか、これからです。
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今日も思いつくまま・・2014年6月2日(月)
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以前、標準的な家族は、両親と子供2人でした。また、おじいちゃん、おばあちゃんと複数世代が同居する家族が普通に見られました。サザエさん一家のような家庭です。その中で、家族が支え合い、いろいろな問題が生じても、家族という単位で乗り越えるというパターンです。 変化は、東京集中に象徴される大都市集中と、高度成長の中で起こりました。集団就職、大学への進学率アップなど、実家から離れて暮らすことが激増し、Uターンで戻るという言葉があっても、基本的には大家族から独立し、家族が分割することになりました。核家族という言葉そのものです。郊外の里山が開発され、団地が登場したのもこのころでした。 住む場所が違っても、その場所で、次の世代との同居が始まれば、以前と同じだったのでしょうが、2DKの団地での3世代同居は不可能。自然と家族からの独立がスタートするということになりました。どこにでもあったような気がするサザエさん一家はどんどん夢になってしまったので、長寿番組になったのかも知れません。 サザエさんの前に放映される番組、ちびまるこちゃん一家の設定も希少価値です。じゃ、同居したら良いかというと、簡単なことではなさそうです。すでに、一番多い家族形態は単身者だそうです。転勤で家族そろって引っ越しが常識ではなく、単身赴任が常識になっています。ある意味、家族分割です。 時代も大きく変わっています。テレビ、洗濯機、冷蔵庫が3種の神器と言われた時代から、今のネット時代まで、半世紀の間に劇的な変化がありました。貴重品だった電話も、携帯電話、メール、SNSと進化する中で、存在感が減少し、その結果、電話をかけるための電話番号簿、タウンページもジワジワと要らないものになってしまいました。 現在は、急な病気や歯痛、水もれなど配管まわりや、電気のトラブルなど、困ったとき、事前に準備のできないとき、人に相談しにくいとき、ネット検索では絞り込みが簡単ではないとき、タウンページを手にとるケースが多いようです。昔で言えば、おばあちゃんの知恵、家族の知恵なのかも知れません。 少子高齢化、単身世帯の増加、限界集落の増加、大都市や中核都市への集中などの社会の変化も決してマイナスではないようです。立身出世型、右肩上がりの経済成長ではなく、地元とくらしが第一というライフスタイルの中でのセーフティネットとしてのタウンページの可能性に賭ける価値ありかも知れません。 電話番号簿として生きていけなくなったタウンページも、おばあちゃんの知恵、家族の知恵の代わりになるセーフティネット情報を提供し、地域、地元の情報満載のメディアとして生き残りをはかるという方法もあるのではないか。簡単ではありませんが、社会の変化にすがりつくことでのチャレンジ、果たして、吉と出るか、凶と出るか。
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今日も思いつくまま・・2014年5月26日(月)
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現役時代は、国内出張のほとんどない職場でしたが、退職後は国内出張が多く、いろいろなところに行っています。お客様訪問や、職場での対話会など。会社全体で転換期なので、幹部だけでなく、個々の従業員のみなさんとの直接コミュニケーションの場を大事にしています。結構いろいろな話も出てきます。 飛行機、新幹線、たまには在来線に乗って、いろいろなところへ行くと気がつくのは、団塊の世代以上の元気な方が多いこと。周りを見回して、最年少かなと思うことも多々あります。旅行できる体力のあるうちに、いろいろなところを回ってみようという気持ち、退職後の夢の一つ。よくわかります。 旅行だけでなく、移住をしてしまうという人もいるようです。テレビでも、退職後、海外に移住して、生活を楽しんでいるという番組が放送されています。物価も安く、日本での年金で豊かな生活をエンジョイできそうです。マレーシアとか、オーストラリアとか、自分でも出来そうかなという気がします。 もっとも、ご夫婦のどちらかの具合が悪くなったり、亡くなった場合のことを考えると、どうなのかなという不安もあります。移住策のコミュニティの中に溶け込むことが出来たり、お金がふんだんにあれば、良いのかも知れませんが、そうそう、うまくいくわけではないと思います。 そうなると、いつかは日本に戻るという選択になります。元々の家があれば、お帰りなさいというだけで良いのですが、家を売ったお金での移住だと、以前住んだ場所近辺に戻るのは簡単ではなさそうですし、近所との関係を考えると微妙な感じです。年配になってからの転居は、契約の難しさなど、簡単ではなさそうです。 旅行、観光のガイドはたくさんありますが、住む、生活をするということを考えると、まとまった情報や、比較できる情報を得るのは簡単ではありません。そんな時に役立つ、タウンページ(紙版、iタウンページ)、地域とくらしの情報データベースになるよう、これまでに蓄積した情報を再整理、分類し、活用できるのではないかと考えています。 地域とくらしの情報データベースで、市町村の属性を比較し、エリア版のiタウンページと、紙版のタウンページでより詳細な情報を得、そこから、市町村や地元NPOなど団体のHPにリンクできるようなイメージ。ゴミだしや、具合の悪くなったときのノウハウ、地元のならでは風習、お祭りやイベントなど、文字通りのタウンページ。実現出来ると良いなと思っています。
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今日も思いつくまま・・2014年5月19日(月)
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どうしたら、タウンページの使い勝手が良くなると言えるのか、まずは、自己満足に陥らないようにしなければということに尽きると思っています。こうしたら便利になる、この方が良いと言っても、使う方が理解、納得し、評価をしていただなければなりませんし、そもそも、使ってもらわなければなりません。 電話番号簿としてスタートした際、電話は電電公社(NTT)の固定電話しかありませんでした。今は、NTT以外のキャリアやCATVの固定電話、携帯電話、スカイプなどインターネットでの電話、メールやSNSでのコミュニケーションと言った具合に、環境が大きく変化することになりました。 そんな中、昔とほとんど変わらないまま、コストダウンのため分冊して中身も厚みも薄くなるということでは、使われなくなるのも当たり前だったのかも知れません。もちろん、いろいろな方法で改善をしようとしましたが、使い勝手を良くするとか、タウンページそのものを改善するより、別冊を出してはやめるということを繰り返すなど、結果としてうまくいきませんでした。 おまけに、NTT固定電話が減少し、かつ、電話帳そのものが役に立たない、嵩張るということで、要らないという方も増え、発行数も減少し、広告媒体価値も大幅に減り、ビジネスモデルそのものが成り立たない危機に瀕しています。それでも、インターネット版のiタウンページをあわせて600億円弱の広告売り上げがあるのは立派なものです。 最盛期のように、コミュニケーションメディアとして音声通話が圧倒的に固定電話経由だった時代から、大きく変わった今になっても、また、あと少しで利益がなくなるという状態ではあっても、まだまだ価値は残っているということです。時代に追いつかない年配者、病気やトラブルで困っている時、タウンページが使われることがあるようです。 いろいろな意味での弱者が、困った時に使いやすいタウンページにしていくことで、生き残る道があるのではないかと思っています。使い勝手も、存在も、機能も、ユニバーサルデザイン、つまり、わかりやすい、使いやすいコンテンツやレイアウトなどを徹底して行くことがひとつの道。 少子高齢化や、単身世帯の増加、限界集落の増加など、高度成長時代の社会とは全く違った社会が現実のものになっている今、困ったとき、困っている人に使ってもらっているタウンページの新しい役割もあるのではと思います。広い意味でのユニバーサルデザインによる使い勝手改善が出来るかどうかです。
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今日も思いつくまま・・2014年5月12日(月)
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早いものでゴールデンウィークも終わり、沖縄では梅雨入りです。クールビズが始まったら、すぐに半袖でも良いような陽気になっています。あっという間に夏になりそうです。良く言われるように、1才の時に比べ、時間感覚は年令分の1になるそうです。つまり、60才を過ぎた今、一年間は、1才の時の60倍以上のスピードになっているということです。 確かに、もういくつ寝るとお正月という童謡の歌詞ではありませんが、子供のころは、夏休みだったり、お正月やクリスマスまでの時間が永遠かなと思うくらい長く感じたような気がします。確かに今でも、週末で休めるなと思うと、一週間が長く感じます。とりわけ、久しぶりに5日間出勤する来週など、長く感じることになりそうです。 一方、おとなになりたいという時期から、先に待つのが、定年だったり、終わりだったりすると、早く来いというより、出来る限り時間が長いと良いなという気持ちになるのだと思います。もっとも、定年をゴールデンリタイアメントと言って、待ち遠しいという人もいるようですが、なかなかそこまでの境遇になれる人は多くないようです。 思えば、楽しい時間はあっという間に過ぎるというほど、今が楽しいわけでも、充実しているわけではありませんが、それでも、すべてが終わるより良いということでしょう。楽しかったことほど、記憶に残るという話も聞いたことがあります。つらいことや悲しみを忘れるDNAが人間にはあるという話も聞きましたので、短く感じるということかも知れません。 1日は24時間、一年365日と変わりませんが、待っている時の1時間、会議に出席している1時間は永遠に続くのではないかと思うくらい長く感じますが、楽しい時間を過ごしている時の1時間はあっという間です。最初、ゆったりとしか感じられなかった宴会も、盛り上がってくると、あっという間に2時間とか、3時間とか経過していることに気づくことがあります。 ということで、どうしたって速く感じるので、焦らず、急がず、ゆったりとした気分で過ごす時間を大切にした方が良さそうです。小田原駅で経験した、300キロ近くの速度で通過していくのぞみを見ていたときに、ゆったりと待っていることの贅沢さを感じました。もっとも、急ぐ必要のない生活になったら、時間をどう感じるのか、いささか不安ではありますが。
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今日も思いつくまま・・2014年5月5日(月)
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少子高齢化、限界集落の増加など、急速にくらしの構造が変わっています。団塊の世代の高齢化にともない、人口構造に占める高齢者の割合が着実に増えています。健康志向、病気の克服など、元気なまま年をとっても、どこかに限界があり、クオリティオブライフ(QOL)がどこかで大幅に下がることになります。 60才を過ぎてみると、自分ではまだまだと思っていても、高齢化にまつわる問題は目前というより、気が付けば、真っただ中にいることに気づきます。一人暮らし世帯数が、夫婦子供二人というかつての標準世帯の数を上回り、未婚、非婚数も確実に増加。家族という存在そのものが大きく変わっています。サザエさん一家が標準ではありません。 固定電話が毎年増加していったころ、電話帳は個人名、企業名、商店名などから、電話番号を調べるために使われていました。さらには、電話で問い合わせる、予約や注文するという習慣が一般化することで、職業別電話帳、今のタウンページの広告媒体としての価値が着実に上がることになりました。 インターネットの普及、携帯電話、スマホの普及など、タウンページをめぐる状況は大きく変化をしていますが、同時に、少子高齢化や、地方の限界集落化、シャッター商店街など、社会の構造そのものも変化しています。20年前と同じことをしていては、成り立ちません。残された強みを正確に認識し、次の手をすぐに打つ必要があります。 これまで、掲載範囲を絞り、バラエティ電話帳やコンパクト電話帳という名前で発行したり、私鉄沿線に絞った電話帳など、打開策を実行していますが、根本的な対策にはならず、しかも、数年しか持続しないということで、結果としては、何も残らず、事態がより一層、悪くなってしまうことにもなりました。 くらしの不安を少しでも少なくすること、くらしの安心をお手伝いすることが、以前よりもずっと必要な時代に、歯痛や水もれなど、困った時には使われることの多い、タウンページが、セーフティネットとして、もっと役立つようになればと思っています。固定電話の電話番号簿から、地域とくらしの情報メディアとして新生できるかどうか、賭けみたいなものですが。 タウンページ(紙版、iタウンページ)広告に、最盛期の3分の1にまで減少したとはいえ、年間600億円の広告出稿量を払っていただいているお客様のためにも、タウンページ新生が現実のことになればと思っています。ペーパーメディアの復権、紙とITの連携など、世界中でどこも成功していないチャレンジですが、やってみないと始まりません。不可能への挑戦です。
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今日も思いつくまま・・2014年4月28日(月)
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タウンページが新生できるかどうか、率直なところ、可能性が高いとは言えません。新聞もそうですが、紙媒体の落ち込みは急激に進んでいます。電子書籍や電子新聞に移行は進んでいないようですが、新聞や雑誌そのものの発行部数は大幅に減っています。付録が主役、雑誌はおまけという形態も壁にぶつかっているようです。 タウンページは広告でコストを賄っている無料誌であるため、発行部数はまだまだそこそこにありますが、電話帳は厚いというイメージはなくなり、広告自体も少なくなっています。かと言って、同じ名前で出ているネットサービスへの移行したわけでもありません。グーグルマップや食べログに大きく遅れをとっています。 それでも、600億円という広告料が、タウンページに支払われています。アンケート調査をすると知名度は90%以上、病院や水道修理など、くらしの困りごとで使っているという話も聞くことができます。逐次更新している情報なので、場所さえ、限定すれば、グーグルより便利だと言えないわけではありません。 以前は、食事や買い物、つまり消費行動の中でも主役だった電話帳、電話予約や問い合わせ、テレホンサービスなど、電話の普及に伴って、定着した習慣が、ネットの出現で主役変更になっています。が、一方で、くらしの困りごと、くらしのルールなど、出し元が自治体であったり、会社であったりすることでは、少し事情が違うのかも知れません。 もちろん、専門サイトには勝てないかも知れませんが、病気関連で病院だけでなく、薬局、休日夜間窓口を紹介する自治体や医師会を一緒に、かつ薄く、広く検索できるというのは強みになるのではと思います。それも、全国すべての地域をカバーしています。消費者ではなく、生活者を対象にして考えるということだと思います。 生活者としての旅行や行楽、逆に旅行先では生活者になるということで考えると、グーグルや食べログなどのすき間にビジネスチャンスが残されているのかも知れません。次は使い勝手をよくすること、それを知っていただくこと、タウンページは役に立つということを実感してもらうことです。紙もネットもですが、簡単ではありません。
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今日も思いつくまま・・2014年4月21日(月)
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タウンページの今は、封もきらず、そのまま捨てられるか、次の配達まで一度も使わないというケースが決して少なくないと思っています。自虐的ではありますが、捨てるために発行している感じです。インターネット版のiタウンページも利用が増えていません。検索エンジンとして考えると厳しい状態です。 NTTの固定電話が最盛期から半減している今、また、電話をする際にも携帯の電話帳か着信履歴からとなったり、そもそも電話をする機会が少なっているので、固定電話の電話番号簿である電話帳の効用は激しく落ちています。とりわけ、個人電話番号を掲載するハローページは固定電話減少に加え、掲載しない人も多くなったことで、掲載数も激減し、絶滅状態となっています。 企業名を掲載するハローページ(企業名編)の方も、一部地域で希望しなければ配達しないようになり、こちらも厳しい状態です。企業のホームページに電話番号のない例も多く、オフィスに電話をかけてほしくないという意思表示なのかも知れません。フリーダイヤルに代表される、かけてほしい電話番号と、できれば、かけてほしくない電話番号があるようです。 タウンページは、職業別電話帳。30年ほど前、愛称として募集したものだそうです。タウンページという名前は認知率も高く、NTTの電話帳のことだとわかってもらえます。職業別に分類して、名称、電話番号、住所を掲載することで、何をしている会社か、何を売っている店か、がわかります。職業別に分類された企業やお店のデータベースです。 業界のデータベースは、NTTだけではありません。他社の電話も含んでいます。これまで、他社はデータベース掲載に熱心ではありませんでしたが、業界のデータベースを使っているタウンページの価値を維持するため、他社の協力を得て、業界データベースへ掲載してもらえるよう、昨年から取り組み、結構効果があります。 冷静に考えると、この事業に将来はありません。イエローページということで大きなビジネスだったアメリカも、ホテルでの常備がなくなり、インターネット先進国として、衰退の一途を辿っています。そんな中で、現状を打破するにはどんな方法があるのか、生き残れるのか、まだまだ、解はありません。 電話をかけるための、電話番号簿から、地域とくらしの情報メディア、企業情報メディアへと変身できるか、チャレンジ中です。iタウンページも、検索エンジンではなく、地域別職業別業種別付加価値情報付データベースを有するホームページとして、グーグルやヤフーを活用するビジネスモデルとしての存在感を示せるか、こちらもチャレンジスタートです。 忘れられた存在ではあるものの、みんな知っているタウンページ。捨てられるため、使わないタウンページではなく、使ってもらえるようにするには、どうすれば良いのか、歯が痛い、水もれ、など困ったときには思い出してくれることが多いのは、ショッピングセンターなどでのアンケートでわかります。チャレンジはこれからです。
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今日も思いつくまま・・2014年4月14日(月)
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電話帳がピークだったのは1997年、今から17年前。広告売り上げが1853億円となり、2000億円まであと少し。1985年の電電公社民営化後、儲かる事業として、アメリカの電話帳会社のコンサルティングを受け、大々的に改革し、イエローページにならって、用紙を黄色にし、レイアウトなども刷新した結果です。 1978年に、待たずに電話が引けるという状態になり、毎年300万くらいの単位で、新規開通していた時代、電話をかける機会も増加の一途、テレホンサービスで情報を聞く、電話で予約するということも急速に普及し、電話をかけるためには電話帳で調べるというのが当たり前という時代、永遠に続くのではと思いました。 地味な存在だった電電公社が民営化し、NTTを前面に出し、専売公社がJT、国鉄がJRとなって、それぞれにイメージがガラッと変化し、就職人気企業としても一気に上位に。その中でも、NTTのイメージチェンジが先行し、中で仕事をしているわれわれの方がびっくりした記憶があります。 その中でも、電話帳は優等生だったのは、1997年までの12年間、毎年毎年売り上げがアップし、その結果が2000億円も目前となったのです。CMも加山雄三さんにお願いし、タウンページというブランドを前面に出した内容で、上昇ビジネスらしく頻繁に流した結果と、電話増、通話機会増の相乗効果があらわれた結果でした。 ところが、1997年前後で起こった変化を復習すると、固定電話普及がほぼ終わったこと、携帯電話の小型化が進みPHSとともに普及率が爆発的に増加したこと、そろそろ、パソコンでインターネットを使うというのが普通になりつつあったことなどでした。実はそれぞれに1997年より前から、この傾向がみられていたのですが、それでも、電話帳広告売り上げはピークに向け上昇していました。 固定電話用の番号案内サービスだった電話帳、とりわけ、NTT独占ではなくなって、DDIやソフトバンクなど他キャリア、ケーブルTVなど他社電話になると、電話帳は届かなくなったことで、配布数が急速に減少しました。携帯内での電話帳や着信履歴から電話する携帯電話、調べるのが得意のインターネット、これらは、電話帳にとって、大きなマイナスでした。 1997年前に変化が起こっても、電話帳広告売り上げが増えたことで、変化によるリスクに気づくのが遅れたのかも知れません。1997年の電話帳事業本部(当時はNTTの一組織でした)は絶頂期。そこから17年間ストップしませんし、まだまだ続きそうではあります。タウンページのキャラクターチェンジで、この傾向が止まるかどうか、簡単ではありません。
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今日も思いつくまま・・2014年4月7日(月)
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オーストラリアのメルボルンで開催されたアジア太平洋地区の電話帳関係事業者の集まりに出席しました。久しぶりの海外出張、時差が少ないのがラクですが、成田からシドニー乗換で、待ち時間も含むと14時間。ヨーロッパや、アメリカ東海岸と同じくらいかかります。 海外出張は、前の前の会社のときに、韓国に行って以来でした。今では、電話帳というより、ローカルサーチと呼び、紙版ではなく、ネット版を主流にしているようではありますが、どっこい、紙版は根強いクライアントがいるということでは、いずこの同じで、話が合いました。 ローカルサーチという概念を取り入れ、時間と場所を限定した場合、地球全体を検索するグーグルに対し、絞込みの容易さという強味はあると思います。真正面からでは勝負になりませんが、ニッチというか、知恵の出しようだと思います。方向性としては、日本と同じですが、若干の違いは感じました。 というのは、地方自治体、市区町村と組むという発想はなく、あくまでもサーチ中心だということです。地域とくらしの情報を行政情報とミックス編集することで、保存するモチベーションを創造するという考え方はなさそうでした。うまくいけば、一つのモデルになるかもしれません。 グーグルとの関係は、どこの会社でもほぼ同じ悩みを持っています。簡単にいうと、ひさしを貸して、母屋を取られるのではないかという心配です。グーグルの威勢を借りることが目的でしたが、そのうちに、営業活動をモルモットのようにしないと、純減になるということに気づきます。 グーグルや、マイクロソフト、アップルなど、アメリカ西海岸を根城にして起業した、これらの会社の将来が必ずしも明るいということではないと思いますが、いずれにしても強力な会社に対し、どのように、ローカルサーチ会社が対抗するか、簡単ではありません。 日本の電話帳は、本当の意味でのタウンページとして、電話番号情報に、地域とくらしの情報を加え、地方自治体と連携するようにしたいと思っています。さて、どうなるか、夏以降、いろいろな施策が現実化します。楽しみにしてください。
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今日も思いつくまま・・2014年3月31日(月)
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ナビがクルマの常備品となって、地図を置くことが少なくなってしまったように思います。地図を見ながら、さて、どこに行こうかということではなく、最初から目的地を決め、ナビにセットし、指示に従って、クルマを運転していれば、ちゃんと着いてしまうようになりました。おまけに、スバルのアイサイトのようなほぼ自動運転ということになると、もっと便利です。 10年ほど前のナビは、目的地の近所に来ると、案内をやめてしまい、肝心のところで迷いそうでしたが、数年後に買い替えたクルマのナビは、より目的地に近いところまで案内をしてくれるようになりました。GPSの精度も高くなり、ますます地図がいらなくなってしまいました。 地図を見ないでドライブが出来るようになってから、大きな地図を眺めて寄り道できるところを探すという楽しみが減ったように思います。面でドライブをするのではなく、場所と場所を最短距離で結ぶということになってしまったようです。いくら、社内のディスプレイを大型にしても、地図にはかなわないように思います。 最新のナビや、ナビに付属しているコンシェルジュというか、電話オペレーターでの応答では、個々のドライバーや同乗者の希望や疑問に答えたり、これまでの使い方からの学習効果や、あらかじめセットした好みに応じて、寄り道や、食事の場所、見どころを推薦してくれるようになっているようですが。 パソコンから、携帯電話、スマホ、タブレット、次にはメガネなど、装着型のコンピューターが出てきそうではあります。いずれは、念力のように考えただけで、結果があらわれる、昔の映画、プレデターのようなことも現実になりそうです。が、本当にそれだけでいいのかという疑問も同時に湧いてきます。 何か、リアルのことをするための、サポートツールだったITデバイスが、人間に指示をすることになったのかも知れません。いずれは、反対できなくなることさえあるかも知れません。今のところ、ナビの指示に従わないで運転すると、ナビはしばらくの間、自分のルートに戻そうと何回も指示したあと、あきらめて再計算してくれてはいますが。 地図を見るのは、時刻表と同じように、子供のころから好きでした。行ってみたい、乗ってみたい、どこかに行きたい、と想像を膨らませていたのだと思います。もっとも、ナビなしの運転など、この10年で考えられなくなっています。たまには、スマホやナビをお休みにし、地図を見ながら、自分の目と感をいつもより働かさせてみたいなとは思いますが、どうでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2014年3月24日(月)
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地球全体を検索するグーグルワールドが世の中に出てきて10年余り、便利になったと実感しています。今までであれば、図書館にこもりっきりでないと得られなかった情報があっという間にわかります。パソコンの時代はさあ調べるぞという準備も必要でしたが、スマホが手元にあると、そんな意気込みはまったく不要になってしまいました。 ここのところ、世の中で大騒ぎになっているコピペ論文ですが、これまでだって引用が皆無であったわけではないと思います。ただ、ルールとして、引用した部分と原典を記した注釈を入れることになっていたと思います。自分の考えをまとめるためにあたった原典の数も評価対象、学部で書いた論文でも、注釈をどれだけ入れられるか、結構頑張った記憶があります。 ところが、ネット上の情報を読み方っていうのもあると思います。グーグルでさえ、すべての情報を裏付けしているわけではないので、単純なことでは、閉店した店が検索結果で出て来るということがあります。つまり、ネット情報をコピペすると、このような危険があるということを知っていなければならないということだと思います。 ネット上の百科事典であるウィキペディアもそうですし、膨大なネット情報の中で、事実ではないこと、すでに事実ではなくなったことなどを探すことは大変な作業です。クチコミやいろいろな人の投稿によって、より事実に近づくこともあれば、意図的に事実が伏せられたり、削除されることで、事実から遠ざかることもあると思った方が良さそうです。 地球全体を検索するグーグルの力が今後、急速に衰えるなどと言うことはなかなか考えにくいと思いますが、どんどん増えていく情報をどこまで検索対象にしていくか、なんとかしないと、検索技術の未熟な人には、いつまで経っても絞り込みが出来ず、どこに真実があるのか、わからないということにもなり兼ねないのではという気もします。 時に匿名であったり、意図的であったりする、ネット上のクチコミではなく、リアルな情報にどれだけ近づくことができるかということに価値が見いだされるのではと思ったりもします。ひょっとすると、ネット情報が増えれば増えるほど、リアルの価値が上がるのかも知れません。ネット上での百聞より、一見に如かずということではないでしょうか。 項目ごとに深掘りをしている情報はすでにいっぱいあると思います。ぐるナビや食べログ、旅行関係サイトなどでしょうが、そのようなアプローチではなく、生活者(主婦も、勤め人も、学生も、農家も、)目線で、情報のリアル化のお手伝いをすることが必要だと思います。おいそしうな写真であったり、信頼できそうな生産者や担当者のポートレイトなどもひとつの解だと思います。 同じく、会社目線での情報リアル化ビジネスも成り立つかも知れません。ネットを使って、社内のプロセスを極力シンプル化、見える化し、お客様と会社との距離を近づけることで、生活者目線と会社目線を結びつけることが情報のリアル化ということになるのかも知れません。こんなところにビジネスチャンスがいっぱいありそうですが、どうでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2014年3月17日(月)
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初めて、パソコンを使ったというか、自分でスイッチを入れたのは、20年ほど前。ワープロ全盛が10年以上続いたあとだったように記憶しています。計算機として使っていたパソコンが、メールやブラウザーを使ってホームページを見る機械として、オフィスのデスクの上に乗る少し前です。 会社の企画で、仕事にパソコンを使ってみるという体験をしようということで、初心者の自分も体験者になり、当時普及し始めたISDN回線を使ってネットにつなぐという実験に参加しました。最初は仕事で使うどころか、起動して終了するだけで精いっぱい。ブラウザーも、エクスプローラーではなく、モザイク。最初のパソコンはMACでした。 あれから20年。パソコンという存在自体、スマホやタブレットなどで、影が薄くなりつつあります。お店や商品、その他検索や、買い物、商品比較、などなど、パソコンが普及するまでは、図書館や百科事典、デパートや通販、比較雑誌などの役割だったことが簡単に出来るようになり、おまけにクチコミなどの形で、情報量が無限大と言えるほど増えています。 グーグルで検索すると、多くのデータが検索結果となります。また、グルメサイトでも、いろいろな店が団体で出て来ることになりました。皮肉なことに情報量が多過ぎて、選択が難しいという結果になったり、クチコミを読むたびに、この商品、この店は良いのか悪いのか、迷ってしまうことになってしまうという事態にもなっています。 特に、自分の好みの店、使いこなしている商品の評価を見て、あれっと思うこともあり、本当に食べたことがあるのか、買って使っているのかという疑問を持つこともあります。あばたもエクボ、身びいきではないかということもありますが、検索結果の多さに困った経験があると、誰か絞ってくれないかな、何か決定的な選択肢がないかななどと思ってしまいます。 検索により引っかかるようにする技術も重要だけど、検索されるのが目的ではなく、スタートではないかとつくづく思います。魅力的な何か、決定的な何かがあることが、次のステップである、サイトでの立ち止まり、次への移動、注文するというプロセスにつながるのではないかと思っています。 ネットの普及、クチコミで、魅力のない商品が淘汰されやすくなっていると思います。一方で、魅力や商品力をどうアピールするかは、デジタルの世界ではなく、どう訴えるかという、アナログとも言える世界なのかも知れません。膨大な情報量の中で選ばれるのは、ひょっとすると、デジタルテクノロジーではなく、リアルをあらわすアナログ表現力ではと思ってしまいます。 ホームページや比較サイトのクチコミだけでなく、ツイッタ―、フェイスブックやLINEなどソシアルメディアなどの中から、リアルに近い情報を得るような仕事、それも、アナログの目で行うことが必要なのではと思ってしまいます。そんなところに、在来メディアであるタウンページの生きる道だったり、新たなビジネスの芽があるのかも知れません。
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今日も思いつくまま・・2014年3月10日(月)
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京都、上七軒の「ふた葉」というそば、うどんの店に行ってきました。寒い日だったので、アツアツの天ぷらうどん、おいしくいただきました。東京のえび天とちがって、羽根を広げるように揚げるので、一見かき揚げかなと思ってしまうような姿ですが、以前、新大阪駅の立ち食いうどんでもそうだったので、関西風かも知れません。「ふた葉」のえびは立派でしたが。 上七軒の交差点から入る道に、「ふた葉」があります。先に歩くと、芸妓さんの名前を出している置屋や、食べ物屋さんが並び、祇園と同じ歌舞練場へ入る横丁があります。祇園より、人が少ない分、落ち着いた感じで、しっとりとしています。そこを歩くと突き当たりが北野天満宮、梅で有名な神社です。 北野天満宮へ行く参詣客がメインルートで使うのは、上七軒通りではなく、北野天満宮のバス停からの道で、北野天満宮の前で直角の関係になります。そのため、上七軒通りは静かで、両側にある建物もクラシック、電柱も地中化されているので、まるで妻籠や、馬篭の宿場町のよう、タイムスリップしたみたいです。 上七軒の「ふた葉」、知り合いのおばさんがやっている店だということで行ったのですが、別に理由があります。この店、上七軒の「ふた葉」とホームページにもありますが、実際の住所は、京都市上京区今出川通り七本松西入る真盛町719だそうです。グーグルマップでは上京区真盛町となっていますが、上七軒の方が通じるみたいです。 住所はあとになってわかったので、「ふた葉、上七軒、京都、そば」で、グーグルマップ、ぐるナビで検索してみました。ほぼ瞬時に出てきます。電話番号案内(104)のシステムでも、通称に対応しているので、こちらも瞬時でした。ところが、iタウンページ(タウンページのネット版)で検索すると、見当たりませんとなります。 順番を変えても同じ、「ふた葉」を最初に入れると、福島県双葉町が出てきます。やっているうちにわかったのは、最初の言葉は地名と決まっているということです。スマホの入力画面の記載から、理解するのは簡単ではないというか、ほぼ不可能です。タウンページの仕事をしているにもかかわらず、恥ずかしいことに、ここでがく然としてしまいました。 いろいろとやってみたり、会社で担当の人と話をして、まず、「ふた葉」という店名だけを入れると、検索結果の一番上で出てきます。また、パソコンだと、画面が広いこともあり、たどり着けそうでしたが、かなりの技が必要だということがわかりました。こういった検索の主流はスマホ、タブレットになりつつある今、致命傷にならないうちになんとかしなくてはと思っています。 グーグルプレイにある、iタウンページアプリダウンロードのクチコミにも、正確な住所がないとダメだとか、店名がわかっていても出てこないという指摘がありました。いろいろな事情もあったのだとは思いますが、クチコミで指摘していただいているのに、放置してきたということは恥ずかしい限りです。さて、どう改善したら良いか、これはこれで難問です。
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今日も思いつくまま・・2014年3月3日(月)
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あと一年で1945年、終戦から70年になります。そのころに生まれた人もすでに老人といわれるようになり、確実に昔のことになっています。1952年、日米講和条約が締結され、日本が再び独立国になってからすぐの9月に生まれた私も、すでに60才、還暦を過ぎてしまいました。 物ごころついた時には、高度成長時代のど真ん中、初めて、景気低迷を実感したのは、1974年の石油ショック、トイレットペーパーが店頭からなくなったり、ガソリンや灯油が一気に値上がりしたり、ネオンが消えて、暗い繁華街など、それまで、右肩上がり一辺倒だった世の中が一時停止しました。 われわれの世代は、学生運動で東大の入試を中止に追い込んだ、団塊の世代のあと、残り香はあったものの、学生運動への参加者も減り、なんとなく、空白だなという感じでした。それでも、戦後から数えて25年余り、戦前を知っている人も多く、主義主張はともかく、戦争とか、徴兵とか、嫌だなと強く思っていたと記憶しています。 あれだけ、暴れた学生運動世代(団塊の世代)も、「いちご白書をもう一度」の歌詞のように、ロングヘアーを切って、就職し、高度成長の戦士として、日本経済を引っ張っていくことになりました。少し先輩の人たちの強さだったと思います。われわれが卒業した1975年の新入社員は、当時流行った小説、群れないかもめを主題にした、かもめのジョナサン世代と言われました。 今、勇ましいことを言っているみなさんは、われわれの世代と同じか下のように思います。日米安保の傘の下、学生運動の時期は、国内にある米軍基地から戦時下にあるベトナムへ飛行機が飛ぶという状況でした。平和憲法のもと、戦争にかかわっているではないかという主張です。ほとんどの人が憲法に疑問を投げかけてはいませんでした。 そのあと、ジャパンアズナンバーワンと言われるほどに、経済成長し、戦勝国だったアメリカを追い越すかという具合になり、アメリカの映画会社や、ニューヨークの象徴となるようなビルなどを買ったり、怖いものなしの状態になってしまいました。支配欲は経済上の優位さで満たされていたように思います。経済大国です。 今、失われた10年と言われるくらい、バブル崩壊の影響が強く、韓国、中国など、少し前に発展途上国から抜け出した国に追いつかれてしまいました。このあたりから、威勢がよくなったように思います。経済で威張れない分、政治でということかもしれません。普通の国になりたいという主張です。もっとも、最初に大声を出したのは団塊の世代よりだいぶ上でしたが。 敗戦とか、アメリカにリードされて作った憲法とか、いやな記憶をなくしたいということなのだと思います。そんな中、アメリカ、中国、韓国から、言われることに、どうしても反応し、強さを誇示したいというのは、子供のケンカを考えると、わからないでもありません。でも、日本だけ、変な国でも良いと思うのですが、どうでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2014年2月24日(月)
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14日のバレンタインデー、夕方まではチラチラと降っていただけの雪。その前の土曜日みたいには積もらず、雨になるという予想だったのですが、なかなか降りやまず、このままだと電車の運転にも支障が出るのではとなったのが、夜になってから、それでも夜半までは大丈夫という感じでした。 前回の雪で、電車があちこちで止まり、道路も渋滞になったという経験があったため、早めに帰宅指示を出した会社もあったようで、午後の東京はなんとなくそわそわしていました。前日、札幌泊まりで、午前中仕事をして、昼の便で戻る予定が、なかなか搭乗手続きが始まらず、心配でした。幸い、20分ほど遅れて羽田着、前週大変だった羽田空港に雪は積もっていませんでした。 実は、最初に大雪だった8日土曜日は、建国記念の日の祝日と週末を利用して行ったシンガポールにいたので、ネットニュースで雪の様子をチェックし、成田空港で、飛行機で着いたものの、電車、バス、クルマが動かないための、帰国難民が大量にというニュースを見て、帰国する11日には大丈夫だろうとのんびりしていました。 雨になりそうな、湿った雪だったことと、思いがけず、雨にならず、降り続いたことで、東京都区内では2週連続の45年ぶりの27センチ。45年前には、高校生でしたが、確かに、大雪のため、学校が休みになったような記憶があります。もっとも、小学生のころに30センチ以上降った記憶があり、先生が学校へスキーで来たのが、印象的でした。 すごかったのは、甲府や秩父など、いつもはそんなに降らない関東甲信地方の大雪。甲府で1メートル以上の降雪、これまでの記録を大きく上回り、金曜日に甲府へ出張した知人が足止めをくらっていました。中央道、中央線も順調に動き始めるまでには、時間がかかりました。大変なこと、想定外でした。 たまに、クルマで出かける、山梨県小菅村。小菅の湯という日帰り温泉があり、のんびりした時間を過ごせる場所です。青梅街道で小河内ダムから入っても、中央道で上野原から入っても、山の中。今回の雪でも、孤立状態から脱するまでには時間がかかっていました。一週間経過しても、すべてが元には戻っていないようです。 先週水木で予報された雪が、途中で前線の通過ルートが変わったことで、降らず、幸いでした。もし、先週並に降ったら、孤立地帯解消がもっと遅れ、大変なことになっていたと思います。雪国のような備え、心構えもなく、除雪装備もない地域への大雪、どうにもなりませんでした。 一週間以上経った今も、都内ではあちこちに雪の山が残っています。降った直後は、表通りの除雪は進み、首都高も一部は開通していましたが、裏通りや歩道に降った雪があちこちに残り、都内には珍しく、長靴をはいた人があちこちに見られるほど、普通の靴では厳しい感じでした。まだまだ2月、降るかも知れません。油断禁物ですね。
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今日も思いつくまま・・2014年2月17日(月)
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先週に引き続いて、VAIOの話。文句は言うものの、他のパソコンとは少し違うような感じが好きで、結局、今までに6台買いました。持ち運び用が4台、505、R505、T、X、このところ3年半使っているXとはいろいろなところに行きましたし、2台目のR505は、ニューヨーク東京間を何度も何度も往復しました。 このほかに、自宅用のEと、Xが不調になったときに、1.5キロと少し重いもののモバイルの範疇には入るSという機種を買いました。Eはすでに退役していますが、Sは現役、Xより高性能スペックなので、写真の保存など、据え置きで使っています。外出に連れて行ったことはありません。 確かな記憶はありませんが、最初のころのノートパソコン、特に持ち運び好適型の機種は高い買い物でした。少しでも安くと思って、買ったのが、東芝のダイナブックと、シャープのメビウス、どちらも値段で選んだせいか、なんとなくなじみませんでした。VAIOを買って、文句を言いながらも大事に使うというのが、結果としてはオーライだったようです。 最初のころのモバイルは、アメリカ勤務時代に使っていた、MAC。重たかった記憶と、ダイアルアップで接続したということもあって、速度も遅く、メールをダウンロードするだけで、何十分とかかり、悪い時には、途中で切れて、最初からやり直しということが何度もあり、ADSLになった時には感激でした。 次に会社から、支給されたのが、IBMのThinkPad。丈夫で使いやすいものではありましたが、こちらも大きく、重かった記憶があります。アメリカで仕事をしたせいで、モバイルパソコンでの仕事を早い時期に経験できたと思います。どこにいても、メールを見ることができ、決裁行為も可能ということを便利だと思えるようになりました。 もっとも、そのせいで、下手をすると24時間勤務のようになり、昼夜が逆転しているニューヨークから帰国している時、時差ボケで眠れない時間に、メールに返事をしたおかげで、夜中に電話会議に引きずり込まれ、ついに朝まで付き合ったなどということもありました。便利になるのも善し悪しでした。 ノートパソコンが主役だった時代は、自分が使ったという経験からだと15年から20年。情報機器は、スマホとタブレットへと交替中です。次は、腕時計やメガネ、あるいは、考えることに反応するなどということになるかも知れません。VAIOというブランドもSONYから離れ、自由な発想で、今まで以上に、ちょっと違うものを作ってほしいものです。 就職して40年弱、パソコンを仕事で使ったのは約30年前が最初、計算機としてでした。自分でパソコンを操作するようになり、メールを送ったり、モザイクというアプリを使って、ブラウザーを見るようになってからは20年弱。SONYのVAIOは良く付き合ってくれました。まだまだ、末永く、大事に使おうと思っています。
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今日も思いつくまま・・2014年2月10日(月)
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先週のニュース、ソニーが赤字続きのVAIOブランドのパソコン事業を、日本産業パートナーズというファンドに売り、VAIOブランドを残すということが話題があり、22日から発売される春モデルが最後のソニーのVAIOになるということになってしまいました。以前、IBMがパソコン事業を中国のレノボに売却し、ThinkPadというブランドが残ったのと同じです。 VAIOは505シリーズから使っています。紫がかったシルバーの505は、がっしりしたモデルが主流だったThinkPadなどと違って、華奢で繊細な、いかにも日本らしい感じがして、飛行機の中で、アメリカ人の乗客から、それは何だと聞かれるくらいでした。所有感というか、持ってて自慢したくなるパソコンでした。 自宅用でしたが、仕事にも使い、それまで会社から貸与されていたThinkPadの半分くらいの重さだったため、荷物がだいぶ軽く感じました。もっとも、重さは確か1.2キロほどあったように思います。今使っている2010年に買ったVAIOXの700グラムに比べれば、結構ずっしりしてはずです。 最初のトラブルは、当時、JALのビジネスクラス機内で貸与されていた汎用バッテリー。機種を調べて差し込んだところ、一気にブラックアウト、うんともすんともしません。たぶん、過電流が流れたためにヒューズが切れたと思い、その日の日程をキャンセルし、成田から秋葉原にあるソニーのサービスステーションに直行。 中に、日程や資料があるので、すぐに直してほしいとお願いしたら、担当からの答えは機械のように、一週間したら見積りを出すとうもの、お気の毒ですがの言葉があったものの、ラチがあかないとはこのことだという感じでした。おまけに、修理にあたっては、ウィルスが見つかったので、断りなしに初期化。初期化する時には、連絡するという話だったのにでした。 幸い、メールなどは10日分、サーバーに残していたことや、事前に関係者に資料などをメールしておいたので、急きょ購入した別のパソコン(ソニーは高かったので、VAIOではありません)でメールを読み、仕事は大丈夫でした。あわてて買ったこのパソコン、メーカーの人が欠陥と断言するくらい、不調だったので、すぐに使わなくなりました。 東京にいる知り合いにソニーサービスステーションからの引き取りをお願いし、予定通り仕事を終えて、アメリカに帰りました。そのあとに持ち上がったのが、連絡なしの初期化問題。そんな話ではなかったということで、交渉をしてもらいました。結果としては、無料で修理ということになりましたが、バックアップをとっていなかったデータは帰りませんでした。 直ってきたVAIO、1998年くらいに買って、満足して使っていましたが、そろそろ、次のと言う時期になって、2000年ころに購入したのが、VAIOR505、一回り大きくなった結果、1.7キロの重さ、それでも画面が大きく、仕事には使いやすいパソコンでした。プリンターなどにつなぐためには、ドッキングステーションを使うというのが特色でした。 ドッキングステーションをつけると2.3キロ。大変重いパソコンとなったことから、帰国時に泊まる横浜の自宅にも一台買いました。当時のノートブックは高価な買い物でした。次のモデルから、ドッキングステーションは廃止となった時には、えっと思った記憶があります。R505と一台のドッキングステーション、動かなくなったまま、自宅にあります。これが2台目のVAIOです。
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今日も思いつくまま・・2014年2月3日(月)
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この間の外出で気がついたこと、団塊世代の女性というか、少し上の人がちょうど一つ空いている席に、自分の荷物を置いて、座れないようにし、一人は隣の旦那さんにしゃべり続け、もう一人は隣の旦那さんにもたれて眠っていました。これじゃ、最近の若い者はなどと言えない、わがふり直せだと思いました。 ラッシュ時、通勤、通学のプロが中心になると、入口で頑張って、流れをせき止める人が少なくなりますが、前後の時間だったるすると、混雑の中で、邪魔になる人を良く見てしまいます。それも、結構きちんと人もいて、見かけじゃわからないなという感じです。こちらも気をつけなくてはと思います。 昔から、車内の不快は、イヤホンから漏れるシャカシャカ音と、化粧作業。こちらも若者中心かと言うと、そういうわけでもなく、結構な年令の人でも、という感じです。隣のシャカシャカ音、注意をしようかとは思うものの、切れてしまっては大変なので、知らぬふり、何も言わないのも迷惑行為とは思うものの、音漏れですよの一言が出ません。 この間、バスに乗っていたら、車内が混んで来て、立客が増え、椅子の横に年配の女性、これは立って譲りました。もっとも、昔、2週間入院したあと、電車の中で、目の前に、これも年配の女性が立ち、いかにも譲れというプレッシャーを感じましたが、入院で弱った体力、目をつぶり、心の中でごめんなさいと言っていました。 それにしても、席を譲っているのは、意外に茶髪や金髪の男女、まず、譲っていないのは、スーツにネクタイの人たち。退院後の私のように、やっと座れたのにという気持ちが強く感じられますが、自分もいずれ加齢することを考えると、明日は我が身、少し目を開いた方が良いかも知れません。 外出をすると、いろいろなことが気になります。不快だなと思うことがゼロという時は、ほとんどないと言い切れるくらいです。でも、だからと言って、出ないようにするのではなく、不快なことがあって、快適なことや、愉快を感じる感性が強くなるのではとも思います。何せ、自分ひとりだけ存在しているわけではないので。 そのうち、自分も60才を超え、老化への道をまっしぐら。席を譲ることができる、流れをせき止めることがないよう、少しでも、迷惑をかけないよう、自立ができるようにしたいと思います。少しの区間でしたが、席を譲ってあげた女性が降りるときに見せた笑顔、うれしい瞬間です。また、味わいたいものです。
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今日も思いつくまま・・2014年1月27日(月)
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出張が多いと、飛行機や新幹線に乗ることが多かったのですが、最近は金沢、甲府などに行く際に、在来線の特急に乗る機会が増えました。たとえば、甲府行のあずさ、甲府まで新宿から1時間半かかります。同じ時間乗っていると、新幹線なら、東京から名古屋、仙台、飛行機では、福岡、札幌OKというと、長いなと感じます。 大昔、新幹線がなかったころの東京から大阪は6時間半。青森までは電化されて8時間半、それまでは急行だと12時間くらいかかっていました。廃止される時に乗った、急行高千穂、東京から鹿児島まで大分経由で28時間かかっていました。もっとも、ラストの便は大分どまりでしたので、20時間プラスアルファくらいでした。 飛行機は高くで贅沢と言われた時代の移動の主役は鉄道。狭くて硬いボックスシートに座れれば良い方、旅行は苦役というのが文字通りでした。学生時代には、上野から急行十和田(一泊)、青函連絡船、函館から札幌まで小樽回りの急行ニセコ、札幌から稚内まで急行利尻(一泊)で33時間、2泊3日、今思えば、良く出来たなと思います。もちろん自由席でした。 立っている人がいるほど、混んでいた記憶はありませんが、座席はすべて埋まっていたように思います。しかも、北海道まで乗り通す人も多く、本州から北海道への移動の主役は鉄道でした。学生なので、学割急行自由席ただの北海道周遊券でしたが、普通の切符でも、飛行機よりはるかに安かったと思います。 それと、飛行機は贅沢という意識から、最初から考えないということだったのかも知れません。鉄道でも、ボックスシートの普通車自由席が当たり前、寝台車は贅沢と思われていたので、長距離急行も、一部の寝台専用列車以外、普通座席車が過半でした。新幹線が出来て、飛行機が大衆化し、ずいぶん変わりました。 ということで、ラクな座席、飛行機に慣れた今、在来線特急に乗ると感じるのが、ゆっくりさ。仕事ではないオフの時間だと、ゆっくり大歓迎、より長く乗っていたいとさえ思うのですが、仕事だと、予定をどうしようかなどと考えると、少しでも早く目的地に着き、疲れを最小限にしたいと考えます。 それでも、駅や空港の雰囲気、車窓や飛行機の窓から見える外の景色、車内や機内の様子などが好きなのと、くわえて、移動中に熟睡できるので、移動がそんなに苦にはなりません。それでも、在来線特急での移動、仕事ではなく、時間を気にしないオフで楽しみたいと思います。今の時期、真っ白な雪景色、見ごたえありです。
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今日も思いつくまま・・2014年1月20日(月)
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アメリカ政府が盗聴しているという話が結構話題になりました。ドイツ首相も盗聴対象ということで、ドイツから抗議というニューズもあり、一時大騒ぎになりましたが、その後のフォローはあまりなく、どうしたのかなという感じです。それにしても、盗聴が広範に行われているのだなということを強く印象づける話題でした。 昔、中東の国に駐在している人と、国際電話で話をしている時、その国の実質的な指導者の名前を言った途端に切れるということがありました。仕方ないので、実名は出さず、あの髭の白い人とか、お互いにわかる日本語の符丁で話をするように気をつけたことがあります。 そのころ、合法的に盗聴をしていない国は、日本もふくめ、2,3か国しかないという話を聞いたことがあります。その後、日本でも犯罪調査のためには、盗聴が出来るという法律が通っています。実際に使われたかどうかはわかりませんが、普通の国になったとは言えるのだと思います。 アメリカで仕事をしている時、大手商社の社長から、アメリカにある日本大手企業の幹部は、いつも盗聴されていると思った方が良いと言われたことがあります。日米貿易摩擦や、通信自由化をめぐるアメリカからの圧力などを考えると、経済的には戦争状態だったと考えれば、なるほどと納得しそうでした。 実際に盗聴だったかどうかはわかりませんが、自宅の電話の調子が悪くなり、ガリガリという音がしたこともありました。そんな稚拙な方法でとも思いますが、何が起こってもという国、アメリカです。気をつけるに越したことはないということだったのかも知れません。もっとも、そんな重要人物だったとは思えませんが。 その後、実際に、日米間の海底回線の件で、他の多くの通信会社と一緒に、独禁法関係の調査が入った時には、電話やメールで使う言葉や固有名詞に気をつけたり、当時、出始めで盗聴しにくいと言われていたデジタル携帯電話を使ったりもしました。笑い話だったかも知れませんが、当時は真剣でした。 今はネット社会、フェイスブックなど、SNSで信じられないような人から連絡があったりなどビックリすることがあります。どこで誰とどうつながっているか、まさにブラックボックス。電話の盗聴などという話ではなくなっています。個人のプライバシーを自分できちんと守るのは、簡単ではなさそうです。
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今日も思いつくまま・・2014年1月13日(月)
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趣味散歩がお休みになっています。12月になって、重いものを動かそうと力を入れた途端、腰に違和感を覚えました。大したことはなかったので、休日の散歩を続けていたのですが、夜になって違和感の度合いが強くなり、そのうちに、ベッドから起き上がってトイレに行くのも大変になってしまいました。 もっとも、朝になったら、多少マシになり、そのまま仕事をつづけましたが、それでも、いろいろな問題に遭遇しました。たとえば、新幹線で座っているとき、起きていれば、姿勢を変えたりもできるのですが、眠ってしまうと腰を圧迫するらしく、目が覚めて、椅子から立ち上がるのがつらいことになってしまいました。 トイレで紙を使う時にも、自然に腰をねじっているらしく、腰が痛いと姿勢に無理があったり、そもそも、便器のフタや便座を開くとき、下を向くのが大変だということなど、こうなってみないとわからない経験をすることになりました。どうしても、腰をかばって歩くので、足にも影響があり、階段の上がり降り、特に降りるのがつらくなってしまいました。 無駄そのものだと思った、トイレの便座やフタが自動的に開閉する仕組みがなんとありがたいことかわかりました。最初は無視できるくらいの違和感でしたが、その前まで、何も意識せず、普通にできたことがなんとありがったことかを痛感しました。老化へ向けての練習としては、良かったのかも知れません。 違和感は、腰の筋を違えたのがスタートでしたが、知人に話をしたら、それはぎっくり腰の一種だということを言われ、さらには、同じ経験をしている人が大勢いるということがわかり、要は筋肉が弱ったことなど、老化で避けられないことだとよくわかりました。それでも、少しづつ快方に向かい、腰の違和感は消えました。 ところが、足の方は逆、痛くなった腰と反対側の、昔捻挫をしたことがある膝が痛みが本格的になり、ついには、サポーターをするとラクという状況になり、エスカレーター、エレベーターがありがたい状態になりました。もっとも、下りのエスカレーターは少なく、かばいながら下るという状態になりました。 前の会社では、工場があったこともあり、週に3、4回はラジオ体操かストレッチをやっていたのが、昨年6月に会社が変わってからする機会がなくなったことが、老化にプラスされて、腰の違和感につながったのではないかと思っていますが、これから、こんなことがますます増えるのではと思うと、いささかめげてしまいます。 ほんの少しの違和感から、趣味散歩はお休みになりましたが、無理せずには歩くようにし、少し痛くなると休んで、膝の曲げ伸ばしをしています。まずは、今の状態の完治、そのあとは、予防の体操や歩くことを続け、いろいろな違和感と上手に付き合い、趣味散歩を続けたいと思っています。
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今日も思いつくまま・・
2014年1月6日(月)
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あけましておめでとうございます。akihiko.comブログも、すでに15年以上になりました。ニューヨークから戻った2003年以降は写真なし、イベントなしでの週刊日記だけですが、続くことだけは続きました。今年もたぶん、この調子で続くと思います。よろしくお願いします。 東京のお正月は、正月晴れそのもので、寒くもなく、気持ち良い3が日でした。おまけに、暦の具合で、仕事納めが27日金曜日、仕事始めが6日月曜日となる会社が多いので、休みが正味9日間、休んだ実感がありました。6日以降、仕事モードに変れるか、不安です。 大晦日も、何事もなく、静かに年を越しました。紅白歌合戦がいつの間にか時間延長で、7時台スタートになり、レコード大賞が前日放送になったという変化のほかは、12時前になると、突如静かな「ゆく年くる年」になるNHKの編成はまったく変わっていません。大事故のニュースのあとに、突然街の風物詩のニュースになるNHKの変わり身の早さと同じです。 大晦日は、ニューヨークだけでなく、旅行で行ったパリ、ドイツのケルンや、スペインのバルセロナなどで経験しましたが、パリのシャンゼリゼや、ニューヨークタイムズスクエアの大騒ぎのカウントダウン、静かなクリスマスとは対照的でした。心配された渋谷での大騒ぎなど、くらべものにならない大イベントでした。 ニューヨークでの正月休みは、元旦だけ。2日からは平常の勤務となります。クリスマスも同じように休みは25日だけ。もっとも、クリスマスと新年、11月末の感謝祭の休日には、年休をしっかり取って、長期間どこかに出かける人も多く、ホリデーシーズンということになってはいます。 ニューヨークロックフェラーセンターのクリスマスツリーが片づけられるのが1月6日前後だったと記憶しています。日本の正月気分も、松のうちの7日まで。そのころから、2014(平成26)年もいよいよ本格始動ということになります。今年が良い年になりますように。静かな新年スタートでした。
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今日も思いつくまま・・2013年12月30日(月)
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なかなか、冬らしくならなかった今年ですが、12月下旬になり、寒いと感じる日が増え、散歩好適シーズンも終わり、しばらくは冷たい風が顔にあたり、地面からシンシンと寒さを感じる季節。それでも、冬枯れの木々も、紅葉真っ盛り同様に、風情もあり、そんななか、散歩も悪くありません。 残念なのは、腰の筋を違えたため、歩き方に無理があったみたいで、腰の痛みがなくなると同時に、反対側の膝に痛みを感じるようになったため、積極的に歩こうという気持ちがなくなってしまったことです。それでも、仕事や私用で、歩くことはあり、晩秋から冬への変化を肌で感じることができました。 会社のある、神谷町から虎ノ門の間の桜田通りのイチョウも、そのほとんどが葉を落としている中、まだまだ頑張っている木もあり、小雨などが降ったりすると、違った意味で、良い景色だなと感じることが出来ます。通勤や、昼ご飯を食べに出た時、膝の痛いのは、若干つらいですが、散歩を楽しくすることができました。 夏には、日陰になるプラタナスの葉や枝をトリミングし、裸のようにしてしまった、代々木駅への道路も、冬らしさを感じることが出来ます。というか、街路樹なし、木々や自然を感じることのできない道路や、歩道以外、どこでも、季節を感じることが可能になります。 毎日通る場所は、少しの変化でも、肌で感じることがあります。一方、たまに行くところでは新たな発見もあり、あまり乗り気にならない訪問先や目的地であっても、楽しい散歩のあと、気持ちよく面会をしたり、仕事をすることが出来るかも知れません。歩くのが、少しつらくなっただけで、歩くありがたみを痛感しています。 自然を肌や五感で感じることも出来、人の多いところでは街や人物の観察をすることも可能な散歩、これから行くぞという気合いなしに、いつでもできるところが散歩の良さ。ダラダラ歩くばかりではなく、姿勢を正して、サッサと歩くよう、心がけたいものです。さて、次はどこを散歩しましょうか。
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今日も思いつくまま・・2013年12月23日(月)
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街中、クリスマス一色。あちこちでイルミネーション、ライトアップ、クリスマスツリーと、キリスト教徒の少ない国とは思えないほどの賑わいです。冬がなかなか来なかった今年の東京ですが、ここのところ、結構寒くなり、初雪がいつもの年より早く観測されたりと、らしくなってきました。もっとも、初雪、全く気がつきませんでしたが。 11月になると、一気にクリスマスムードがいっぱい。あちこちでクリスマスツリー点灯式、クリスマスソングが商店街に流れ、いやでもあと少しという感じになります。ニューヨークのクリスマスムードが、感謝祭が終わってから、ロックフェラーセンターの大イベント、ツリー点灯も12月になってからです。 年賀状の受付が12月15日から、街角の郵便ポストの左側が年賀状になると、いよいよ残すところ、今年も2週間と少し、とはなりますが、クリスマスムード一色のため、お正月が主役になるのは、12月26日以降。あっという間に、クリスマスツリーが松飾りになってしまいます。 街中が、洋食から和食になってしまったかのように、クリスマスソングから、一気にお琴の調べみたいになってしまいます。あの大騒ぎはどこに行ったのかという感じ。極端なのは、地下鉄やバスまでお休みになるロンドンでしたが、アメリカやヨーロッパのクリスマスは静かに過ごすイベント、大騒ぎするのは大晦日。 ロックフェラーセンターのクリスマスツリーが撤去され、街からクリスマスムードがなくなるのは1月初め、モミの木がゴミになって捨てられることになります。クリスマスから10日、余韻が残っている感じです。あっという間に、洋風から和風に一変する日本とは違いました。 イルミネーション、ライトアップは、クリスマスが終わっても、もう少し続くようですが、あと数日で、年の瀬にまっしぐら。というところでの3連休。年賀状はこの3日間でと思いますが、なかなかスタートしません。昔と違って、あて先は印刷ですませているのですが。年々、年を取りたくなくなっているからかもしれません。
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今日も思いつくまま・・2013年12月16日(月)
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先週の日曜日、ベッドのマットレスを少しばかり動かそうと思い、力を入れた途端、左の腰に違和感が。大したことはなかったので、一日、普通というか、むしろ、積極的に散歩して、歩いたところ、夕方近くなって、違和感が存在を次第に主張するようになり、痛いなという感じになってきました。 激痛というほどではなかったので、そのまま、寝たところ、ベッドから起き上がるのもやっと、トイレに行くのが大仕事という具合になってしまいました。左腰だったので、本格的なぎっくり腰ではないと思ったものの、耐えられるかといえば、NOという感じ、立ち上がるたび、寝返りをうつたびに、違和感が痛みになっているのを痛感したまま朝に。 月曜日から、5日間連続出張だったので、どうしようかという朝でしたが、立ち上がり、しばらくすると、痛みも和らぎ、なんとかなるかなという状態になったので、徒歩15分の代々木駅までをタクシーにして、新幹線で名古屋に。いつもより、少し遅く、歩き方もぎこちない状態でしたが、徒歩10分で名古屋のオフィスへ。 歩いている分には、最初に感じた違和感くらいでしたが、ちょっとひねったり、立ち上がった時には、痛いという状態でした。一番困ったのは、階段を上がるとき、ゆっくり上がっても厳しい感じでした。往きの新幹線は起きていたので、態勢も整え、まあまあでしたが、帰り、爆睡したところ、立ち上がるのは大変でした。 その後、いろいろな人に話を聞くと、同じような症状になった人が多く、老化による筋力低下が主な原因だとわかりました。しかも、まだまだ、症状が軽いということもわかり、無理はしないようにしながらも、歩いたり、体を動かすようにしたところ、違和感皆無というわけにはいかないものの、少しづつ快方に向かい、自然に立ち上がれるようになり、ホッとしています。 それにしても、ホンの少し、体に問題を抱えただけで、階段をのぼれなかったり、歩くスピードが遅くなったり、いろいろな影響が出るということを実感しました。昔、2週間入院しただけで、筋力が落ち、地下鉄の階段を上がれなかったことを思い出しました。あのころは40代前半、これからはこんなことがたびたび起こると思った方が良さそうです。 いつもは気にならないことですが、駅のエレベーターやエスカレーターや、下を向くのがつらいため、トイレのフタを開けるのが大変になり、バカバカしいと思っていた自動でフタの開く仕掛けなど、バリアフリーのありがたみを痛感しました。良い体験、無理するなという警鐘だったのかも知れません。 以前の職場では、工場始業前のラジオ体操、ストレッチを週に数回やっていたのが、今度の職場ではそれがなくなってしまったのも、一因だったのではと思いました。歩くだけでは足りないようです。もう少し回復したら、つとめて、ラジオ体操や、ストレッチをと思っています。というわけで、痛みを感じた一週間でした。
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今日も思いつくまま・・2013年12月9日(月)
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先週、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスへ行ってきました。小田急、相模鉄道、横浜市営地下鉄の湘南台駅で降りて、バスで約15分。仕事で約束の時間があったのでタクシーで行きました。構内に入ってから、目標の建物までも距離があって、歩くと大分ありそうで、構内にもバス停が設置されています。
すでに創立されて20年以上(1990年開学だそうです。)経っているので、紅葉終盤の今、散歩したくなる自然がたっぷり。着いたのは午後2時前、12月にしてはあたたかい日だったので、ちょうど良い感じの時間でした。こういう自然の中での教育と、都会のコンクリートだけの構内での教育、効果に違いがありそうに思えます。 確か、開学のころから、パソコンを活用した教育を行っていたことで有名だったと思います。バブル時期に構想され、IT時代に向けて始まったこのプロジェクト、時代の流れに乗ったのでしょう。自分のことを思っても、大学時代、文系だと勉強は受験までという感じだったのが、SFC(湘南藤沢キャンパス)では、文科系、理科系の壁は薄く、勉強すると聞いて、びっくりした記憶があります。 湘南台駅そのものも大激変。住所は藤沢市になるこのあたりですが、昔から小田急の急行が止まったのは長後駅。1968年に湘南台駅が出来ても、長い間、各駅停車だけが止まっていました。それが、1999年に相模鉄道、横浜市営地下鉄がこの駅まで伸び、現在は藤沢市内で2番目に乗降客が多いようです。 最初、長後駅への乗り入れという話もあったようですが、タクシーの運転手さんによると地元が土地を売らないということで湘南台になったということです。その後、小田急の湘南急行(今の快速急行の前身)が2002年に出来たとき、停車駅は湘南台になり、長後は通過。差は開くばかりだそうです。 SFCが出来たころ、ジャパンアズナンバーワンのバブルから、日本が失われた10年を経て、今に至る、右肩下がり、グローバル時代が始まり、いろいろな価値観が変わってきたのだと、結果として良く理解できます。自然に囲まれた、キャンパスで学ぶ学生、生徒のみなさんが、社会の主役になるころ、どうなっているのでしょうか。 打ち合わせを終えての帰りは、構内の停留所から、バスでと思ったのですが、ちょうど、構内にある高校の下校時間、すぐにめげてタクシーにしました。もっとも、この区間だけ特認されている、2両連結バスが走っている時間帯だったので、ぜひ、乗りたかったとは思いました。次回はチャレンジしたいと思います。 以前、東大本郷キャンパスに行って、建物が増えたこと、学食もレストランになっていたことや、社会で活躍した人たちを特任教授として迎えていることなど、大学も変ったと実感しましたが、20年以上かかって、森のような自然に成長したSFCでは、余計に強く変化を感じました。そんな中、ビジネスを継続するのって、容易なことではないと思った次第です。アンテナを高くしなければと思いました。
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今日も思いつくまま・・2013年12月2日(月)
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青山一丁目、外苑のイチョウ並木の紅葉で青山通りが混雑しているところ、東宮御所と対角線にあるホンダの本社ビル、昼間は、ビルと歩道の間に、新車が並べてあります。すべて、ドアを開けることが出来て、シートに座ることが出来ます。ディーラーに行けば、実際に運転をすることが可能ですが、ここの魅力は次々と見られること。
ディーラーで試乗するときは、名前を書いたり、スタッフと最低限の話をして、その上、多少は買う可能性ありという印象を持ってもらう必要がありますが、ここでは匿名の通りがかりのまま、勝手にドアを開けることが可能です。動かせないのは残念ですが、経験から言って、シートに座った印象だけのクルマの評価って、運転しなくても、結構正しいように思えます。 最近のホンダ、軽自動車に力が入っています。トヨタでさえ、グループ会社のダイハツ製の軽自動車をOEMで売っているくらいだし、軽自動車が売れることを実感した日産は、三菱自動車と合弁で軽自動車を作ったりと、以前は軽自動車に無関係だったトヨタ、日産も軽自動車を販売。その中で、ホンダは老舗です。 大昔というか、40年以上前、軽免許が16才から、普通免許と同じ18才にならないと取れなかったころ、数か月の誕生日差でした。駆け込みで免許の取れた同級生が買った、ホンダN360。それまでの実用中心だったスバルや、マツダのキャロルなどと違って、イギリスのミニ似で、格好良く、うらやしい限りでした。もっとも、買ったのは金持ちの子供でしたが。 N360で軽自動車に革命を起こしたあと、普通車を軸にしたビジネスモデルにし、シビック、アコードと大きくなり、グローバル企業になったホンダが、軽自動車ばかり売れる日本市場で、数年前に方針を替え、Nシリーズという昔の大ヒット車N360にあやかったような名前のクルマを次々に発表。NBOX、N−ONEに続き、NWGN(ワゴンの略だと思います)を発表。 NBOXは1メーター80センチ近くの車高があり、ライバルは大ヒット車のダイハツタント、N−ONEはN360に似たデザインのレトロカー、もっとも、車高は1メーター60センチ以上で、1メーター55センチが車高限界の機械式駐車場は無理。今度のNWGNはスズキのワゴンRやダイハツムーブがライバルで、車高は1メーター70センチ弱。 品川ナンバーの軽自動車って、たぶん、BMW3シリーズやメルセデスCクラスより少ないのではと思えるほど、見る機会が少ないのが、郊外や地方では軽自動車ばかり、機械式駐車場に入れる機会はほとんどないのでは。軽自動車の規格のため、車幅、車長に制限されているので、制限のない車高を高くして、居住性を高めたということだと思います。 そんな、ホンダの軽自動車、運転席、後席に座って見ました。特に、一番新しい、NWGNの快適なこと。NBOXより車高が低いとはいえ、十分な余裕というか、ちょうど良い感じでした。後席もゆったりし、タクシーに使えそうなくらいでした。ということで、以前、スズキのワゴンRを試乗したことがありますが、今度はホンダの軽自動車、試乗させてもらおうと思いました。楽しみです。
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今日も思いつくまま・・2013年11月25日(月)
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札幌駅で新千歳空港行の電車に乗り遅れ、次だと出発時刻の15分前に到着とわかった時、さてどうしようかと思い、JALに電話。必ず、走っていくのでよろしくとお願いしました。必ず来ますねと確認され、搭乗したのが10分前、ホッとした記憶があります。もっとも、あとから何人か搭乗する人がいましたが。
自分でも、こんなことをしているので、大きなことは言えませんが、朝一番の飛行機に乗るため、思い切り早起きしているのに、出発時刻になっても、あとおひとりをお待ちしていますというアナウンスが流れたあとに少し時間が経ってから、堂々と乗ってくる人を見ると、殺意さえ感じてしまいます。 出発時刻になったのだから、待たずに閉めて出発してほしいと思うのですが、携帯やスマホで事前チェックインをしていると、乗せずに出発するのが難しいのかも知れません。もっとも、LCCはコストダウンのため、チェックインや搭乗時刻にも厳格で、間に合わないと乗り遅れるという話です。 それで良いんじゃないかと痛感したのは、自分の乗る便ではありませんでしたが、すでに係員が名前を呼ぶほどの時刻になり、その人たちの他の全員が搭乗しているのに、あわてて来た女性が実は連れがまだ駐車場にいるので、待ってほしいと安全検査ゲートの前で係員に頼んでいるシーンを見たときでした。 たぶん、この方たちにもいろいろな事情があるのだと思います。今回で懲りて、早めに空港に着くようになれば良いのですが、今回のことで味をしめ、出発時刻ギリギリでもなんとかなると思うかも知れません。新幹線なら、待ってくれることはありませんので、待たずに行けば良いのにと思ってしまいます。 朝6時半の羽田空港は、同じ時間に何便かが出発時刻になっています。少しでも早くドアを閉め、ゲートから離れ、順番を確保して離陸したいものです。そのために早起きしたのにと。どうも、時間に追われると気持ちもガサガサしてきますが、甘えがまかり通るというのも問題ではないかと思います。札幌の経験で懲り、空港には早めに着くようにしています。
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今日も思いつくまま・・2013年11月18日(月)
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就職をして、来年の春で39年。すでに最終コーナーに入っています。最初の10年は電電公社、地味な会社が1985年に民営化し、NTTと呼ばれるようになって、突然、時代の先端産業と言われ、びっくりした記憶があります。その後は、海外勤務、会社の分割など、39年前には予想しなかったことが起こり、2007年に子会社に転出。
社会人になったころ、50才過ぎの先輩を見ると、落ち着いた感じで、すでに老境に入った風情でした。というか、30台でも十分大人と思って、大先輩として接した記憶があります。その後、自分の年令が増すのと、少し上の団塊の世代が若々しさのまま、壮年、老年になっていったこともあり、落ち着きのないまま、あっという間の60台でした。 気持ちだけは、39年前とほぼ同じというか、学生から社会人になって少し大人になった気分でいたあのころより、ずっと若い気分かも知れません。周りからみれば、老境とみられるでしょうが、昔の映像に出て来るまさに老人という60台にくらべ、服装、所作、行動、すべてに大人げないと言われそうです。 もう少し仕事をすることになりそうなので、終点には至っていませんが、すでに、年金生活に入ったり、毎日が日曜日になっている同級生もあり、複雑な心境です。元気なシニア世代、旅行したり、散歩をしたりで、街のあちこちで見かけます。それにしても、朝の通勤はあと少し、元気に、まわりに迷惑をかけずにしたいものです。 入社した時、新人類と言われた世代のわれわれですが、その後のみなさんを見ると、毎年毎年新人類が増えていることを感じる機会もあります。40才近く下の新入社員は、これは違って当たり前と思うので、かえって、受け入れやすく、それなりにコミュニケーションが取れるのではないかと思ったりもします。 気をつけないといけないのは、部長や課長、すでに10年や20年近く下のみなさんが、このあたりのポストについています。役職上、どうしても、同僚という感じで接するのですが、思った以上にギャップがあり、気楽に言ったことが予想以上に反響したり、反発されたりということもあるようです。 単純にわがままとか、甘いと決めつけられたことをそのままにしておくと、どんどん離れてきそうだと感じることもあります。39年間、直属の部下や同僚を精神的に追い詰めたことがないと自慢してきましたが、少し気をつけないといけないようです。素材が良く、素直なみなさんと気持ちよく仕事を続けられるようにしなければと思ったりもします。 それでも、この年齢になって、ぶつかっていける仕事があるってのは、感謝しなければいけないのかも知れません。新入社員の時の新鮮さを忘れず、元気で楽しく、過ごしたいと思っています。仕事は趣味、本業は別にある、楽しくなければ仕事じゃないという気持ちで今日も、明日もやっていきたいと思っています。ゴールはまだまだです。
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今日も思いつくまま・・2013年11月11日(月)
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上野から高崎線、上越線、羽越本線、奥羽本線を通って、秋田、青森まで走っていた夜行列車、「あけぼの」が来年3月に廃止されるという報道があったようです。一方で、九州では、豪華寝台列車「ななつ星」がツアー専用のクルーザートレインとして走りはじめ、料金は二人で何十万なのに、来年6月までいっぱいということです。 以前、急行「銀河」に乗って、大阪での宴会のあと、東京に戻ったことがあります。夜行移動の需要は、新宿駅を次々と出る夜行バスを見ると、確実にあるようですが、列車はほぼ絶滅状態で、「銀河」も乗ってから、まもなくして廃止になりました。夢だったブルートレイン車両もだいぶくたびれ、ワクワク感は乗るぞという高揚のほかはゼロ。 新幹線グリーン車より高い料金を払って乗ったA寝台は結構乗客があり、下段はいっぱいで上段。通路の両側のカイコ棚へ、垂直のハシゴで上る方式。宴会のあと、靴下でのぼる垂直ハシゴ、すべらないよう注意が必要。しかも、通路に脱いだ靴、取られることはなくても、安心ではありません。 寝台は昔の3段寝台だったころのB寝台に比べれば広く、起き上がっても大丈夫なくらいの天井高はありますが、今はB寝台も2段、ベッド幅が狭いほかはA寝台との差はわずか。横になって悩んだのは、荷物と貴重品の置き場。大きくないカバンであれば、足元に置けますが、キャリーバッグやスーツケースは無理。大きな荷物置き場に置くしかありません。 貴重品は枕の下にでも置けば良いのですが、トイレに行く時は持って行くしかありません。鍵のかかるボックスであれば便利なのですが。夜行列車の場合、バスや飛行機のように、目的地までノンストップではなく、夜中でも駅に止まって、乗り降りができることがあります。 昔、長距離移動が鉄道だけで、しかも夜行列車を使う他なく、硬いボックスシートで眠るしかなく、しかも席が取れればバンザイという時代、横になれる寝台は極楽だったのだと思います。そのころが安全だったかどうかなど関係なく、寝台で旅行できれば良いと思ったのでしょう。 列車や飛行機に乗るのが好きで、出張での移動もさほど苦にはなりませんが、「銀河」に乗車したとき、時代が変わったということを実感しました。セキュリティ面で考えると、フルアテンドの「ななつ星」みたいな豪華クルーザーだけが残れそうです。少しさびしいですが、仕方ないとは思います。 定期夜行列車で残っているのは、「サンライズ瀬戸・出雲」(高松、出雲市行)、「北斗星」と「カシオペア」(札幌行)、あけぼの(秋田経由青森行)、「トワイライトエクスプレス」(大阪札幌)、「はまなす」(青森札幌)だけです。利便性ではなく、希少価値、情緒、趣味ですが、どれかに乗ってみたいなとは思っています。
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今日も思いつくまま・・2013年11月4日(月)
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久しぶりに英語をしゃべる機会があり、予想通り恥をかきました。最初は順調にあいさつとかできたのですが、つまずいたのは、数字とか、ビジネス単語でした。次第に慣れが戻ったような気がしましたが、自己評点はゼロ。相手の話はほとんど聞き取れたのは、まあまあでしたが、単語が出てきませんでした。 7年のニューヨーク勤務から戻ってすでに10年、もう少しマシにできるかなと思ってはいましたが。相手が通訳を連れてきたり、こちらも同席者がいたり、最初がスムースだったことで、格好良いところを見せたいという気持ちが逆効果だったのかも知れません。なんとか、通じたという程度でした。 就職してから、会社が派遣してくれた語学学校はフランス語。日米会話学院に通って、アメリカやイギリスに留学をしたということもなく、英語を正式に勉強する機会はありませんでした。そんな中、1996年からのニューヨーク勤務は無謀とも言えるもので、恥のかきっぱなしとも言えることが山ほどありました。 それでも、なんとか7年ニューヨークで過ごし、クライアントや同僚のアメリカ人と話をし、仕事をしてきました。今では、どうして出来たのか、不思議なほどです。最初は、格好つけようと、英語らしい発音にして、しゃべろうと思いましたが、なかなか通じません。お店でのオーダー、タクシーの行先などなど、いっぱいありました。 ある日、英語風と自分で思っているような発音ではなく、日本語風の発音でしゃべった方が通じたというという事実を体験しました。さすがにニューヨーク風のアレンジはしたように思いますが、カタカナ英語そのものです。次に気づいたのは、ニューヨークに長く住んでいる日本人の英語が必ずしもネイティブ風ではないということでした。 その後、この調子で英語をしゃべることで、多少通じやすく、マシにはなり、仕事上の不便も減りました。周囲の目を気にせず、恥ずかしいなどと思わないというのがカギだったと思います。それでも、カンパリソーダを頼んだら、同じような色のクランベリージュースが出てきたことが複数回あったりなど、格好良いものではありませんでした。 ということで、格好良く、通訳や同席者に聞かせようとしたのが、間違いだったのかも知れません。今の仕事柄、今度がいつになるかはわかりませんが、次回は慣れたはずの日本語風英語を思い出したいものです。ということで、今回は恥かき英語。7年もニューヨークで仕事したのが不思議という体験でした。
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今日も思いつくまま・・10月28日(月)
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前の会社が、大阪モノレール大日駅が最寄だったので、大阪への出張には飛行機、朝6時半に羽田空港を出るJAL101便がいつもの便でした。自宅から代々木駅まで15分ほど歩き、山手線内回りの2番電車に乗って、品川乗換。ちょうど、蒲田と国際線ターミナルしか止まらない快特で、代々木駅から空港まで38分。 一番の便は、出張の人が多く、離陸した途端に爆睡。とにかく、早く着きたいと全員が思っているにもかかわらず、時間になっても搭乗しない人がいて、イライラすることもありました。散々待たせたあげく、ゆっくりと機内に入ってくる人を見ると、殺意さえ、起きてしまうほどでした。 伊丹空港のゲートから、モノレールの大阪空港駅までは、走って5分ほど。最初のエスカレーターは東京風の左寄り、モノレールの駅に上がるエスカレーターは大阪風の右寄り、新大阪駅もホームから下りるエスカレーターが東京風なのと同じ。当然、混乱することもあり、面白い光景が見られます。もっとも、自分が邪魔になっていることもあるので、気をつけないと。 大阪は、独自性だけではないと思うのですが、JR大阪駅のそばにある、阪急、阪神、地下鉄の駅が梅田駅だったり、JR天王寺駅前の近鉄南大阪線の駅があべの橋、地下鉄は天王寺と、違う駅名になっていることがあります。モノレール大阪空港駅も、伊丹空港の方がわかりやすいと思いますが。伊丹という地名が兵庫県だからかも知れません。 大阪空港駅から一つ先の蛍池駅で、阪急宝塚線で阪急梅田駅へ。一番順調だった時で8時着。新幹線の一番で品川を出て、大阪駅へは8時半。ということで、飛行機の方が早く到着します。その上、朝一番の便は前日まで買える特割で、1万2千円弱と、通常の料金の半額ほど。 というほどで、大阪へは飛行機で移動することが多く、使うのはJAL。慣れと言うのは恐ろしいもので、JALを使うことが多くなると、ANAの雰囲気や機内アナウンスなど、なんとなく落ち着かない感じになってしまいます。ニューヨークから帰国の際、JALの機内に乗ると、日本だと実感して、ホッとしたことが原因かもしれません。 電車に乗るのが大好きなので、大阪まで飛行機なんてと思っていましたが、使ってみたら、1時間のフライトは短く、魅力的でした。離陸から着陸まで爆睡ということも多く、ほとんどの場合、飲み物をもらうことはありません。会社が変わって、目的地が京橋になりましたが、今度の出張もJALを使います。
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今日も思いつくまま・・
10月21日(月)
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玉名温泉や植木温泉は湯質も良く、露天風呂もあって、出張で温泉に入って申し訳ないなという感じでしたが、パソコンを使おうと思うと、インターネット回線はなく、3Gの携帯回線でつなぐことになります。シンクライアントで会社のパソコンにつないで使う場合、時に遅いなと感じたり、文字の入力がやりにくかったりもします。 インターネットは、すべてのビジネスホテルが有線LAN設備を各部屋に装備し、無料で使えます。ただ、最近は有線LANをつなぐポートのないパソコンも増えているので、無料の無線LANが装備され、泊り客用のID、パスワードで高速インターネットを使うのが普通ということになりそうです。 シティホテルでも、同じように無料のところもありますが、だいぶ前に泊った大阪のリッツカールトンや、広島のシェラトンのような外資系ホテルでは、有料でした。一晩使って1000円ですが、ビジネスホテルが無料なのにもったいないと思ってしまいます。部屋の冷蔵庫の中の高い飲料ではなく、コンビニで買ってくるのと同じかも知れません。 他に、ビジネスホテルとシティホテルでは、シティホテルのゴミ箱には、ビニールの袋がかぶさっていないこと、クリーニングサービスがあるので、それ専用のビニール袋が用意されたりなど、微妙に違います。シャンプーやリンス、石鹸などは、ビジネスホテル同様に、小さなアメニティではなく、ポンプ式の容器でというシティホテルが増えているようです。 あと、ルームサービスや、冷蔵庫の中に飲料が入っているかとか、いくつかの点で違いがありますが、機能的な面ではビジネスホテルで十分だと思います。広島の工場への出張時に定宿だった、宮島口のコーラルホテルや、大阪守口の工場への出張時の定宿、旧大日ターミナルホテル(現守口プラザホテル大日)は、朝食無料で。ともに、一泊5000円と少しです。 宮島口のコーラルホテルは、部屋の向きによって、宮島への連絡フェリー乗り場の前で、宮島の鳥居や、瀬戸内海に昇る朝日が良く見えます。世界遺産に指定されたことで、宮島を訪れる外国人も泊まることがあり、国際的になっています。ほとんどが駐車場しか見えない反対向きの部屋でしたが、最後に泊ったときは、お願いして、瀬戸内海側にしてもらいました。 大日の方は、高速道路とモノレールが目の前で、ちょうど目の高さに見える階の時は、やや鬱陶しい感じです。何回か泊まって、待遇が良くなると上階になって、高速道路とモノレールを見下ろすようになると、静かになり、空が見えるようになるので、快適度が増した感じでした。 今度の会社では、出張する場所が違うので、今までと違う宿に泊まることもありそうです。始業時間が9時なので、日帰り出張が増え、まだそんなに宿泊出張はしていません。新しく泊まったビジネスホテルは、金沢小松空港近くのビジネスホテル、温泉つきだけです。もっとも、タクシー以外に移動手段がないので、少し遠くても、金沢市内の方が良さそうです。
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今日も思いつくまま・・
10月14日(月)
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数年前から、出張が増えました。宿泊はほとんどがビジネスホテル。前の職場で、九州の工場が植木(合併で熊本市になっています。)と玉名というところにあった関係で、ビジネスホテルより温泉旅館が近く、植木温泉(平山)、玉名温泉(白鷺荘別館)に泊ることがありました。 白鷺荘別館は、宴会場も広く、いわゆる温泉旅館ですが、平山はクレジットカードも使えない、家族経営の旅館でした。どちらも温泉は気持ちよく、露天風呂もあって快適。仕事でこんなところに泊って申し訳ないなという気持ちになるくらいでした。平山は朝食付きで6000円、白鷺荘別館は8000円くらいだったと思います。 熊本出張でも、訪問先の関係で、ビジネスホテルに泊まることもあり、定宿は熊本駅前のJR九州ホテルチェーンのホテルでした。一番安く泊まったのは5000円以下でしたが、大体は5000円台。駅構内と言えるくらい近いので、満室の時もあり、早めに予約するようにしていました。 7時24分の電車で植木に向かい、そこで近所に住んでいる社員にピックアップしてもらって、工場までクルマで出勤だったので、7時から始まる朝食はパスして、コンビニか駅構内のパン屋で前夜買っておくか、7時開店の吉野家かミスタードーナッツで食べていました。もっとも、6月に泊ったら、6時台から朝食がスタート、早めに出かける人が多かったのかも知れません。 このホテルが混んでいる時、駅前のホテルニューオータニと、ルートイン熊本駅前というビジネスホテルに泊まったことがあります。ルートインは温泉大浴場つきで、朝食も早くからスタートし、値段も安くて良かったのですが、便利さと新しくて設備の良いJRホテルにはかなわないという感じで、結局一回だけでした。 ホテルニューオータニは、さすがと思うかなと期待していたのですが、すでにオープンしてから、だいぶ経っているよう、リニューアルもしていないので、積極的におすすめという感じではなく、残念でした。確か、値段は朝食なしで1万円前後だったと思います。ホテルや旅館のリニューアル問題、なかなか難しそうです。 もう一回は、駅前ではなく、通町筋という繁華街の近くにあるホテルニッコー熊本。ここはホテルキャッスルに次ぐ、熊本の一流ホテルなので、設備もよく、一流ホテルという感じでした。値段は朝食なしで1万円くらいと駅前のニューオータニと同じくらい。前夜の予定の関係で宿泊し、良いホテルでした。 唯一、問題は駅までの距離。タクシーで行けば簡単ですが、早い時間の市電は本数も少なく、真冬だったので、停留所で待つ間の寒さも格別。来たら来たで、早朝の空いた通りをゆったり進む感じで、永遠に着かないのではと感じるくらいで、終点に着いた途端、トイレに駆け込みました。無理せず、タクシーに乗った方が良かったのかも知れません。
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今日も思いつくまま・・
2013年10月7日(月)
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東京駅丸の内南口から等々力操車場に向かうバスは、目黒駅から坂を下りて、大鳥神社前で山手通り(環状6号線)と交差します。目黒駅からの坂は一方通行、山手線の外側は、上りの道路が山手線の内側に向かった一方通行、駅前は五反田向きに、外側への下りという感じで、三角形になっています。 目黒の駅前には、池波正太郎の随筆にも出ているとんかつ屋、「とんき」という店があります。清潔なカウンター、キビキビとした従業員。特徴のある衣のとんかつです。もっとも、大好きだったとんかつ、8年前から突然食べなくなったので、最近は行っていませんが、この店や自由が丘の支店に何回か行ったことがります。 大鳥神社からは今度は上りになって油面。この先には元競馬場、鷹番と珍しい地名が続きます。元競馬場はその名の通り、元は競馬場があったということです。鷹番は江戸時代、鷹狩り用の鷹を飼育していたのでしょう。目黒のさんまは、確か、鷹狩りをした将軍が帰りに、庶民の家のさんまを食べ、おいしくて感激したというストーリーだったと思います。 面白いのは、お城でさんまを食べたいと言って出されたものは、いろいろ調理されて油も抜け、まずかったいうこと。将軍も気の毒だという話。組織のトップが本当のことを知るのは簡単ではないということと相通ずる気がします。江戸時代から何も変わっていないようです。 左側にダイエー碑文谷店を見ると環状7号線。都立大学駅前を過ぎると、自由が丘。セレブの街白金から目黒駅を越え、山手線外側で庶民的な街になった目黒通りが再度、高級住宅地のそばかなという感じになります。その先、環状8号線に近づくと等々力駅。終点の等々力操車場になります。 このバス、東京駅丸の内南口から目黒駅までは都営バスと同じ200円、目黒駅から先は東急バスの料金の210円、目黒駅を越えて乗ると210円。これは東急バスの単独運行になっても同じです。確か消費税が5%になった時に、転嫁するかどうかで違った都営と東急の料金差、8%になったらどうなるのでしょうか。 等々力操車場のそばにあるのが、等々力渓谷。とても東京とは思えない渓流ぞいの遊歩道。一度だけ行ったことがあります。東急バスの一日乗車券を買って、降りたり、乗ったりを繰り返すと、面白い路線です。平日のラッシュ以外の時間帯は大体15分毎の運行。バスの散歩道でした。
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今日も思いつくまま・・
2013年9月29日(月)
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東京駅丸の内南口から等々力操車場行のバス。東京駅丸の内南口の乗り場はこの路線と晴海ふ頭方面に行くバスだけ。昔は山手線の外側に行く長距離路線も多く、もっと賑わっていました。経堂行のほか、小田急バスと相互乗り入れだった武蔵境行きがあったように記憶しています。また、等々力操車場行も当時はその先、桜新町行だったような気がします。 武蔵境行は、今でも新宿駅西口発の小田急バスの路線で残っています。1時間に1本、車体長の短い小型バスでの運行ですが、甲州街道から、井の頭通り、五日市街道と通って、武蔵境駅。渋谷区から世田谷区をかすめて、杉並区、武蔵野市、三鷹市と、主に住宅地めぐり。渋滞にひっかかることも多く、なぜ残っているか不思議です。 東京駅丸の内南口の横は東京中央郵便局。丸ビル、新丸ビル、国鉄本社(丸ノ内オアゾ)に続き、東京駅丸の内口を囲む高層ビル。Kitteという名前ですが、まだ入ったことはありません。このビルと、永田町、千代田線国会議事堂前の入り口の前にある元のキャピトル東急ホテルは、なかなか入る機会がなく、未踏の地です。 等々力操車場行ははとバスのターミナルになっている東京駅のガード横の前を通って、昔の東京都庁(東京フォーラム前)を右折して馬場先門へ。はとバスは昔よりコースが多くなったような気がします。観光地としての東京は一生に一回東京見物をするだけの場所ではなくなったようです。 お濠端の通りを走って、日比谷公園の先を右折、右に日比谷図書館、日比谷公園、左に富国生命ビル、日本記者クラブのビル、旧日本長期信用銀行ビル(新生銀行)など、旧飯野ビルの角を左折。右側が経済産業省です。旧飯野ビルは飯野海運という船会社のビル。ここも建て替えられました。 愛宕山、愛宕神社の急な階段(出世の階段)を右に見て、東京プリンスホテルの前を右折。愛宕ヒルズなど、森ビルの高層建物は出来たものの、東京プリンスホテルから東京タワーのあたりはそんなに変わりません。東京タワーと増上寺の間を走り、赤羽橋から桜田通り(国道一号線)。赤羽橋を過ぎると右に見える慶応義塾の角を右折し、魚籃坂下から白金。 白金からは目黒通りをそのまま、等々力操車場方面へ。目黒駅の手前には、白金自然教育園などがあり、緑の多いところ。地下鉄白金台駅のあたりを右に入ると、セレブの通りで有名なプラチナ通り、確かにそんな雰囲気を感じます。白金高輪駅から目黒駅までの間の地下鉄は、都営三田線と東京メトロ南北線の共同利用線。相互乗り入れバスと同じです。 東京駅から目黒駅まで乗っても、200円で東京見物。東京フォーラム、丸ノ内のオフィス街、皇居、日比谷公園、霞が関の官庁街、愛宕山(放送発祥の地)、増上寺、東京タワー、慶応義塾など、昔ほど渋滞もなく、比較的スムースに走るので、バス散歩には格好の路線の一つだと思います。
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今日も思いつくまま・・
2013年9月23日(月)
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愛宕山の近くにある会社、バスが便利です。歩いて数分の停留所から東京駅まで順調なら10分ほどで到着します。虎ノ門交差点から経済産業省前、右折して、日比谷図書館の横を通り、さらに左折して日比谷通りを走って、帝国ホテル、日生劇場の前を通り、お堀端で右折して馬場先門の停留所。 東京国際フォーラム横を通って左折したあと、少し走って右折。東京駅丸の内南口が終点です。昼間でも15分に一本くらい走っているので、スマホや携帯で運行状況を確認すれば、待つ時間も少なく、十分実用になる頻度です。ということで便利な路線。朝は本数も増え、通勤客も結構利用しています。 このバス、東京駅から山手線、環状7号線を越え、世田谷区の等々力まで。以前は、目黒駅から山手線外側をエリアとする東急バスと、内側の都営バスとの共同運行でしたが、最近、都営バスが撤退し、東急バスだけになっています。都営の分も東急バスで運行しているので、頻度は同じ。 昔は、このように山手線の内外を都営バスと民営バスとの相互乗り入れは他にもあり、東京駅丸の内南口から小田急線経堂駅、東京駅八重洲口から京王線幡ヶ谷駅、同じく東京駅八重洲口から渋谷経由で東急大井町線等々力駅という路線が都営バスと東急バスの共同運行でした。 そのほか、確か朝晩だけだったと思いますが、世田谷区の桜新町(今の田園都市線桜新町駅)と東京駅丸の内南口の間、渋谷から霞が関までの間、首都高を利用する路線があり、首都高が渋滞しなければ、あっという間に都心でした。こちらも、都営バスと東急バスとの共同運行。 これらの長距離路線は、渋滞のせいや、地下鉄の開通などの理由だと思いますが、定時に走れることがなくなり、次第に本数が減って、渋谷駅で分割されたりと、長距離運行を止めてしまいました。分割された路線の中には、すでに全線廃止された路線もあり、歴史になっています。 その中で、東京駅丸の内南口と等々力(等々力操車場)線は奇跡的に残っています。今は渋滞が以前より減ったこともあり、実用路線として存続しています。以前、虎ノ門から終点の等々力まで乗ったことがあります。東急バスだけになっても、山手線内は都営バスと同じ200円、山手線外と内外通しで乗ると210円です。次回は見どころを紹介します。
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今日も思いつくまま・・
2013年9月16日(月)
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オフィスに向かう散歩コース、東京オリンピックメイン会場だった国立競技場近くも、様子が変わるみたいです。国立競技場自体が大改装されるだけでなく、神宮球場ヨコの日本青年館や、都営霞ヶ丘団地なども取り壊され、明治公園のまわり、しばらくは工事中になりそうです。 この間、銀座線京橋駅から、明治屋ビル直結の出口を出たところ、改装のため明治屋ストア閉店のお知らせが貼ってありました。都営三田線神保町駅小学館ビル出口でも、小学館ビル取り壊しのお知らせ。こちらは閉館を機に、館内に描かれた漫画で話題になっていました。 明治屋ビルは、取り壊しではなく、改装だそうで、歴史を感じさせる建物として残り、再度明治屋ストアがオープンするようです。一方、もう少しあとの時期、高度成長期に建てられた感じの日本青年館や小学館ビルは取り壊され、街ごとガラッと変わることになるのでしょうか。 戦後、高度成長期に建てられた普通のビルが、どんどん消えていくようです。明治屋ビルのようにそのまま保存して改装というのは少なくても、明治時代、大正時代のビルは丸ノ内界隈にあるように、外装だけとか、一部を残すようになっています。昨年オープンした東京駅丸の内口もそうでした。戦後組の八重洲口は跡形もなしです。 散歩していて、一番のがっかりは、慣れ親しんだ店がなくなり、建物に囲いが出来て、壊される準備完了を目の当たりにした時。毎日通る道、たまに来る道、どちらも同じです。とりわけ、子供のころ、華やかに新築した建物がどんどんなくなっています。日比谷の旧三井銀行ビルや大手町のパレスホテルや旧日本鋼管ビルなど、たくさんあります。 このままだと、この時期のビルは、まだまだどこにでもあるということで、どんどんなくなり、いつの間にか、戦後、高度成長期らしい景色がなくなってしまうのかも知れません。高度成長というより、バブル期という感じだった赤坂プリンスホテルもなくなってしまいました。散歩していると、発見がいっぱいありです。
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今日も思いつくまま・・
2013年9月9日(月)
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2020年のオリンピックが東京に決まりましたので、オリンピックの関係ある散歩道。まず、代々木駅から、共産党本部の前を通って、そのまま真っ直ぐに細い道を歩くと、右手に鳩森八幡。境内の中に、富士山を模した富士塚があり、祭礼には薪能をする神社が、富士塚をPRしていました。世界遺産に便乗しているようです。 そのまま、坂を下りると1964年東京オリンピックのメイン会場、東京体育館や国立競技場のある神宮外苑。国立競技場の改装などが行われるようで、このあたり、しばらくは賑やかになりそうです。このあたりも散歩コース、神宮球場、秩父宮ラグビー場を左に見て、外苑前駅。 青山通りを左に曲がって、しばらく歩くと絵画館前のイチョウ並木。これからの季節、紅葉が楽しみです。その時期、休みの日には人のあふれる観光名所も、今の時期の早朝には、ジョギングやウォーキングの人がチラホラだけ、静かでいい場所です。前のオリンピックの時に広くなった青山通り、歩道も広く、歩きやすい道です。 青山一丁目の交差点、左に曲がって、右側に赤坂御所、東宮御所を見ながらカーブを歩いて、左側に神宮外苑、そして信濃町。まっすぐに行くと赤坂見附、最初の道を右に曲がると青山墓地から、六本木ヒルズ、分岐を右に行くと西麻布から広尾。少しまっすぐに行って郵便局のところを右に曲がると乃木坂から六本木交差点。 ここから先、虎ノ門のオフィスまで、赤坂コース、六本木コース、どちらでもOK。時間的には青山通りに面したカナダ大使館の先を右に曲がって、裏通りを抜け、千代田線の赤坂駅のそばから、裏道を歩いて、アメリカ大使館前を通るルートの方が短いようです。グーグルマップのおすすめルートもこちら。 六本木ルートは東京ミッドタウン、六本木交差点。一度壊されたアマンドも復活しました。そのまま、ロシア大使館の先の飯倉交差点を左に曲がり、神谷町駅を過ぎるとすぐ。こちらのコースは東京タワーに向かって歩くのは結構ダイナミック。アメリカルート、ロシアルート、どちらも静かな散歩道も、夜と朝の間の通りもあり、面白く歩けました。
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今日も思いつくまま・・
2013年9月2日(月)
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スカイツリーが出来る前の業平橋駅。都会のローカル駅そのもの、小田急の南新宿、東横線の代官山など、ターミナル駅から一つ目の駅は各駅停車しか止まらない寂しい駅が多く、一つ目小町と呼ばれていましたが、この駅もまさにそういう感じ。大昔、浅草へたどり着くまでの終着駅の面影は、広い構内に線路が数本。 この土地に出来たのが、東京スカイツリー。今は東京新名所。おおぜいの人が集まるようになっています。何回か、建設中は行って、近所の喫茶店に入ったり、小さな川の橋の上から眺めたりしましたが、完成後は行っていません。業平橋近所の風情がどうなったのか、見るのはどうもという感じです。 その業平橋、今の東京スカイツリー駅まで、新橋駅からバスが出ています。今回は、歩くのではなく、バスで散歩。以前は土日の新橋駅ではガラガラでした。銀座4丁目、築地、晴海、豊洲と通り、両国と錦糸町の間の通りを通って、東京スカイツリーに向かいます。 バス散歩をするときには、渋滞は大歓迎。特に、銀座のあたりで渋滞し、バスの車窓から街の様子を見るのは結構面白く、あきません。ところが、最近は以前より渋滞が減り、順調に進むことが多いような気がします。時には、早く着きすぎて、停留所で時間調整などということもあります。 最近、多いのは2階がオープンデッキになっている観光バス。17年前、ニューヨークで、乗り降り自由で2階がオープンデッキの観光バスを初めて見ましたが、東京でも当たり前に。路線バスなので、オープンデッキではありませんし、説明のガイドもいませんが、静かに自分のペースでの沿線ウォッチングもなかなかです。 一日券を持っていれば、どこでも乗り降りできますが、そうでなくても、一回200円。気になるところがあったら、下車して散歩。一つくらい先の停留所から戻る方が、散歩の距離が増え、悪くないかも知れません。スカイツリーには上らなくても、このバス、久しぶりに乗ってみようかなとは思っています。
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今日も思いつくまま・・
2013年8月26日(月)
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今のオフィスは虎ノ門、桜田通りからひとつ新橋寄りの道に面しています。岡杢栄泉(おかのえいせん)という和菓子屋の裏です。このお店、岡杢栄泉は、東京三大大福と言われているそうです。(知人の説なので、真偽のほどはわかりませんが。ちなみにあと二つは、伊皿子坂(高輪泉岳寺のそば)の松島屋と、原宿の瑞穂だそうです。 最寄駅は、銀座線虎ノ門(9分)と日比谷線神谷町(7分)。この2駅まで歩くと、猛暑の今は結構厳しいものがあります。もう少し足を延ばすと、三田線御成門(12分)か内幸町(14分)、千代田線霞が関(15分)、新橋(17分)このあたりまでが徒歩圏。気候の良い時には、歩ける距離です。 少し離れると、赤羽橋(21分)、浜松町(23分)になります。意外に近いのは浜松町。愛宕山の下のトンネルをくぐり、東京プリンスホテルの前の小公園を抜け、大門の下を歩くと右手に国際貿易センタービルが見えて浜松町です。タクシーだとワンメーター、あっという間です。 汐留もほぼ真っ直ぐに歩いて、第1京浜を渡り、東京都営競馬(大井競馬)の場外馬券売り場の方へ曲がり、最近出来たガードを越えると風をさえぎり、暑い原因と言われている汐留のビル群。このあたりまでなら、タクシーでワンメーター、季節が良ければ、十分歩ける距離。 駅まで歩き、電車を待って、降りてからも歩くことを考えると、全行程歩きにした方が早いことも多々あります。緑の中、公園の中を歩くと言うわけには行きませんが、このあたり、歩道が整備されているルートがほとんどなので、ビルや空を見ながら歩いても、そんなに危険ではありません。中野のように自転車を除けながらということもありません。 外出の多い時は、仕事をしながら散歩ですし、そうでない時も、なるべく昼には外へ出て食事をし、歩くようにしています。調子の悪い時は、足取りが重くなるので、健康チェックにも活用できます。まして、愛宕山など、快調でなければ、登る気になどなりません。さあ行くぞではない散歩、街ウォッチング、楽しくやっています。(猛暑、極寒はつらいですが)
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今日も思いつくまま・・
2013年8月19日(月)
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ニューヨーク、マンハッタン散歩がラクなのは、道に迷うリスクが小さいこと。ダウンタウンに行って、斜めの道が増えてくると、感覚が鈍り、ここはどこという状態になってしまうこともありますが、1丁目と日本語で呼ばれるストリートより北は、斜めに走るブロードウエイを除き、アベニューと直角に交差する碁盤の目です。 交差点には、ストリートとアベニューの標識が必ず、出ています。マンハッタン島のほぼ真ん中にある5番街(フィフスアベニュー)をゼロ番地とし、東側、西側、それぞれに番号が増えていくという形で住所が建物につけられています。東47丁目、西47丁目に同じ番地の建物があるということになります。 建物ごとに住所をふるので、あとで建物が分割されると、2分の1という住所が現れます。それでも、同じ住所に2つの建物がないので、たどり着くのは容易です。アメリカ全土が同じ考え方で住所がふられているようですが、碁盤の目のはっきりしているマンハッタンのミッドタウンが一番わかりやすいと思います。 街中を歩き、摩天楼を見上げて、ニューヨークを実感しながらの散歩、時おり、ビルの間やビル構内に小さな公園を見つけることがあります。緑の少ない大都会で、街路樹と並んでオアシスになっています。そこには緑があり、椅子やテーブルがおいてあって、昼ごはんを食べる格好の場所になっています。 タイムズスクエアなど、ブロードウエイが大ストリート(普通のストリートは一方通行なのが、42丁目、34丁目、23丁目などは双方向の大ストリート)と交差するとことは、車線を半分にし、そこに緑や椅子、テーブルを置くようになっています。犯罪の街、ニューヨーク、マンハッタンも様変わりです。 もっとも、日本と同様に安全かというと、ここはアメリカ、油断が禁物。街でたたずみ、ボーっとしない方が良いとは思います。17年前、ニューヨークに着任した際に言われた、マンハッタンでは見上げない(摩天楼を)、止まらない(赤信号でも安全を確認して渡る)、走らない(小走りは日本人だけ)という注意、今でも有効だと思います。マンハッタン散歩、少し気をつけながら、楽しんでください。
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今日も思いつくまま・・
2013年8月12日(月)
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今回は特別編でニューヨーク散歩。日本に戻って10年、基本的には変化の少ないニューヨークでも、あちこちに新しいオフィスビルやマンションが出来、少しづつ変わっています。30年ほど前には怖くて乗れないと言われた地下鉄も入口が表参道や明治神宮前のようになっています。 数年前に、来た時に、駅構内にあと何分で電車が来るという日本では当たり前になっている電光掲示板が登場し、その時刻通りに来てびっくりしたり、グーグルマップから地下鉄の時刻がわかり、おまけにその時間に来るという、昔だったら信じられない変化があって、びっくりしました。 まだ、現地で確認をしているわけでありませんが、テレビのニュースで郊外の駅での到着アナウンスがスタートしたという話題を流していました。英語ですから、正確性には難がありますが、電光掲示板と放送、時間通り電車が来るというのでは、日本と同じじゃないかと思ってしまうほどです。 確かに、ニューヨークに着任した1996年は、ジュリアーニ市長になって、安全な街ニューヨークが進行中だったため、まだまだ、陰の部分があり、緊張して街を歩いた記憶があります。事実、寸借詐欺みたいなのにあったこともあります。大きな被害はありませんでしたが、夜ひとりで歩いても安全な街とは言えなかったと思います。 それでも、時間や場所を選んで、地下鉄やバスの乗り方を覚えると、基本は碁盤の目のように、ストリートとアベニューが交差しているマンハッタンは、わかりやすく、すべての道に歩きやすい歩道もあり、店や建物、歩いている人やクルマを見ているだけで、セントラルパークに行かなくても、散歩しているだけで、飽きません。 夏の週末になると、セントラルパークでは、野外オペラや、バレエ、コンサートなどが何回も、ほとんどの場合無料で行われたり、アベニューやストリートを歩行者天国にして、ストリートフェアと呼ばれる縁日や、パレードが行われ、ますます歩くことが楽しくなります。 大阪と並んで、歩く速度が世界一速いと言われているニューヨークですが、それはビジネスの話、ダラダラと歩いていると人の流れを乱し、迷惑をかけていしまいますが、あちこちと見ながら歩く散歩の街でもあります。美術館、オペラ、ミュージカルを見なくても、歩くだけ、いるだけで十分楽しめる街です。
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今日も思いつくまま・・
2013年8月5日(月)
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神田への散歩道もあと少しです。北の丸公園に入る道から土手に上がると、千鳥ヶ淵と首都高が見えます。残念ながら、歩いたのが桜の季節ではなかったので、お花見が出来ませんでしたが、絶景ポイントとしては、ここが一番かも知れません。四ツ谷から、市ヶ谷、飯田橋へと続く土手に負けていません。 明治神宮を通る、麻布や虎ノ門への道でも感じることですが、山手線の内側って、結構緑が多いということです。神田への道でも、新宿御苑、麹町、番町のお屋敷街や、千鳥ヶ淵、北の丸公園など、緑の中を歩くことができます。歩道の広い甲州街道に街路樹があれば、もっと良かったのにと思います。 甲州街道も、高井戸のあたりから、府中あたりまで、ほぼ連続してけやきの大木が街路樹になり、緑を感じることができます。あまりに大木なので、台風とか強風に耐えられるのか心配なくらいです。去年、中野駅北口の立派な並木のうち、何本かが、台風で折れたあと、樹齢や健康状態を見て、切られたのは仕方ないとはいえ、悲しいことでした。 人と自転車が競合する中野駅北口の狭い歩道に大木の街路樹は無理じゃないかという感じですが、それで街路樹を切ってしまうと、昔、邪魔だからと路面電車を廃止し、排気ガスを増やしてしまったのと同じです。廃止し損なった、広島や長崎などが、路面電車の走る街として、生活にも観光にも活躍しているのを見ると痛感します。 北の丸公園を抜けると竹橋です。国立公文書館、近代美術館を左に、右には、皇居一周ジョギングラッシュを見て、お濠にかかった橋をわたると、特徴ある毎日新聞本社と東京メトロ東西線竹橋駅です。高速道路が上にある、東京らしい景色かも知れません。左に曲がって、九段下まで歩くと、東日本大震災の日に、天井が落ち、亡くなった方のいた九段会館。今は閉鎖中です。 突き当りを右に曲がり、次の交差点を左、如水会館(一橋大学同窓会館)のある交差点を右折し、少し先で狭い道に入って、まっすぐJRのレンガつくり高架をめざして歩くと目的地。代々木からだと1時間40分。ということで、一年間で2回しか歩きませんでしたが、四季を感じるくらいは歩いておけば良かったと残念に思ってはいます。
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今日も思いつくまま・・
2013年7月29日(月)
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神田までの道、やっと四谷駅です。あこがれの上智大学、右側に教会が見えると四ツ谷駅。上智大学の方へ歩くと紀尾井坂、ホテルニューオータニ。土手の上に上がって、歩くとここも桜の名所、下に見えるのが、上智大学のグラウンドと丸ノ内線。ここでも、丸ノ内線が地上に見えます。御茶ノ水駅以来です。 中央線は御茶ノ水から四ツ谷まで、快速ならノンストップ、各駅停車でも途中駅が三つ。丸ノ内線は、淡路町、大手町、東京、銀座、霞が関、国会議事堂前、赤坂見附と途中駅が七つ。大きく都心を回って、ここの到着します。トンネルから出たときの景色もよく、ホッとする一瞬です。時々、外に出る丸ノ内線、他の地下鉄にない魅力です。 四ツ谷駅を左に曲がって、分岐を右に行くと麹町、左に行くと市ヶ谷。さらに土手の上に上がると、市ヶ谷駅の前後で途切れるものの、飯田橋駅手前まで、桜の名所。お花見スポットなので、夜桜見物=宴会見物となり、周囲を気にしないみなさんを見るのもなかなか面白く、人のふり見てわがふり直せということを痛感します。 さて、広い道を真っ直ぐに歩きますが、広い道が右にスライスし始めたら、左折し、麹町、番町地区へと入ります。事務所やビルもありますが、たぶん、日本一地価の高い住宅地。さすがに、戸建ては少なくなっていますが、歴史のある立派なマンションや、新しいマンションもあり、お屋敷町という名前がぴったりです。 朝、この地区を通ると、普通の通勤、通学の風景が見られます。住宅地なら当たり前ですが、こんな地価の高いところにも、普通の人が住んでいるのだと、妙に感心をしてしまいます。敷地にゆとりがあって、緑の多い、住宅やマンション、オフィスビルもあり、静かな街です。 この街を抜けると、千鳥ヶ淵。左の方向にお濠沿いに歩くとここも桜の名所。その季節には人の波、桜の季節ではない朝は人も少なく、良い感じです。コースは右に折れたあと、すぐに左に曲がって、皇居一周マラソンコースを逆に北の丸公園、竹橋方面へ。ここでも、土手に上ると桜の名所、千鳥ヶ淵と高速道路が一望できます。 右側に見られるのが、皇居一周マラソンコース。ここは、朝でも、ジョギングしている人が多く、ブームは続いているようです。このあたりで、スタートから一時間と少し、全行程の3分の2程度になりました。そろそろ、目的付近も遠望できるようになりましたが、歩くとまだまだあります。
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今日も思いつくまま・・
2013年7月22日((月)
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なかなか、新宿の陸橋を越えられません。甲州街道を都心に向かって右側、サザンテラスのある方向、新南口はこのところずっと工事中。完成すると高速バス乗り場や駐車場の入るビルが出来るようです。そうなると人の流れも変わり、元々近かった新宿駅と代々木駅がつながってしまう感じです。 小田急デパートの上階から、見ると成田エクスプレスや東武線に乗り入れて鬼怒川や日光に向かう特急のホームは他のホームより代々木寄りにあるため、代々木駅ホームとの間は100メートルもあるかなと思うくらいに見えます。新南口ビル建設中臨時の高速バス乗り場の最寄駅は代々木駅になっています。 陸橋を越えると新宿高校、新宿御苑に隣接をし、歌舞伎町を始め、新宿の繁華街にもすぐの場所。この高校の卒業生を何人か知っていますが、自由な雰囲気だったようです。学校群制度になって受験校という感じではなくなりましたが、今は、制度も変わり、様子も変わっているようです。 新宿高校の横、甲州街道とは別に、明治通りのバイパスになるトンネルを工事中です。花園神社の手前で明治通りと分岐する広い道は、新宿高校と新宿御苑に突き当たっておしまいでしたが、このトンネルで新宿高島屋の前に出るようになると、伊勢丹前の渋滞の多い道を通らずにすむことになりますが、出来るのはいつでしょうか。 甲州街道は新宿高校のところでトンネルに入るので、新宿御苑の横の道、昼間はさらに新宿御苑寄りの緑道を歩くことができるので、気持ち良いルートです。クルマも通らない、舗装していない道は、森の中を歩くようで、夏は涼しく、冬はあたたかく、快適です。新宿を過ぎて、ホッと一息という感じ。 このあたり、新宿御苑を借景にした眺望が売りのマンションが林立しています。また、しゃれた感じの飲食店なども多く、静かな街にも人通りが増えているようです。場所柄、住宅地にある隠れ家のような店が多く、行ってみたいという感じになります。もう少し大通りに行くとチェーン店のコーヒーショップや昔からの定食屋などもあり、面白い場所です。 甲州街道のトンネルを出たところで、外苑東通りとの交差点。ここから半蔵門までの甲州街道が青山通り同様の広い3車線の道。今は、韓国大使館が麻布の仙台坂から移転しているので、厳重警戒。以前、韓国文化センターだったころの何倍もの警察官が広い通りの両側に配置されています。暑い日も寒い日もご苦労様です。 この通りの下は、東京メトロ丸の内線。新宿御苑前駅の次は四谷三丁目。昔、新宿御苑前をはさんで、新宿三丁目と四谷三丁目があるということが面白いと思っていました。考えてみれば、別にどうということないのですが。小さなころはどうしてかなと真剣に考えたものです。 この通り、歩道も広く、自転車との競合もないので歩きやすいことは良いのですが、面白いかと言えば、そうではありません。散歩って、歩いている自分と道路や建物の距離がある程度近い方が視線の移動が小さくてもいろいろなものが見えるので楽しいのではと思います。四ツ谷駅を越えるまで、歩きやすいけど、少しの辛抱です。
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今日も思いつくまま・・
2013年7月8日(月)
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散歩シリーズは、初台から神田。乗り換え案内に従い、まずは西参道から、甲州街道の手前の緑道へ。春には桜が満開になるこの緑道。元は京王線の線路。戦前、開通した時は、JRを越えたところにある新宿追分駅が起点で甲州街道沿いをずっと行く線だったようで、青梅街道の西武鉄道(のちの都営杉並線)、大山街道(国道246号)の玉川電車(のちの東急玉川線)と同じ。 その後、この線が一番に路面電車から郊外電車化し、JRの沿った形で西口側に駅が出来、しばらく甲州街道の真ん中を走ってから、右側に東京瓦斯のガスタンクを見て、今の文化服装学園のあたりで斜め左に専用軌道に入り、玉川上水に沿って、今の緑道沿いを走っていました。 確か、昭和37年か38年に専用軌道がなくなり、新宿から初台の先までが地下になるまで、4両編成の緑の電車がのろのろと甲州街道を走り、専用軌道になってからスピードを上げるのを覚えています。東京瓦斯の巨大なガスタンクが子供の目から見て、こわかった記憶があります。今のパークタワービル、高級ホテルパークハイアットがあるビルです。 京王線は、さらに昭和50年代に京王新線が甲州街道の地下を通って開通し、初台駅、幡ヶ谷駅が新線の駅となり、緑道の下の京王線は京王新線と合流する笹塚までノンストップで走るようになりました。地下にあった旧初台駅はそのままで通過となり、今でも目をこらすと、遺跡を見ることができます。 さて、文化服装学園のところで、緑道から甲州街道に合流し、大学構内の桜並木を歩いたあと、歩道に出ます。文化服装学園の桜並木から緑道の終わる幡ヶ谷の先まで、桜のシーズンはなかなか見事です。玉川上水も埋められ、架けられた橋だけが残っているところが数か所。こちらも面白い散歩コースです。 甲州街道も、このあたりは歩道が広く、通行人が多くても歩きにくいことはありません。文化服装学園の学生のカラフルで、時に奇抜なファッションを見るのも結構楽しみです。もともと、女子だけだったこの学校、文化女子大も名称変更されて共学になりました。女子大や女子校の共学化、結構多いみたいですね。 昼に歩くと、いつも行列のできる店があります。つけ麺の「やすべえ」。ラーメンもありますが、ほとんどの人がつけ麺。何回か食べました。今風の言い方では普通においしいのですが、行列店。若い人の多い新宿で、並盛、中盛、大盛が同じ値段が受けているのかも知れません。お得で、コスパが良いということなのでしょうか。 そろそろ、新宿です。南口の代々木より、新南口は大工事中。完成するとバスターミナルや駐車場のあるビルが出来るようです。線路の手前の右側が、JR東日本の本社や、小田急のサザンタワービルにつながるサザンテラス。クリスマス前後に行われるサザンライトという光のイベント、なかなか見ごたえありです。 7年ほど前、そのサザンテラスに一号店が開店したのが、クリスピークリームドーナツ。この店、2001年の9月11日で崩壊したニューヨークのワールドトレードセンターにあったので、出来た時にはびっくりでした。たまたま、ここをプロデュースした会社が知り合いだったので、オープニングイベントに行きました。 ドーナツ屋のイベントでしたので、店のドーナツ何でも食べて良いと言われましたが、そうそう食べられるものではなく、2個がやっとでした。12個入りのお土産をもらい、こんなに甘いアメリカ風のドーナツ、流行るかなと疑問に思いましたが、翌日のオープニングから大行列、一時間以上待ちに。この行列、さすがに今はなくなったようですが、何年も続きました。 確かに、このドーナツ、甘さはかなりですが、たまに食べたくなる味です。一回出て、六本木で復活した甘いシナモンパンのシナボン、大好物なのに、日本では人気今一つのソフトプレッツェル、アウンティアンなど、アメリカンスイーツはなかなか定着しないようですが。クリスピークリーム、いつまでもあってほしいと思います。
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今日も思いつくまま・・
2013年7月8日(月)
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中野までの散歩、弥生町を抜けると中野富士見町、東京メトロ丸ノ内線が中野坂上から分岐をし、車庫のある方南町に向かう支線。神田川に沿って地下を走っています。この神田川、最近は改修もされ、昔のように豪雨のたびに水害ということはなくなったようですが、以前は、このあたりや、文京区に入って、飯田橋の手前など、すぐにあふれる大変な川だったようです。 中野富士見町には、京王バスの車庫があり、朝歩くと、出庫して行くバスを見ることができますが、逆に夜行便で着いた高速バスが入れ替わりに入庫しています。京王バスと共同運行になっている地方のバスがそれぞれの会社のカラーやデザインで止まっている光景は楽しめます。冬など、雪を乗せたままだったりもします。 車庫のあるところが一番低く、そこから中野へは坂道。確か、バス停では十貫坂上という停留所があったので、坂を重たいものを担いで上がるという伝説があるのでしょう。坂を上がって右に入る道を行くと鍋谷横丁、名前の由来は知りませんが、青梅街道に合流するあたりの前後、商店が並んで賑やかです。昔は鍋屋が並んでいたのかも知れません。今でも一軒は残っています。 右に入らないでまっすぐ行くと、荻窪へ行く方の丸ノ内線新中野駅。左にバス停の名前になっている杉山公園。街の中にある普通の公園ですが、広場の少ないこのあたりでは貴重な存在のようで、改修され、自転車駐輪場が地下に出来たり、たぶん、防災拠点としての工事などもされ、ずいぶんときれいになりました。風情がゼロですが、公園はホッとします。 せっかくだから、新中野駅ではなく、鍋谷横丁駅にすれば良いのにと思いますが、いろいろと事情があったのでしょう。地下鉄の出来る前走っていた都電杉並線の停留所いくつかをまとめて一駅ということで、地元がまとまらなかったのでしょう、中野坂上の先、新中野、東高円寺、新高円寺、南阿佐ヶ谷と味も素っ気もない感じです。 昔の都電杉並線のように、山手線の西側にある新宿から外側を走る路面電車は、元々西武鉄道のルーツの会社が作り、都営になった杉並線が丸ノ内線に、京王線はそのままの名前で立派な郊外電車になり、渋谷から走っていた東急玉川線は地下鉄になって、田園都市線と名称が変わっています。昔はゆったりしていたのでしょうね。 いよいよ、中野通りの下り、最後の交差点から、少し上がると、左に新しく出来た丸井、正面に中野サンプラザを見ると中野駅です。中野へ通勤するようになった4年前と違い、駅前も整備され、警察学校跡地に、再開発ビルが建ち、中野セントラルパークとして、キリンビール本社や、早稲田大学、明治大学などのキャンパスも出来、様変わりです。 もっとも、中野ブロードウエイや、迷路のような飲食街はそのままです。中央線で中野駅北口を出て、正面はブロードウエイに続くアーケード、右は時の流れが止まったような飲食街、左にサンプラザとその先の中野セントラルパーク、なかなか面白い光景です。なお、通勤はもう少し先の早稲田通りに沿った場所まで。もう少しです。 初台から中野までの散歩、歩くと1時間弱、アップダウンもあり、途中に商店街があったりとなかなか楽しめます。中野から歩けば、最後は初台から新宿。初台からであれば、中野探検もおまけで楽しめます。そんなに距離が離れているわけではないのに、バラエティに富んだ街の様子が感じられます。
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今日も思いつくまま・・
2013年7月1日(月)
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前回の続き、初台から中野への散歩道。不動通り商店街は幡ヶ谷不動の門前町というより、住宅街の普通の商店街。衣料品も売っているスーパー、揚げ物を売っている肉屋、米屋、文具屋など、日用品なら問題なし。残念ながら、魚屋、本屋など、少しづつ業種が欠けています。 早朝に歩くのが良いのはBGMがないこと。昼間や夕方だと、人通りが少なくてもBGM、寂しい商店街の象徴のように思えますし、商店街に面して住んでいる人がうるさくないのかと心配に。慣れると平気になるのかも知れませんが、どこにでもあるBGM、静かってのは貴重だと感じます。 店が減り、右に居酒屋、左にオールドファッションそのものの喫茶店を見て、坂を下りると右折。この喫茶店、一度入ったことがありますが、昔そのもの。スタバやドトールなどコーヒーショップが増える代わりに、平成になって数の減った喫茶店。今のうちに入っていた方が良さそうです。 右に曲がった後も、商店街の名前の入った街路灯、もっとも、数件の飲食店などのほかは店もほとんどなく、そのうちに狭い道に。クルマの擦れ違いは無理。消防車が入るのも難しそうな道、路地という名前そのもの、生活感たっぷりの中を少し歩くと、氷川神社。左に曲がって、分かれ道を右に。 少し歩いて、東大教育学部付属のところの狭い道を右に。東大付属は実験学校、筑波大や御茶ノ水女子大、学芸大などの国立大付属とはちがって、受験校ではなく、確か、双子の教育をテーマにしていたと思います。狭い道に面しているのは高い塀だけ、反対側には住宅。このあたりはまだ渋谷区。 突き当りを左に歩くと細い道がバスも走る方南通りとすぐに合流。反対側の歩道へと横断すると中野区、学校の前なのに不思議なことにアダルトグッズのショップが一軒。もっとも、歩くのが朝なので、今でも営業しているかどうかは不明。少し歩いて今度も細い道を右に曲がって、しばらくすると、川島通り商店街。このあたり、駅前ではない商店街があちこちにあるようです。 規模とか、業種は不動通りと似たように感じで、少しづつ規模が小さい感じ。スーパーと呼べそうな店がないので、商店街という言葉はこちらの方がマッチしています。その中で、麺類だけを売っている店あり、たぶん、飲食店への卸が中心だと思いますが。街路灯やゲートの立派な川島通り商店街、良い感じです。 歩道のある一車線対抗の道を渡ると中野区弥生町。住宅街として、少し広くなった感じで、敷地が広くなり、少し歩くと分譲の低層マンション。不動通りからここまでは、小さな住宅と賃貸のアパートばかりだったので、街の雰囲気が変化。道も少し広くなり、空も広くなったように感じます。このあたりで中野までの散歩道は半分から3分の2.
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今日も思いつくまま・・
2013年6月24日(月)
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今日の散歩コースは、自宅から中野。初台交差点から山手通り、長い間工事をしていたのが、やっとほぼ完成しました。初台交差点上空は首都高4号線と中央環状線とのジャンクションになっているので、二重三重に立体交差があり、クルマが飛び出してこないかなと心配するくらいのダイナミックな光景。 中央環状線は山手通りの下、すべてトンネル、山手トンネルと呼ばれています。首都高渋滞解消の切り札でしたが、大橋での首都高3号線とのジャンクションでらせん状に筒の中を走行する部分と、首都高3号線下り東名方面で、ジャンクションのところから登り坂になっているための速度低下が原因で、あらたな渋滞名所が出来たようです。 初台交差点の未来的な光景、うっとうしいということはうっとうしいですが、慣れと言うのは怖いもの、あまり気にならなくなっています。むしろ、山手トンネル完成後、山手通りの歩道が広くなり、自転車との関係もある程度改善され、快適に歩けるようにはなりました。できれば、もっと街路樹を増やしたら良かったのにと思うのですが。 バス停も、歩道をその分狭くすることで、走行車線から入った形になっているので、工事中渋滞が常態だった山手通りの流れは確実に良くなり、歩いていても快適度が向上しました。中野までのルートで山手通りを歩くは、初台交差点から不動通り入口まで。あっという間です。もっとも、ナビルートではもう少し先の初台リハビリテーション病院までですが。 初台リハビリテーション病院は、リハビリテーション専門では有名だそうです。昼時間だと、職員と一緒に歩いてリハビリをしている人を見ることが出来ます。ちゃんと外出着に着替え、お出かけという感じでのリハビリです。義務としてのリハビリだけでなく、外出をすることで意欲が増すということだと思います。効果ありだと思います。 ナビルートを通って、歩いたこともありましたが、好きなのは不動通りコース。駅の名前にもなっている幡ヶ谷不動があるので、不動通りと呼ばれているのでしょう。渋い商店街です。幸い、シャッター通りにはならず、場所柄、しゃれた店やラーメン屋なども出来ている一方、昔からの商店もそこそこ残っています。 しばらく歩くと坂道を下るようになります。このあたり、渋谷区本町から中野にかけては土地が低くなっているようで、小規模な住宅やアパートが密集しています。庶民的な街そのもので、親しみやすく、そこここに猫がいたりと面白いですが、火災でも起きたらと思うと少し心配です。(ここから先は次回)
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今日も思いつくまま・・
2013年6月17日(月)
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前回に続いて散歩の話、初台にある自宅から、明治神宮を抜けて、表参道、根津美術館の横の細い道を下りて、西麻布。隠れ家のような店が点在する細い一方通行の道にある花屋さん、開店前の店先に鉢植えがいっぱい。持って行く人や酔っ払いがいたずらしないのかと心配に。 ずっと鉢植えを出したままなので、おそらく、そんな被害もないのでしょう。少し安心しました。さて、ルートを続けると、西麻布の交差点、以前、行列の出来るアイスクリーム屋で有名になり、あとではサクラもいたという話も出た店のある交差点を広尾の方へ。笄町(こうがいちょうと読みます)公園から裏通りに入り、超高級マンションのある北条坂を上がり、坂の上の交差点に。 左は中国大使館、警備の警官が結構います。夏や冬、外での警備は大変だと思います。ご苦労様です。右の道は有栖川宮記念公園。都立の図書館があり、大昔、受験のころ、行ったことがあります。真っ直ぐの道の右側には、愛育病院。有名人の出産が多いのは、ここと、日赤産院だそうです。日赤産院は、西麻布の交差点を渋谷の方にあがってそんなに遠くありません。 愛育病院の先にあるのが、東京ローンテニスクラブ。有栖川宮記念公園や野球のできるグラウンドとつながっている感じです。以前、ここに入るのは大変だという話を聞いたことがあります。早朝通勤がてらの散歩なので、そんなに大勢の人がプレーをしていたわけではありませんが、いかにもセレブという雰囲気を感じます。 向かい側は、東大合格者数で有名だった麻布学園。制服なしの自由な雰囲気の男子校。さすがに賢そうな感じです。今はライバルも多く、トップクラスの合格者数ではないようです。笄町公園を広尾に向かって歩いて右側にある広尾学園、昔の順心女子学園も今は共学で英才教育を売り物にしているようです。 このあたり、アメリカンスクールやインターナショナルスクールのバス亭があり、子供を送ってきた外国人が大勢いて、ここはどこだという感じです。この光景だけでも、見る価値ありです。時間は結構早く8時前後でした。その先が仙台坂、今は建築中で四谷に移転している韓国大使館が右側、ここも警察官が多く、何回か歩くと顔見知りになりそうでした。 坂を下りたところが麻布十番商店街のはずれ、紀ノ国屋のような感じのしゃれたスーパーや、小さな店があります。残念だったのは、古いけどおいしかったパン屋さんが改築して、しゃれた感じになったこと。気軽に入りにくくなってしまいました。というところで、2年間通ったオフィスもそば、このルート、バラエティに富んだ散歩コース、私の一番でした。
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今日も思いつくまま・・
2013年6月10日(月)
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散歩が趣味と書くようになってだいぶ経ちます。趣味と言えば、読書、旅行、ゴルフなどが定番の中、10年ほど前に散歩と書くと、予想外という感じでした。ウォーキングとなると、専用のシューズとかもあり、ハイキングやジョギングのように隣接分野に立派な趣味と言えるものがあるので自然でしたが。 散歩のイメージはブラブラと歩き、運動という感じでもないし、あちこち見て歩くと、変な人がいると思われたりと、趣味としてはいかがなものかだったのかも知れません。定年後、一眼レフカメラを買うのは、カメラを持っていれば、ブラブラ歩いても、変に思われないからということを聞いたこともあります。 確かに、家にいるときと同じようなジャージを着たり、スリッパのようなサンダルで歩いたりすると、イメージが良いとは言えません。何か落ちていないかと探している方がぴったりという感じかも知れません。運動ウォーキングやジョギングほどではなくても、電車やバスに堂々と乗れ、どこのお店にも入れるような格好をした方が良いでしょうね。 しかも、最近は、もやもやさまぁーずや、ちい散歩、ぶらり途中下車などの散歩番組が増え、ブラブラ歩いて、目についたものを見て、感心し、食べるというのが、徐々に市民権を得るようになりました。もっとも、番組では、ぶらり途中下車なども、寄る店での事前の準備やリハーサルが大変で、決して、すべてが偶然ではないようですが。 ということで、趣味は散歩と堂々と言えるようになったのは良いのですが、団塊の世代のご夫婦の街歩きが増えるのも嫌だなとわがままなことを考えてしまいます。さあ、やるぞと言わなくても、仕事の移動の途中、通勤時間や昼食時間も実行できる散歩、結構発見することも多く、趣味としては悪くないなと思っています。
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今日も思いつくまま・・
2013年6月3日(月)
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日本ではどこでも売っているマスクをNYで探したことがありました。9.11のあと、大騒ぎになった炭疽菌、蚊が原因の西ナイル熱、SARSなど、ヒヤッとしたことも多く、自ら身を守らなければと思った時です。もっとも、最初の炭疽菌騒ぎの時には、猛毒用のガスマスクでなければ防御できないということで、普通のマスクではありませんでした。 猛毒用のマスクを売っていたのは、スパイショップ、そこには盗聴器や特殊な懐中電灯など、スパイ映画で使うようなものが売られていました。一体誰が何のために買うのか、不気味でしたが、マンハッタンの繁華街、マジソンアベニューの50丁目あたりにあり、秘密めいた雰囲気はなく、ブランドショップのようでした。 NYの会社の若い人の中には、日本の両親から防毒マスクを送ってきたということで、日本でも売っているようですが、マジソンアベニュー以外でも、スパイショップをみたことがありますので、たぶん、NYの方が簡単に買えるのだと思います。日本のどこで買ったのかと聞いておけば良かったと思いますが。 防毒マスクは、戦争中に使うのだろうなという格好をしていて、これなら、確かに効果がありそうだという感じです。実際に効能を確かめたことはありませんが(笑)。あのころ、何が起こるかわからないという恐怖感はありました。グランドセントラル駅の構内に、自動小銃の引き金に指をかけた兵士がいたくらいです。 ところで、普通のマスク、インフルエンザ、花粉症その他で、半分以上の人がしているのではと思える時期もあった、日本のマスク事情と違って、NYでマスクをしている人を見ることはほとんどありません。したがって、売っている店を見つけるのは容易ではありませんでした。普通のドラッグストアでは売っていません。 結局、見つけたのは、チャイナタウンの小さな店でした。なぜ、NYの人たちがマスクをつけないのかわかりません。花粉症もあるし、インフルエンザにも気をつけているのに不思議ではありますが。こんな、日本では普通なのに、NYでは普通ではなくて、アレっと思うことがいくつかありました。今、思えば、面白いですが、マスク探しのころは必死でした。結局、使うことはありませんでした。
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今日も思いつくまま・・
2013年5月27日(月)
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走っているクルマから、タバコの吸い殻を捨てるという光景、タバコを吸う人が減っているのと、窓を開けて走るクルマが少なくなったこともあり、少なくはなったと思いますが、今でも時々、見ることができます。火のついているままではないかと思われる時もあり、困ったものです。 歩道の植え込みや、道路沿いの家の庭に、ゴミやタバコの吸い殻を投げ込んだり、捨てている人もいて、横浜で勤務をした時に、道路清掃活動に参加し、植え込みを掃除した時にはがく然としたくらいでした。火のついたままのタバコを捨てて、ボヤにでもなったら、大変です。 ニューヨークの風物詩、景色にもなった街のいたずら書き、日本でもないわけではありません。先日、アパートに、小規模ですが、誰かの作品を発見。即日、消されていました。道路はそのままになっています。人通りの多くない道ですが、誰かがいたずら書きをしていたのかと思うと、良い気持はしません。 タバコの吸い殻を捨てるのは、火がつくのを期待する愉快犯ではないと思いますが、誰かが清掃をしなければならないことや、火がつく危険など、迷惑をかけているという想像力を働かせれば、やらないわけで、こちらも確信犯。ポイ捨て禁止条例や、歩きタバコ禁止など、見ていなければ、なんでもありということだと思います。 最近になって、迷惑行為が増えているわけでないと思います。街の中の川にゴミや廃液などを捨てる人は確かに減った結果、昔ほど、濁った川を見ないで済んでいます。それでもなくならない迷惑。世の中の元気がなくなり、気持ちのギスギス度が上がると、迷惑が増えそうな気もしますし、一方で切れる人も増え、住みにくくなるかも知れません。 気がついたときに注意をすると言っても、なかなか勇気がありません。まして、走っているクルマには間に合いませんし、誰も見ていないところでは、現認も不可能です。今は何もしていませんし、気持ちで応援しているだけですが、掃除をし、捨てにくい、いたずら書きをしにくいようにすることが大事、いつかやらなければと痛感しているだけではいけませんね。
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今日も思いつくまま・・
2013年5月20日(月)
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神田のオフィスから、東北新幹線の上にできる高架線の工事を見ることができます。高架線はほぼ完成し、これからは線路をひき、架線が建設されて完成。まだ、しばらく時間がかかりそうです。以前、新幹線の上に線路では神田の景色が悪くなるという地元の反対の看板を見たことがありますが、結局実現してしまったということです。 確かに、下から見るとうっとうしい感じですが、並行して神田駅の改良工事も進行中。山手線の歴史のような駅のひとつだった神田駅も、ずいぶんと今風になり、使いやすくなるようです。すでに、西口側のトイレと一部ホームのエスカレーターが完成。遅れていたバリアフリー化が進み、神田駅の景色が激変しそうです。 新しい線路は、東京駅と上野駅とを結んで、東京駅止まりだった東海道線と上野駅止まりだった東北線、高崎線や常磐線とが相互乗り入れし、その結果、田町品川間にあった車庫を廃止、縮小して、そこを再開発してオフィス街にし、新しい駅(都営浅草線の泉岳寺駅あたり)を作るという計画の一環だそうです。 山手線の最混雑区間が上野と東京の間ということで、相互乗り入れになると、だいぶ改善されることになると期待されています。もっとも、湘南新宿ライン同様に直通すると、東京経由か新宿経由かを確かめて乗らないと、横浜赤羽間で混乱するのではと心配ではあります。 東北縦貫線と呼ばれるらしい新線に神田駅が出来るわけではなさそうですが、昔のままに近い神田駅周辺も、高層ビルが増えた神保町や御茶ノ水、万世橋あたりと同様、再開発が進むことになるきっかけにはなりそうです。新しい景色、最初は異様な感じですが、たぶん、いつの間にか日常になるのだとは思いますが、工事中の今、見る価値ありだと思います。
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今日も思いつくまま・・2013年5月13日(月)
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ゴールデンウィークのニュース。びっくりしたのは、横浜中華街、メインの通りではない関帝廟通りから、さらに細い道を入った奥にある、徳記の行列。結構な人数でした。名物の豚足ソバを食べなければとインタビューで話をしている人がいました。こんなに混むようになるまでに何回か行きました。数人並んでいることはあっても、こんなではありませんでした。
この店、池波正太郎の、「散歩の時、何かが食べたくなって」という本で紹介されています。もっとも、口絵の写真では豚足が出ていますが、本文では豚足には触れられず、普通のソバ(ラウメン)が書かれているだけです。確かにおソバや焼売、チャーハンなどが普通に美味しい店です。 副都心線を通じて、東横線、みなとみらい線が西武池袋線、東武東上線とつながり、埼玉から横浜へどっと繰り出すという話題なので、元町中華街駅の混雑や人であふれる中華街というシーンに加え、徳記も採りあげられたということでしょう。それにしても、すごい混雑だったようです。問題はこの賑わいがいつまで続くのかですが。 気がつくと、家電やパソコン、スマホなどを買おうと思うと、価格コムで口コミを読みます。知っている製品や自分の持っている製品だと、少しおかしいなとか、何か偏見や贔屓かなと思ったりもしますが、全然未知の商品だと、信じてしまいがちになります。食べログやぐるナビも同様ですが、実際に体験すると同意できないこともあります。 たぶん、徳記は、豚足ソバを食べさせる中華街の奥にある、小さな店で行く価値ありという情報が直通運転スタートでより多くの人が知るようになり、せっかくの機会だからということになったのでしょう。それにしても、情報の力、ネットの力の強さを実感しました。昔のように、知っている人だけの店を大事にするということにはならないのかと思うと、ちょっぴりさみしいですが。 埼玉県側の川越でも、同じように人があふれたようです。直通運転の効果が即効であらわれたのでしょう。このように日の当たる場所がある一方で、なかなか知られない、訪ねる人も少ない街もたくさんあると思います。街おこしの盛んな今、まだまだ、出す価値のある情報がいっぱいありそうです。
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今日も思いつくまま・・2013年5月6日(月)
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ドッと繰り出す5月の連休。今年のゴールデンウィークは前半後半と別れましたが、後半は4連休。しかもくっきりとした晴天。札幌に雪が降るなど、例年より少し肌寒さを感じましたが、寒くなく、暑くなく、散歩には最適。しっかり歩くと少し汗ばみますが、気持ち良く歩くことができます。
ウォーキングと意気込まなくても、毎日の通勤や、仕事での移動で結構歩いています。10年以上前、初台に会社が引っ越した時、原宿から明治神宮経由で歩いて以来、歩くことが増えました。明治神宮の緑の中を気持ちよく歩くだけで、過敏性腸症候群気味だったのが、トイレを気にして通勤することが減ったというおまけもありました。 横浜みなとみらいに勤務をしていたころは、初台に引っ越していたので、原宿駅まで明治神宮を抜けて25分、横浜駅からみなとみらいの会社まで15分。麻布勤務の時は、明治神宮、表参道、西麻布経由で全行程1時間15分。もっとも、さすがに毎日ではありませんでしたが。 今のアパートにめぐりあったのも、明治神宮を抜けて、初台のオペラシティに向かう間に見つけた看板がきっかけでした。2003年、少し景気が悪化し、ローンが組めないためのキャンセル住戸などもあり、破格の条件で購入することになりました。歩いていなければここには住んでいなかったと思います。 今の神田へ、2回ですが、歩いたことがあります。甲州街道を新宿に向かって歩き、新宿御苑の横の道に入り、もう一度甲州街道に出て、四谷三丁目、四ツ谷駅を通り、麹町、番町の億ション地帯を抜けて千鳥ヶ淵。北の丸公園と皇居の間の道を通って竹橋に出て、神田に向かいました。 1時間40分、8キロ余りの距離です。さすがに毎日歩くということはなく、結構気合いを入れないと歩くことにはなりませんが、麻布コース同様、街と自然のミックスで、歩いて楽しく、目を楽しませてくれます。趣味の散歩をしながらの通勤、一挙両得です。まだまだ、良いシーズン、また、歩いて通勤しようと思います。
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今日も思いつくまま・・2013年4月29日(月)
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アベノミクスは今年の流行語大賞当確と言われています。長年の懸案だった円高から円安になり、1ドル100円間近だし、株価も上がり続けているようで、すでに恩恵を受けたか、恩恵を受けることが確実になった人も多いようで、消費も活性化し、高いものが売れ始めたと言われています。
せっかちなマスコミはバブルの再来かという記事を出し、失われた長い年月を経て、やっと景気がよくなったと思えるような感じです。春闘でも、満額回答が続き、これなら将来のことを心配しないで、消費出来た高度成長期になるかのような雰囲気を盛りあげるのが決まりごとのようになっています。 難しい説明をする専門家はいろいろな意見を出し、その意味でもアベノミクスで稼いでいる人も多いようですが、身近なところでは結構心配しなければならないことも多々あります。小麦粉の値上げや、ガソリンの値上げなど、生活に直結する値上げも現実のものになりそうですが、本当に給料が上がるのか、疑問です。 グローバル企業になったと言われるユニクロが世界同一賃金にすると言われていますが、グローバル化するということは、日本での給与が上がる方向には決してならず、たぶん、日本国内での雇用が海外に移転するだけになる可能性大だと言われています。物価上昇目標2%が達成され、給与が上がらなければ、その分、生活水準は下がるし、消費税も同じです。 今のところ、自分の身の回りに、アベノミクス効果を実感することはありません。ただ、アメリカ勤務時代のドルを少し残しているので、円で使おうと思うと、円安の恩恵がありますが、持っているだけでは何も起こりません。残念ながら保有しているNTT株には何も起こりません。ドコモが失速するとまた、下がるリスクありです。 どんどん発行される国債も、現金化され、いろいろなところにまわり、住宅ローンや自動車ローンが増え、企業の設備投資からお金が回れば良いのですが、物価だけが上がり、消費税が増え、給与が上がるどころか非正規雇用が増えて下がり、結果として可処分所得が減る層の分を一部の富裕層の消費増ではまかなえないと思うのですが。どうでしょうか。
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今日も思いつくまま・・2013年4月22日(月)
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渋谷と下北沢の続き。渋谷駅の計画を読むと、地下鉄銀座線の駅がヒカリエ寄りに移転し、埼京線や湘南新宿ラインが使っていたJR渋谷駅ホームが元の東横線渋谷駅あたりに移転するという駅のお引越しがあるようです。これで井の頭線から銀座線の乗り換えが遠くなります。
一方、移動距離の長かった埼京線、湘南新宿ラインと他線との乗り換えはすべてが近くなりそうです。もっとも、恵比寿駅寄りの新南口がどうなるのでしょうか。新南口近辺にはオフィスも増え、結構賑わっています。新南口から246号のガードまで、渋谷川沿いの道も東横線跡地と一緒に、整備され遊歩道になるらしいので、ガラっと変わりそうです。 渋谷駅は玉電沿線に住んでいたので、お出かけ先では玉電かバスで渋谷が一番でした。東横食堂でのお子様ランチやソフトクリーム、今でも覚えています。東急プラザ(当時は渋谷東急ビル)、東横南館、渋谷西武、東急本店、パルコや東急ハンズが出来て、新宿にくらべ地味だった渋谷が少しづつ華やかになっていきました。 そのあと、就職で実家を離れてからの渋谷の変貌は劇的でした。109が出来たころから、若い人の街になり、NHKに抜けるセンター街など、すごいことになり、時間帯に寄ってはおやじ狩りにあう危険があると言われるくらいでした。たまに歩いた時、ガングロの女子高生を見て、こわいと思いました。 どんなに現代的になっても、谷底の街渋谷は、宮下公園に抜ける狭い道にあるのんべい横町の小さな店が山手線から見えるように、開発仕切れない感じで、昔が残っていました。東横線渋谷駅の地下化で、いろいろな障害を取り除くことができたようです。整然とした未来設計図を見ると、昔の渋谷の寿命はあとわずかみたいです。 小田急は豪徳寺か経堂から下り電車が通学ルートだったので、下北沢はいつも通る場所ではありませんでしたが、当時あこがれだった輸入菓子、ハーシーやキャドバリー、それとコーラキャンディーなどが買える、今思えば、闇市の名残りでした。昭和30年代になっていたのに、感じはそのまま、ついこの間まで同じ雰囲気でした。 小田急の線路が街の真ん中にあったため、昔がそのまま残らざるを得なかったのだと思います。その雰囲気が本多劇場やスズナリなど、演劇の場が出来たり、独自の文化につながっていたのかも知れません。以前からもめていまるようですが、道路の拡幅と駅前広場が出来る計画みたいです。 渋谷も下北沢も、バリアフリーになったり、わかりやすくなるという点では良いのかも知れません。階段しかない下北沢駅や銀座線渋谷駅など、高齢者には厳しいものがあったとも言えますが。ずっと慣れ親しんだ雰囲気が昔になってしまうのは少しさびしい気がします。渋谷も下北沢も、別の場所に行ったみたいな感じがしました。
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今日も思いつくまま・・2013年4月15日(月)
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3月に大きく変わった東横線渋谷駅と、小田急線下北沢駅。長い間、大勢の人が利用していた駅だったので、マスコミでも大きく取り上げられました。移転後、街の様子が激変しそうだということもあって、余計に注目されたのだと思います。最後の日と最初の日、大変な人出だったようです。
44年前、東急玉川線(玉電)の渋谷から二子玉川園までの区間が廃止された最後の日、カメラを持って、下高井戸までの区間が残る三軒茶屋駅へ出かけました。高校への通学に使っていたこともあって、最後に写真を撮ろうという、今回、渋谷駅や下北沢駅に集まった人たちと同じことでした。 もっとも、その時には、人が殺到するという感じではなく、場所取りでもめたり、利用客に迷惑がかかるということでもありませんでした。SLブームや、ブルートレインブームがマスコミで取り上げられ、鉄道ファンが増え、今のような鉄道ファン=迷惑となるのは、申し少しあとのことでした。 2週続けて、週末に東横線中目黒駅と小田急線鶴川駅との間を移動することになりました。往復ではなく、最初が中目黒発、二回目が鶴川発でした。ということで、渋谷駅での、東横線と京王井の頭線、下北沢駅での小田急線と井の頭線との乗り換えを経験することになりました。 下北沢駅は、小田急の工事がまだ中途で、複々線が完成するまでには4年から5年かかるようです。工事中暫定という様子なので、エスカレーターも少なく、工事現場の中の仮の動線を歩くという感じで、大勢のガードマンが出て、誘導していました。これまでの階段を上下すればとすぐというわけにはいかず、5分は十分かかります。 渋谷駅は、工事完了ですが、それでも、地下深い駅から、高架にある井の頭せんの駅まで、たっぷり5分かかりました。誘導用の案内表示は要所要所に出ていますが、結構長い距離です。間違いなく、丸ノ内線の新宿と新宿三丁目の間より長いし、上下の移動もあって、余計に長く感じるのだと思います。 これがラッシュだったら、もっと大変だろうと思いました。週末も人が多かったのですが、そんなものではないと思います。慣れれば、多少は良くなるとは思いますが、時間がかかると覚悟をした方が良いと思います。渋谷駅、下北沢駅での乗り換えには、ゆとりを持って、くれぐれも無理をしないように。
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今日も思いつくまま・・2013年4月8日(月)
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スピードラーニングの広告、アメリカで活躍しているゴルファーの石川遼選手、PR効果ありで、おそらく、売れたと思います。面倒な文法から入るのではなく、日本人は中学生からある程度の英語力を持っているという前提で、問題はしゃべれないだけということっで、聴いて慣れるという手法、説得力があります。
昨日のテレビで、中学校で先生もやっている僧侶が、アメリカのダイナー(大衆レストラン)でスーパー皿と言われ、戸惑ったという話をしていました。こちらも英語教材の広告でしたが、同じ経験をしました。自分の経験では、ダイナーで聞こえたのは、スーパーサラダでした。さすがにアメリカ、ビッグサイズで仕方ないかなと思い、イエスと答えたところ、再三、同じように聞かれ、困ったものです。 スーパー皿やスーパーサラダが、スープオアサラダ、つまり、定食には、スープかサラダが付くので、どっちにしますかと聞かれているのではないかと理解できるまでには、少し時間がかかりました。そう聞けるようになると、何回か、同じようなフレースを聞いているうちに、他の文章も聞けわけられるようになるのが不思議です。 もちろん、100点などほど遠く、新しいシチュエーションでは、ゼロからスタートになります。もっとも、慣れの度合いは進んでいるので、スタート地点はだいぶ、前に進んではいますが、それでも、難易度が劇的に下がるわけではありません。ひたすら、恥を積み重ね、少しづつ前進でした。 数年で、結構上手になり、聞き取りもましになったと思ったことがあっても、逆に、7年経ったころでも、飛行機の中で、コーヒーを頼んだら、コーラが出てきたということもあり、言葉の違う場所に住むのは大変だとあらためて感じました。もっとも、英語で通じるところだから、ラクだということもあります。 ソウルで地下鉄に乗っていた時、現地の人と思われて、韓国語でしゃべりかけられ当惑したり、成田空港で同様に韓国語で話しかけられ、こちらがわからないと気づいた時の、相手の困った顔とか、いろいろな経験をしました。繰り返すことによる慣れと度胸と恥をかくことが語学には欠かせないと思います。今でも、英語でしゃべらなければならない時には、ドキドキですが。
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今日も思いつくまま・・2013年4月1日(月)
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38年前、電話事業を独占していた電電公社に入社しました。さすがに電話を引いていない家はほとんどなくなっていましたが、全国どこでも、一週間で電話が引けるようになり、また、交換手を通さず、全国どこでも、ダイヤル通話が可能になるのは、入社してから3年後、1978(昭和53)年でした。
入社直前に石油ショックがあり、採用取り消しなどが社会問題になるなど、高度成長にもかげりがあるということに気がつくことにはなりましたが、それでも、まだまだ、成長余力はあり、固定電話回線が、最高の6000万を超えたあと、減少に転じるまでには、まだまだ時間がかかりました。右肩上がりを深刻に疑わなくても済んだ時代です。 入社してから10年後の1985(昭和60)年に、民営化され、NTTとなりました。国の機関とほぼ同じ公共企業体から、国の100%所有ではあるものの、民間会社になり、そのあと、政府保有株式の売却と、世の中のバブル景気とが重なり、1株5万円額面の株が110万以上で売り出され、一瞬でしたが、最高で300万を超えるという出来事もありました。 確かに、その後、携帯電話やインターネットなど、インフラである電気通信回線を利活用したビジネスが世界規模で拡大し、民営化と同時に行われた規制緩和で、第2電電などの新規参入会社や、電力会社やケーブルTVからの参入など、競争がスタートし、次第に活性化しましたが、市場規模そのものの急激な拡大があったため、NTTグループとしても成長拡大を続けることができました。 今、ちょうど、転機にかかっています。6000万だった固定電話回線はNTT東西会社をあわせて3000万まで減少し、インターネット電話であるひかり電話をあわせても4000万です。ライバル会社だけでなく、携帯電話だけ保有するとか、すでに、固定電話の時代も終わったと思えるような状態になっています。 希望の光は、スマホの普及、家電のスマート化などで、家庭内の通信容量が激増していること。携帯電話のように、無線だけでカバーするのではなく、固定回線の特徴である安定性、高速性を最大限に活用して、家庭内だけ無線LAN化するのが、一番効率的な使い方ではないかという説が出始めたことです。昔のような独占状態は無理としても、流れが変わるかも知れません。 38年前の入社式では、想像もつかなかったというな、急成長や急激な市場縮小を経験することが出来ました。永遠に成長すると思えることもありましたが、結構エキサイティングな38年間でした。60才になりましたが、今しばらく、興味を持って、ビジネスの外周部で参画したいと思っています。まだまだ、面白いことがありそうです。
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今日も思いつくまま・・2013年3月25日(月)
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いつの間にか、3月も終わり。武道館のまわりの卒業式ラッシュも、あと数日で今度は新入社員の入社式。それにしても、時間が速くすぎると感じることが多くなっています。1才の一年にくらべ、60才の一年の長さは60分の1、つまり60倍の速さという感覚で時間が過ぎるという説ですが、それでも、大して変わらない、数年前の一年はもう少し長かったように思います。
とりわけ、寒い日が続いていた今年、3月になっても、厚いコートを手放せなかったのが、三寒四温であたたかい日と寒い日を繰り返しているうちに、今週末には東京の桜が満開。いつもの年より、2週間近くも速いようです。徐々に変われば、気温の変化、日差しの強さに慣れるのが、突然だと、気持ちも体も戸惑ってしまいます。 3月、4月は移動の多い時期。会社でも単身赴任でこちらに来た人が、引っ越し業者の手配で苦労しているようです。住むところの方は、供給の方が多いらしく、探すのに苦労している感じはありません。荷物の移動の方が大変みたいです。単身赴任の中には、一人暮らし一年生も多く、3月の転勤は最初から、戸惑うことばかりみたいです。 ある程度の年令になってからの単身赴任だと、行った先で、責任ある地位についたりして、地元の人と付き合う機会も多くなります。狭い日本ですが、場所によっては、結構違う風習があります。神奈川支店長をしていた時、神奈川県内のいろいろな場所で行われた葬儀に出席をしましたが、同じ県内と言っても、地域によって、宗派による違いと同様の違いがあるということに気づきました。 まして、西日本から東日本とか、本州から北海道や、九州、四国という具合の移転だと、秘密のケンミンショーや、何これ珍百景で取り上げられるくらい、あっと驚くような風習、習慣、常識などがあるようです。知っているようで知らない、そこにいる人だけがみんな知っているということがたくさんあります。 グローバル化と言われる今日、地域の特色を取り上げる番組があちこちで企画され、放映されているのも、わかるような気がします。春、移動の季節になって、こんなことを考えました。地域対抗みたいなところもある高校野球や、地域代表のゆるきゃらだけでなく、まだまだ、面白い、興味深いことがありそうです。
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今日も思いつくまま・・2013年3月18日(月)
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久しぶりにANAに乗りました。宮島口のホテルから、広島空港より岩国空港が近いので、使ってみました。一日、羽田行が4便、ANAが飛んでいます。マイレージのため、普段、JALに乗っているので、しばらくANAには乗っていませんでした。広島駅からリムジンバスで45分かかる、山の中の広島空港にくらべ、岩国空港は駅からバスで10分、海沿いにあります。
米軍のオスプレイが陸揚げされたのが、岩国基地。その横に新しい空港ビルが建てられ、民間用に使われるようになったものです。駅から乗ったタクシーの運転手さんは、オスプレイのご褒美みたいなものと言っていました。それでも、便利なことから、結構利用者も多いようで、利用した便もほとんど満席でした。 一日4便なので、売店があるだけで、飲食店はなし。東京から着いて、昼ごはんを食べてから仕事と思っても、一旦、空港から駅まで移動しなければいけないという不便はあるようです。それでも、宮島口と広島の中間くらいの駅からだと、岩国空港の方が近くなるので、利用者が増えてきたようです。 ローカル空港らしく、羽田から着いて35分後にゲートを離れるというダイヤでした。順調に搭乗し、離陸をしました。羽田空港にもほぼ定時で着陸しましたが、バスでターミナルビルまで移動ということと、バスへの乗車に時間がかかったりしたので、羽田空港駅に向かえたのは着陸してから20分以上経っていました。 ANAとJAL、慣れているのでJALだと、キャビンアテンダントの言葉使いや、次の動作も、自然に入って来るのですが、慣れないと、落ち着かない感じがしてしまいます。どちらが良いかというのではなく、単純に慣れの問題だとは思うのですが。同じ会社の飛行機に乗るということは、マイレージだけでなく、落ち着くとか、安心ということだと改めて実感しました。 工場や宮島口の宿に近いから、次回も岩国空港、ANAを使うかというと、こちらが極端に安くなければ、やっぱり慣れたJALか新幹線かなと思います。特割の値段も、結構搭乗客が多いからか、さほど安くはありませんでした。駅から近くて便利なことと、山陽本線、岩国と工場最寄りの大野浦との間、海沿いのきれいな景色が見られるのは魅力ですが。
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今日も思いつくまま・・2013年3月11日(月) |
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すでに2年です。あの日、広島にいたので、東京での実体験はしませんでした。午後3時ころ、訪問先で何回か携帯のバイブレーションが鳴り、外に出て、チェックをしたら、強い地震が起こったということでした。一本の電話は一回だけ通じ、会社の様子を知ることが出来ました。あとは、混み合っていますというトーキー、携帯も固定電話もすぐに規制されたようです。
広島空港で、夜になるまで待機していました。結局、この日は欠航ということになり、翌日朝の便を予約し、前日宿泊した宿に戻りました。戻って、テレビをつけてからが、津波の映像、信じられないシーンが次から次に流され、さらには、原発に関してのニュースが始まり、目をそらすことは出来ませんでした。 東日本大震災で、東南海地震や、東海地震、首都圏直下型地震、富士山大噴火などが、起こりやすくなったということです。いつ大地震が起こっても不思議ではない、活断層の上に日本列島が乗っているということをあらためて実感することになりました。関東にくらべ地震がないと言われていた神戸で1000年ぶりの大地震が起こってから、10数年後のことでした。 古文書によれば、同じように1000年ほど前にさかのぼれば、同じような規模の津波があったということです。地球や宇宙の歴史の長さ、隆起した山、噴火している火山、地球はまだまだ生きているということなのでしょう。いつか、寿命を向かえる瞬間の地球にはいたくないし、たぶん、そうはならないだろうとついつい思ってしまいます。 2年経っても、原発をめぐる問題はほとんど何も解決せず、それより、政府や企業が音頭をとって、止まっている原発の運転再開をしようとしていますが、どうすれば、より安全になるのか、回答はありません。津波や震災被害後の復興も順調に進んではいません。原発周辺地域からの避難や仮住まいが続き、時間だけが過ぎていきます。 東北地域の産品を購入したり、東北に旅行したりなど、ささやかに支援しているだけです。あっという間の2年でした。いつ来るかわからない自然の脅威、時間の経過とともに、リスクが高まることになります。今日、大丈夫だったとホッとすると、明日の危険が増えるということになるのかも知れません。などと考えました。
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今日も思いつくまま・・2013年3月4日(月) |
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東横線渋谷駅から、電車に乗りました。沿線に住んでいたわけではないので、たまに利用するだけですが、6年前まで横浜勤務だったので、定期はJRだったものの、結構乗る機会がありました。それに、世田谷通りに近いところに住んでいたので、新宿より渋谷の方がなじみが深く、38年前、大学を卒業して、実家を出るまではホームタウンみたいなものでした。
渋谷駅から少し離れた東急本店が開店したときに、東横百貨店から東急百貨店に名称が変わったと思いますが、バスの行先も渋谷駅ではなく、東横百貨店となっており、西武渋谷店もなかったので、渋谷は、戦前に東急の前身、東京横浜電鉄の街。東横食堂でお子様ランチやソフトクリームを食べさせてもらうのが無上の楽しみでした。 1960年代半ばまで走っていた都電渋谷駅前側、東口にプラネタリウムや映画館があった東急文化会館が出来て、渋谷が少し広がったように思いました。すでに壊され、ヒカリエという高層ビルになり、全年代を相手するデパートではない東急百貨店が入居しています。渋谷区の行政サービスセンターに行ったことがありますが、ヒカリエ全体は、なじめそうな感じではありませんでした。 そのあと、東横線の渋谷駅が外壁が特徴的に改装されて大きくなり、東急玉川線が廃止されました。西口に、東急プラザ、東横店西館が出来、バスターミナルも整備され、東口から都電がなくなり、今の渋谷駅になったと思います。新しいのは、井之頭線の入るマークシティと、埼京線や湘南新宿ラインの走る貨物線に出来た、恵比寿よりの新ホームが出来ました。 東横店の北側は、たぶん、一番テレビに映る機会の多い、渋谷駅前交差点に面しています。東横線渋谷駅が3月16日に地下へ引っ越し、東京メトロ副都心線と直通すると、渋谷駅の大改造がスタートするようです。何年かかけて、東横店も、東急プラザもすべてなくなり、周辺の商店や小さなビルも地上げされ、銀座線の渋谷駅もヒカリエ寄りに移転し、貨物線のホームも東横線渋谷駅の場所に引っ越すそうです。 渋谷の大改造がスタートします。便利にはなるでしょうが、ヒカリエのような無個性の立派なビルが林立し、建物だけでは、どこにいるのかわからないことになりそうです。もともと、谷底の街なので、イメージがガラッと変わってしまいそうです。東急プラザにある、昔よく行ったロシア料理ロゴスキーに行ってみようかと思っています。
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今日も思いつくまま・・2013年2月25日(月) |
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横浜に勤務した時、思ったのは、東京の隣、神戸とならぶモダンな港町、東急田園都市線沿線を頂点とした良質な住宅地というイメージだけでなく、ひとつのまとまりとしての都市だということでした。人口は東京23区に次いで2位、横浜駅の乗降客も多いという大きさは、東京の衛星都市としてのもので、横浜市自体で見ると、地方都市でした。
商工会議所やロータリークラブに参加し、神奈川県、横浜市との接触をしていると、みなさんの関心は大変限定され、たぶん、どこの商店街でも、地方都市でも同じだろうというものでした。また、九州ブロックの中心である福岡市、東北ブロックの中心である仙台市をうらやましいという話もありました。所詮、衛星都市だというあきらめかも知れません。 確かに、横浜市を通る鉄道路線のほとんどが、東京へスルーし、横浜市中心部への交通は決して便利ではありません。横浜起点の相模鉄道も、大プロジェクトとして、途中の西谷からJR、東急東横線への連絡線を建設し、都内への直通電車を走らせる工事をしています。東京のベッドタウンとしての機能向上効果はありますが、横浜駅を通過する乗客は確実に減少すると思います。 横浜財界のみなさんの関心事項も、当然のことながら、横浜の中のことになります。そこで仕事をしていくには、行政機関とうまく付き合うとか、地元でのプレゼンスを上げるということになります。とにかく、大市場ですから、横浜市のなかにビジネスチャンスはたくさんあり、既存の商圏を持っている会社はそれで十分ということになるのかも知れません。 もっとも、通販化粧品会社や、紳士服量販店のように、新しい会社は、横浜市だけでなく、全国を視野に入れ、展開しようとし、横浜がオリジナルだということを前面に出さず、商工会議所にもロータリークラブにも参加していませんでした。先日、アルジェリアの人質事件で話題になった日揮本社も横浜みなとみらいですが、同じく、地元とは無縁でした。 衛星都市、観光都市としての横浜は、間違いなく、オンリーワンの魅力を持つと思います。一方で、都市としての横浜には、いろいろな問題があり、狭い世界だなとつくづく感じました。そんな中、都市としてのアイデンティティを確立することは簡単ではないと思いました。横浜良い街です。みなさんも行ってみませんか。
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今日も思いつくまま・・2013年2月18日(月) |
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環七を走って、世田谷代田。道路の上を横断している小田急の姿を見られるのもあとわずか。3月23日からは道路の下を走ることになると発表されました。いつ出来るのか、本当に出来るのかと思っていた、小田急の複々線化、立体化もあと少し完成のようです。環八の前後、千歳船橋と祖師ヶ谷大蔵の間が高架になったのは、だいぶ前のことでしたが、それから遅々として進みませんでした。
周辺住民との話し合いが進まず、いくつかの裁判が行われたり、地下でやれという意見が出たりしましたが、結局、梅ヶ丘の先、東北沢までの間が地下になったほかは高架線での立体化、複々線化ということになりました。利用者の立場からは、朝の電車渋滞が少なくなり、便利になりますし、地元でも、踏切がなくなり、鉄道で分断されていた街の行き来もしやすくなるというメリットがあります。 その一方で、原発がすぐそばにできるのと同じように、高架線が出来ると、陽が当たらない場所が出来、今までとは違った音が聞こえることになります。自分の家の前を通るということになったら、総論でのメリットがいくら大きくても、寛容に大歓迎というわけにはいかないということは理解できます。まだ、完全解決に至っていない成田空港と同じです。 以前、小田急の人と話をした時、地下になったら、ロマンスカーに乗る人などいませんよねということを言っていましたが、それから30年ほど経った今、地下鉄千代田線からのロマンスカーも走るようになり、世の中も変わったと思いますが、それでも、景色が見えるってのが良いもんだということは変わっていません。 環七の上を走る小田急線が見られるのも、あとひと月あまり。下北沢の跡地工事や、複線での暫定開業が複々線になるまでには、もう少し時間がかかりそうですが、たぶん、あと数年で完成ということになり、便利を実感すると同時に、長年慣れ親しんだ光景を見ることができなくなると実感することになります。少し複雑な気分です。 笹子トンネルに端を発し、公共建造物の老朽化の深刻さが話題になっている今、去年の京急蒲田駅立体交差に始まり、京王調布駅周辺地下化、東急東横線と副都心線との相互乗り入れ開始と、小田急の地下化と私鉄がらみの大型プロジェクトが一気に完成することになります。複雑な感じもしますが、まずは初乗りしたいものです。
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今日も思いつくまま・・2013年2月11日(月) |
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四国に勤務した時に、慣れなかったことのひとつが味噌汁の味。米麹味噌だと思うのですが、甘みがあり、なじめませんでした。毎日、ご飯の朝食だったわけではありませんが、習慣とは恐ろしいもので、慣れないと美味しく感じられません。もっとも、うどんのつゆは関東風の醤油で真っ黒に慣れた舌にもなじみ、こっちの方がおいしいと思ったので、単に慣れないからだけではなさそうですが。
狭いと言われる、日本列島でも、それぞれの地方で、特色のある習慣や味があります。昔、青森の人と、鹿児島の人がお互いの言葉が理解できず、謡を歌うことで、コミュニケーションをしたという話もありました。多少、面白おかしく誇張された伝説だとは思いますが、南北に長い日本列島、すべてが同じというわけではないようです。 テレビ番組の、うわさのケンミンショーや、何これ珍百景、県対抗クイズなど、地域ごとに違ったり、いろいろなことがあるから成り立つ番組がたくさんあります。バラエティ番組ばかりでつまらないと言われている民放の番組ですが、積極的にはチャンネルを合わせないものの、この手の番組、ついつい見てしまいます。 興味本位で見る分には、おもしろいという一言ですんでしまいますが、味噌汁の味のように、関東の人と、愛媛の人が一緒に住むことになったら、必ず、もめそうだと思います。自分の育った時の経験がすべてということに思ってしまい、大きくなって、同級生などと話をして、自分の家や、地域の風習が独自のものだったことに気づくことがあります。 標準語で教育してから、百年以上経過しても、地域にはそれぞれ方言や、独特の言い回しなどがあります。だから、吉本のお笑いや、東京以外の土地を舞台にしたドラマやテレビ番組が、東京で興味を持って見られるということになります。テレビ、インターネットと、次第に全国が均一化していくかなとも思いますが、地方に根付いた文化はそんなにやわいものではないように思います。 地方の時代と言われて、久しいですが、残念ながら、事実は東京への集中になっていました。インターネット時代になっても、変わらないというか、もっと進むかなとも思いましたが、一方で、地方からの発信が容易になったことも確かです。全国一律で考え、その方が効率的だったと思っていたのが、そうではない、地方ごとに考えた方が良いのではないかという気もします。 東京に住んでいると、地方はそのまま、地方らしくあってほしいと思いますが、観光客の目からのわがままなのでしょう。それでも、地方に昔からある風習や文化、味などは、時代による変化はあっても、大事にしたいものです。地域をテーマにした番組が人気を呼んでいる今、日本の進路が不透明になっている今、地域に目を向けるって、当を得ていることかも知れませんね。
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今日も思いつくまま・・2013年2月4日(月) |
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ドコモに仕事上でお世話になっていることもあり、年末のキャンペーンに協力をするということで、ドコモショップで携帯電話を買いました。キャンペーン用のクーポン券が、家電量販店や代理店ではダメで、オンラインショップかドコモショップだけということだったので、いつも買っている知り合いのいる代理店ではなく、初めてのドコモショップ購入でした。
ドコモショップには、携帯のネットワーク暗証番号を忘れた時とか、予備の電池購入、使い方や手続き、料金の見直しなどで行ったことはありますが、購入は初めて。家から一番近いドコモショップは常に待ち行列が出来ていて、最悪1時間以上待つ覚悟でないとダメなので、会社の近所、神田へ人の少なそうな土曜日に出かけました。(日曜日は休み) 大変感じの良い応対で、気持ちよく手続きが進み、セットアップや電話帳などのお引越しも自分でやってもらいました。ラクで良かったのですが、問題もあります。まずは、値段がドコモのホームページに出ているより高いということ。確かに、ドコモショップに販売価格の決定権があるということで、仕方ないのですが、一括払いなのに頭金相当分が機器代金に加算されているのは理解できませんでした。 加えて、ドコモショップでお勧めするアプリを5個以上インストールしないと、さらに値段が高くなるという説明でした。このあたり、感じの良いドコモショップの店員も気の毒で、こうなっているので仕方ないという他なく、小さな声で、一旦契約した上で、契約解除してもらってかまわないので、ということでした。 インストールしなければならないアプリは、ドコモのサービスメニューからと、ドコモストアで売っている一般のアプリでしたが、一般のものは聞いたことのない、話題にもなっていないようものばかりで、その後、クチコミなども見ましたが、ナビなど、まともに動いたこともないという批評で、アプリ売りのためのアプリみたいではありました。 しかも、ほとんどのアプリがすぐに削除ページにたどり着いたのに、ナビのアプリだけが、なかなかたどり着かず、一旦ダウンロードをした上で、設定すると、削除ボタンに行きつくページへのルートが開けるというもので、削除困難度アプリで三ツ星(最高)でした。削除方法を教えてもらうプロセスで、削除困難度のサイトにたどり着きました。みんな困っているようです。 削除困難度サイトで見ると、このような売り方は、ドコモだけではないようで、他社もやり、家電量販店や代理店でも、あるようです。お世話になっているドコモですが、こんな売り方、いつまで続くのかと心配になります。もっとも、解除忘れアプリからの収入もバカにならないという話なので、まだまだ続くとは思いますが。いつも買っていた代理店がなくなったので、次回からはオンラインショップにします。
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今日も思いつくまま・・2013年1月28日(月) |
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新年になって、いろいろな事件が起こります。横浜で仕事をしているときに、一度訪問した日揮がアルジェリアで建設中のプラントでのテロ事件。人質になった日本人、外国人が亡くなったという痛ましい事件でした。立てこもっていた武装勢力を掃討しようとしての攻撃に巻き込まれた戦闘の中での悲劇でした。
大昔、30年ほど前、イランイラク戦争とか、湾岸戦争、中東危機などで、きな臭かった地域での事件。その頃、日揮とか、千代田化工建設とか、国内ではあまり知られていない会社が、中東やアフリカで、プラント建設をしているということを、通産省で仕事をしている時に知りました。そのころは、政府海外援助で出た資金でのプロジェクトでした。 危険と隣り合わせの地域でのプロジェクトで、安全を確保するということは容易ではありません。石油ショックで減速したものの、右肩上がりの経済成長が続いているときに、海外で先兵となって仕事をしている、これらの会社の人が危険にさらされ、人命を失うということになった時のことへの恐れの大きさを覚えています。 今回の事件で、危険地域で仕事をするみなさんを守るため、自衛隊が海外で活動できるようにすべきという声が上がるかも知れません。当時も、国営海外ガードマンが派遣できないことに対して、隔靴掻痒感があったのも事実です。が、そうなったら、ますます、攻撃されても仕方ないということにもなるはずです。9.11を見れば、そんな感じがします。 日揮を訪問したとき、横浜の会社ですが、横浜の財界に入らない理由として、ほとんどの仕事が海外なのでという話でした。政府との癒着があると、夕刊紙に書かれていたようですが、海外での大型プロジェクトである以上、外交と不可分になるのは仕方ないことだったと思います。海外でのプロジェクト、大変なことだと思います。 日本で暮らし、日本で仕事をしていると、このようなことを大変遠いことだと感じます。尖閣、竹島の問題を聞いても、やはり、日本って、島国だなと思います。四方、海に囲まれていることのメリットなのでしょうか。久しぶりにこんなことを考えました。この事件の結果が、妙な方向に使われないように、少し心配です。
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今日も思いつくまま・・2013年1月21日(月) |
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海外に住んでいた時、日本に帰ったなと思うのが、成田エクスプレスで成田を過ぎ、佐倉、千葉と走って行く途中で見える里山。低い山と緑、神社があったり、細い道がクネクネとしていたり、おだやかな日本らしい景色で、気持ちがゆったりとしました。贅沢な希望ですが、開発されず、このままでずっと残っていてほしいと思います。
すでに20年以上昔のバブルのころ、リゾート法が成立したり、レジャーランドブームで、あちこちが開発され、○○ランドがオープンしました。そのころ住んでいた四国でも、そのような動きがあり、いくつかは実現しました。そんな時、都会の人が好むのは都会にはない田舎そのものではないか、妙な開発などしないで、田舎を残すことが一番ではと思いました。そのくらい、四国には田舎が残っていたということですが。 地元のみなさんにとっては、好ましくはないことでしたが、開発はほとんど失敗し、残ってほしい田舎はそのままでした。ロードサイドのチェーン店が増え、古い商店街が廃れるなど、風情が失われているのは残念ですが、そんな地域から少し離れると、里山は残っています。熊本の工場に行った際、クルマで走り、緑を見ると目がホッとします。 かつてのリゾート法のように、観光客を呼び込むだけが能ではありませんが、バラエティ番組全盛のなか、BSの旅番組が結構見られているという事実を見ると、まだまだ、いろいろな可能性があるのではと思います。越中おわら風の盆みたいな全国的にメジャーなイベントではなくても、あちこちに面白いことがあると思います。 しかも、里山、海、山といった日本らしい自然があるということ、それと、コンパクトなサイズの日本列島、新幹線、高速道路を使うことで、アプローチもラクになったこと、画一的な開発がダメだとわかったことで、地域らしいオンリーワンを活かす良いチャンスなのかも知れません。言うのは簡単、実行は難しいとは思いますが。 無責任な言い方ですが、日本列島、まだまだ宝の山があり、ブームに動かされないで、人を引き付けるイベント、景色、暮らしがあると思います。もともと、地方から東京など都会に出て仕事をした人が多い、団塊の世代が退職年齢になり、時間がたっぷりあることも追い風。元気で、いつまでも里山を見て、ホッとしたいと思います。
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今日も思いつくまま・・2013年1月14日(月) |
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ニューヨークの日本食レストランで働いている人には、関西弁をしゃべる人が多かったようです。統計を取ったわけではありませんが、3000万人、つまり、日本の人口の4人に一人はいる関西弁をしゃべる人が正規分布でニューヨークにいても、東京で関西弁をしゃべる人に会う確率より、はるかに高そうです。
加えて、大阪とニューヨークの歩行者の歩く速度が世界一速いという都市伝説もあり、共通点があるのかも知れません。実際に、大阪の人は東京に出るより、ニューヨークやロサンゼルスにいた方が水が合うということを聞いた記憶もあります。確かに大阪の街を歩いていると、違うなという感じになることもあります。 関西弁と一口に言っても、大阪で代表されるわけではなく、神戸、奈良、京都、それぞれに違うということで、神戸出身の人に大阪弁と言うと、違います。神戸弁ですときっぱり否定されます。確かに、ディテールの違いはあるようですが、関西弁の代表を大阪弁と考えると、さほどの違いがあるとは思いませんが。 新大阪駅の新幹線ホーム、伊丹空港のエスカレーター、降りてすぐのところでは、東京と同じように、左に乗ったりする人もいて、混乱していますが、新大阪駅の在来線エリアや、空港からのモノレールエリアになると、当たり前のように右側に寄ってということになり、ここが文化の交差点でだと感じます。 もっとも、京都でも同じかと思うと、そんなことはなく、東京と同じ左側で止まったままということで、確かに関西と大阪が同じではないと気づきました。ニューヨークは大阪と同じということで、大阪の方が東京や京都よりグローバルなのかも知れません。もっとも、アメリカ国内でも、すべての都市がニューヨークと同じというわけではなかったように記憶しています。 橋下旋風が吹き始めてから、大阪都構想、大阪維新と、大阪という言葉が世の中にあふれるようになり、昨年暮れの選挙で、勢いに疑問符が付いたものの、野党第2党で、しかも、政権政党だった民主党とほぼ同じ議席になっています。東京との違い、独自性を主張する大阪が、3000万の関西弁エリアをバックに、元気な街になること、大歓迎です。
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今日も思いつくまま・・2013年1月7日(月) |
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昔、子供のころ、大晦日は特別に遅くまで起きてて良いということで、紅白歌合戦を最後まで見るぞと張り切っても、結局途中で眠ってしまい、気がついたら、元旦の朝だったということが続いていました。除夜の鐘がきちんと聞け、ゆく年くる年を見ることができたのはだいぶ後のことでした。もともと、夜は強くなかったかもしれません。
最近の就寝時間、12時をまわることはほとんどなく、宴会のない日は、夜7時や8時に眠ってしまうこともあります。それでも、途中本格的に目が覚めて、眠れなくなることもなく、気持ちよく、午前4時など、早朝に目覚めます。夜11時前後という、普通の就寝時間に眠っても、早朝目覚めは同じですから、朝の早起きは年令のせいかもしれません。 目覚まし時計に気づかず、寝坊した失敗がなかったわけではありません。当時、深夜勤務が当たり前で、朝が比較的ルーズだった役所勤務の時、来客と約束をしたり、イベントで担当者を集めた時間(たしか、10時だったと思います。)に目覚め、思い切り言い訳をした記憶があります。飯田橋の社宅に入っていたので、現地到着が30分遅れくらいだったのが、不幸中の幸いではありました。 それでも、朝は比較的強かったので、早起きで苦労し、寝坊した記憶がそんなにいっぱいあるわけではありません。今はとても、出来ませんが、徹夜をしたり、1,2時間しか眠れなくても、いつものように朝出勤し、遅刻もせず、深夜まで仕事をすることが出来ました。30才を過ぎるころまでは、そんな状態が当たり前だと思っていました。 仕事ではなく、会食をしたり、飲んだりして、最終電車で帰ったり、電車がなくなってタクシーで帰り、短い睡眠で出勤するということは、もう少し後まで続きました。こちらも43才でニューヨーク勤務になり、時差を克服しなければならないことはあっても、深夜まで仕事や会食という機会が減ったせいもあり、7年後に帰国したら、すっかり早寝モードになってしまいました。 ということで、今は早寝早起きです。会社のブログを書くということや、早めに出勤し、みんなの始業前に仕事をしてしまおうということで、早朝時間を活用しています。6時半羽田発の飛行機に乗るときには、3時半に目覚ましをかけています。その結果、夜明け前の東京を見ることができるなど、おまけもあります。 今年の新年は、珍しく、12時に108つ目の鐘を打つのが除夜の鐘だと、去年までは知らなかった除夜の鐘を聞き、夜中に1時間ほど眠ってから、朝5時ころ、ちょうど空白の時間で空いていた明治神宮に初詣し、そのまま、ほとんど眠らず、1日の夜まで起きていました。1日の夜からは、早寝早起きモードに復帰しました。睡眠時間は足りているようです。
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